夏の天麩羅 〜番外編〜
今年も、全くと言っていいほど雨の降らない梅雨が終わりを告げ、連日35度近い酷暑日の続くとある夕刻のこと。
日中は、黒色の車のボンネットの上でなら目玉焼きを焼くことができるのではないかと思ってしまうほどの日照と気温の中、ジージー、ミンミンとセミ達は連日忙しなく鳴いている。
冷房の効いた店の外へと出ると、日中の日差しによって熱せられ、散歩する犬達の肉球が火傷しないか心配なるほど高温なアスファルトに、私は柄杓で水を撒いていく。
空が青とオレンジ色のコントラストに変わるこの時間帯に行う打ち水によって、熱せられた大地は間接的に冷却され、また、水が蒸発する際の気化熱と、建物と建物の間を吹き抜けていく生暖かい風が、日中の暑さを天へと持ち帰っていってくれる。
古き時代から行われてきた夏の暑さをしのぐ先人達の知恵の一つは、各地で開催されるイベントなどでも行われ、今の時代もしっかりと受け継がれている。
桶に汲んだ水をすべて撒き終わり空を見上げると、青色はすっかり消え去り、オレンジ色のキャンパスに入道雲が広がっている。
そんな過酷な暑さ故に夏バテをするこの時期、世間では
しかし、この夏の暑い日こそ食べてほしいものがある。
一口、二口大に切り揃えられたタネに衣をまとわせ、黄金色をした油のプールの中へと泳がせる料理。
――
煮る、焼く、蒸すなど、数ある調理方法の中でもとりわけ『揚げる』という調理法は、食材の旨味や栄養素などを衣がギュッと閉じ込めてくれるし、短時間にサッと熱を通すことで食材の持つ旨味成分は活性化され、生の時とは違う味わいを得ることもできる。
暑さに負け、どうしても食べるものが偏り栄養が不足がちになるこの時期だからこそ、天麩羅はうってつけの調理方法なのだ。
実は今日、その天麩羅を私が調理し、提供することになっている大事なお客さんが来ているのだ。
その方は、年の頃で言えば80歳近い老女で、藍色の着物を身にまとっている。お店にやってきたとき、この猛暑の中にも関わらず、一雫の汗すらもかいておらず、涼やかな表情で「今年もよろしくお願い致します」といって入ってきた。
大将と老女しかいない静まり返った店内に戻ると、私は前掛けの紐をギュッと結び「よしっ」と、気合いを入れた。
まず、タネとなる食材を揚げていく前に、天麩羅の場合幾つか準備をしなくてはいけないことがある。
一つは衣づくり。
今はインターネットや料理本などで『どうしたらさっくりと上手に揚がるのか?』ということは調べればそれこそ数秒で出て来ることなのだが、衣作りで兎にも角にも一番大事なことは、できるだけ軽く作ることなのである。
粉は、粘り気の元となる『グルテン』が一番少ない薄力粉を使い、そこにコーンスターチを1:1で混ぜ合わせブレンドしたものを使用する。長年大将が使い続けてきた組み合わせである。
「粉の配合は自分で色々と研究してみるといい」
とも言われたが、まだ
次にこの粉を水で溶いていくわけなのだが、常温の水を使うと、いくらグルテンが少ないとはいえ、時間経過とともに温度が上昇が早く衣に粘り気が出てしまう。
そのようなことを未然に防ぐために粉は『氷水』を使って溶いていくのだが、ここで一工程先に行うことがある。キンキンに冷えた氷水の中へ卵黄を加え混ぜ合わせ、卵黄氷水を先に作っておくのである。氷水で粉を溶き、冷蔵庫から卵を取り出し割り入れて、などという工程をしている時間すら天麩羅を上手に揚げるためには惜しいのである。温度を神経質に気にされる職人は、粉すらも使用する直前まで冷蔵庫で冷やしておくのだそうだ。
ちなみに卵の中の卵白はどうするのかというと、しっかりと混ぜていけば腰が抜けるとはいえ、これも衣の大敵である粘りの原因になるので、もったいないが天麩羅をするときは使わない。
店内の冷房で冷たく冷えたボールの中へ粉を入れ、卵黄氷水を注ぎ入れたら、箸を縦にサッサッと軽く動かし混ぜ合わせていく。卵や納豆を掻き混ぜるかのようにグルグルと念入りに溶いてはいけないのである。
時々「しっかり溶かないと後でダマになってもしらないぞ?」と言われることがあるのだが、そんなことは天麩羅に関して言えば気にしてはいけない。一番注意すべきことは、如何に粘りを出さないように粉を混ぜ合わせるか?ということに尽きるのだから。
さて、そんないい加減な溶き方をされたボールの中の衣なのだが、インターネットや書籍などでここまでたどり着いた方の中で、実は、揚げるタネによって使い分けをすることができることをご存知の方はどれだけいるであろうか?
