-6-

 暦の上では夏になったとは言え、朝夕はまだ少し気温が低いときがある。今朝は、そんな肌寒さと、どこからか聞こえてくる耳慣れない音で目が覚めた。


 枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばして、ロック画面に映し出される時間を確認すると早朝6時。お店の準備をするには随分と早いので、もう一眠りすることにする。布団を肩までかけて、反対側へ寝返りをうつと、目と鼻の先に寝息をたてている友人の顔が現れて声をあげそうになる。


 辺りに目をやると、そこはいつもの自分の自室ではなかった。「そうだ」と今自分が置かれている状況を思い出す。友人の頼みで実家のある遠い地まで赴いてきていることを。


 つまり、いま聞こえてきている聞き慣れない音は、お寺の朝のお勤めの音。


 しかし、それがわかったからといって何かしなくてはいけないということもなく、今すぐ起きなくてはいけない理由もないので、可愛い寝顔の旧友ともう少しだけお布団を暖めることにする。


 意識が夢の中へと吸い込まれそうになった頃、何やら良い香りが部屋まで漂ってきたことに気づく。


「んん〜〜〜〜…良い匂いするぅぅ…」


 どうやら横で寝ていたゆっこもこの匂いで目を覚ましたようだ。旧友と目があった私は、アイコンタクトを送り、ちょっとした手のジェスチャーで意思の疎通がはかると、上着を一枚羽織り、二人して匂いのする台所へと向かった。


 覗き込んだ台所の中にあるコンロの上には、大きめの土鍋が一つグツグツと音を立てている。その傍らには雪平と天ぷら鍋があった。


「ん?おはよう。二人共どうしたそんなところでコソコソして」


 台所の間口から体の一部だけ出して覗き込んでいる私達に気づき、声をかけてきたのは大将だった。


「あ、おはようございます。大将こそどうしたんですか?こんなところで」


「これか?朝食の準備」


 そんなことは改めて言われなくてもわかる。早朝からお昼ごはんや晩御飯の準備をすることなどほとんどない。


「そうじゃなくて、なんで大将が作ってるんですか?って意味です」


 影でコソコソしていた私達は大将の側へと歩みよる。


「昨日副住職に相談されたんだよ。なにか変わった粥の美味しい食べ方はないか?ってね」


 そういうと、何やらお皿で重しをしたものをまな板の上へと持ってきた。


「それは、なんですか?」


 私の背中越しに覗き込んでいたゆっこが尋ねる。


「豆腐をちょっと厚めに切って、軽く重しをして