粉混ざりの少ないところは薄衣の仕上がりとなるので、野菜などを揚げるのに適しており、水気の多いものは全く溶いていない粉のところでタネを軽くまぶし、薄衣をさっとつけて揚げてやると良い。
一見いい加減そうに見えるのだが、実は、タネごとに使い分けをすることができ、とても理にかなっているのである。
衣の準備ができたら、次は天麩羅鍋の油を煮えさせることがポイントとなる。
温度の目安は200度。
このくらいの温度になると、衣を箸につけ、油の中へ滴のように数滴ポトンポトンと落としても下の方へは落ちていかない。180度くらいの場合だと、一度下の方へ落ちていって、スーッっと上にあがってくる。
今は油温計などという便利な計器があるが、昔の人達はこの高温の油の温度調整に細心の注意を払いつづけたのだという。
さて、油の準備も整ったらいよいよタネに衣をつけて揚げていく。
初夏から真夏にかけては、天麩羅にする野菜も色とりどりのものがある。
なす、新たまねぎ、新ごぼう、生しいたけ、ししとう、セロリ、えんどう豆、オクラ、新れんこんに新さつまいもなどなど
れんこんやごぼうなど、アクが強いもの達は切ってからアクが滲み出さないように水にさらして、布巾で水気を拭き取っておく。オクラはサッと茹でておいて、同じように布巾で水気をとっておく。余分な水気があると、油ハネの原因にもなるのだが、水蒸気となって衣を内側から突き破り破裂させる原因となる。
衣が破裂してしまうと、油の中へタネの香りや旨味成分が逃げ出してしまうこともさることながら、食材と衣の間に油が入り込んでしまい、最終的に、べちゃっとした天麩羅が出来上がってしまう要因の一つとなるのだ。
「こんなに綺麗に揚がるなんて食材に秘密があるんだろう」
と、言われる人もいるが、食材に秘密なんてないのである。職人達は只々基本に忠実なのである。水気の多い食材は揚げる際にしっかりと水気を取る。たったこれだけのことを疎かにしただけで、仕上がりが天と地のようになr。
魚は白身を揚げると大変に美味しい天麩羅となる。穴子やキスなどが代表例だろう、それと、忘れていけないのはイカだ。表裏に網目状に包丁をいれ、一口で食べられるくらいの大きさに切ったものを揚げてやる。生でも十分美味しいイカに衣をつけて油の中で泳がせてやると、その身はふっくらと柔らかくなり、生の時にはなかった旨味成分が一気に開花活性化されるからだ。
しかし、海鮮系のタネで天麩羅で忘れていけないものが一つある。そう、それは、『海老』である。
あのぷりっとした身の弾力と口の中に広がる甘みと旨味成分。天麩羅を愛している人の一体どれだけの人が、海老だけでお腹をいっぱいにしたいと思っていることだろうか。
そうそう、揚がったタネ達をつける、つけだしも忘れてはいけない。
天麩羅は塩か、つけだし、世にいう、「天つゆ」というもので食べることが一般的である。
みりんを軽く煮切り、そこへ水とかつおぶしを加え煮出し、濃口醤油を加えて濾す。
天つゆには大根おろしやおろし生姜などを加えて、天麩羅を食していくことが多いので、だしが薄いと淡白になってしまうため、醤油のしっかりとした濃さが必要となる。
通ぶった方だと、大根おろしにレモンをちょっと絞った、「ちり酢」を所望される方もいる。
ちり酢とは、お酒を煮切り、そこへレモンを絞って醤油で味を整え、唐辛子をちょっと入れたもの。天麩羅を食べる直前には、天つゆ同様に刻んだネギと大根おろしを溶いていく。
味醂の甘みのないちり酢は、天つゆとはまた違った味を楽しむことができる。
素材一つ一つを天麩羅にして味わったら、かき揚げを揚げることにする。
小エビと貝柱、椎茸に三つ葉という組み合わせがスタンダードだろうか。
今日はせっかくなので新ごぼうを笹掻きにしたものも加えていくことにする。
かき揚げを揚げるときは、なるべく厚くならないようにする。
かき揚げは何と言っても、口に入れた時に「カリッ」っとした食感が一番喜ばれるからである。
なので、揚げる際の火加減には細心の注意を払う必要性がある。心地よい食感のためには少し長めにこんがりと揚げるためだ。
表面がカリッとまとまる状態になったらひっくり返す。イメージとしては、かき揚げで蜂の巣のようなハニカム構造を作るのだと大将は言っていた。
片面ばかり揚げてしまっては反対側がネチャっとしてしまう。揚げすぎてしまうと、油を吸いすぎてベチャッとしてしまう。大将から及第点をもらえるかき揚げを揚げれるようになるまで、どれだけ胸焼けをする日々を続けたか。
「あとは、ご飯とお味噌汁をお出ししたらおしまいです」
と、すべてのタネを揚げ提供し終えた私は、カウンターに腰掛けた老女に言った。
「少しは進歩してると思いますかね?」
同じくカウンターに腰掛けた大将が老女に尋ねる。
「去年よりは…美味しくなったかしらね」
手厳しい一言を涼やかな表情のままさらりと言うと、
「裕ちゃん。大葉。揚げてくれないかしら?」
と言った。それを聞いた大将の表情が緊張感に満ちたものへと変わった。
「富美子。大葉、先に揚げてごらんなさい」
無言で小さく頷いた私は、なんとも言えない緊張感で震える手で大葉に衣をつけると、油の中へと投入した。
「どうぞ」
と、色鮮やか緑の片面だけに薄衣を付けた大葉を老女の前に出したのだが、
「いいえ。これはあなたが食べるの」
一瞬何を言われたかわからなかったが、私は自分で揚げた大葉の天麩羅を自分の口へと運び入れた。
ザクッ
「どうかしら?」
老女は私に尋ねてきた。
「えっと…」
返答に困っていると、大将が大葉の天麩羅を揚げ終えた。
「それじゃ、次は、裕ちゃんが揚げたものを食べてみなさい」
悪いことは何一つしていないはずなのに、老女の発する言葉の音に威圧され、大葉を掴む箸が震える。
サクッ
「!?」
私は目を丸くした。大将の大葉の天麩羅を噛み締めた瞬間、明らかに自分のものとの決定的な違いに気づいた。
「違い、言ってごらんなさい」
と、老女は言った。
「私のは揚げすぎです…」
そう告げると、老女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
私の揚げたものは、言うなれば、薄焼きのせんべいを食べたかのようで食感はとても良かった。言い換えると、それ以外に良いところがなにもなかった。しかし、大将の揚げたものは違った。食感はサックリとし、口の中いっぱいに大葉の爽やかな香りや苦味が広がっていった。
「天麩羅で大切なことは衣作りもそうなんだけど、油の温度をタネに合わせて使い分けること。大葉みたいに薄くて水分の少ない食材を美味しく揚げるには、他のものよりも低温にし、食材の持つ旨味の蒸発を抑える必要性がある。って、教わらなかったのかしら?」
老女は大将の方をチラリとみた。恐る恐る大将の方を私も見る。呆れ顔で佇む大将がそこにはいた。
「…習いました」
「そう。つまり、基本がまだまだ全然身についてないようね」
そう言うと老女は席を立ち、店の入口の方へと歩いていった。
「再試験は、来年の同じ頃でよろしいですか?」
と、大将が尋ねる。
「それでいいわ。去年は…確か8点っていったかしらね?今年は…そうねぇ、29点というところかしら。しっかり勉強するのよ富美子。料理の腕も、呪術の方もね」
と、辛辣な感想を述べると、すっかり日も落ち、闇夜へと変わった店の外へ老女は出ていった。
「29点…」
「相変わらず厳しいな叔母さんは」
がっくりと項垂れる私を見て、苦笑いしながら大将が言った。
――― 叔母さん ―――
私の母の従兄弟にあたるのが大将で、そこから見て叔母にあたる人物。言うなれば私の母の母、つまり、先ほどの老女は私のお婆ちゃんでもあり、イタコとしての師匠にあたる人なのである。
「で、でもでも!!去年より20点増えましたから!!次は赤点脱出してみせます!!」
と、自分で自分のことを鼓舞する。
料理人を目指すと言ったあの日、家族の皆が反対する中、お婆ちゃんだけは応援してくれた。調理師学校を卒業し、就職先を探している時、このお店を開店してまもない大将に「弟子兼雑用係を一人雇ってもらえないだろうか?」という話をしてくれたのもお婆ちゃんだった。
「そうやって意気込んでると、来年また8点っていわれるぞ。来年もテストのお題に天麩羅を指名するとは限らないからな」
このお店で働くにあたって、大将がお婆ちゃんに出した条件がひとつある。
―― 年に一度、叔母さん自ら試験をしてやってください ――
近くにいるとわからないこともある。客観的に第三者からみるとわかることもある。以前働いていた大将のお店に常連のように通っていたお婆ちゃんの舌を信頼した上での条件だった。
「うぐぐぐぐ…お婆ちゃんならやり兼ねない」
呪術者の師匠として手厳しかったお婆ちゃんによる料理試験は、それを上回るほどの勢いで辛辣なものであった。初めての試験の時は点数を付ける価値がない。といわれ、去年がやっと8点、そして今年は29点。
「まぁ、去年よりまではよくなったってことだろう。何しろ今年は、「あなた。こんなものでお代をいただけるとおもっているの?」っていわれていないからな」
と、大将自身も安堵したかのような口調で、私に慰めの言葉をかけてくれる。おそらく料理の師匠としての立場からみても、あの点数の付けられ方は想定していなかったのであろう。
「とりあえず、富。もう一回同じ順番で同じもの揚げてみろ。今からどこがダメだったか見てやるから」
そういうと大将は調理場からでて、カウンターへと移動していく。それに合わせて私は天麩羅鍋に再び火を入れると、天麩羅を揚げていく。
いつの日か、お婆ちゃんから及第点をもらえるような天麩羅を揚げることができるようになるために。
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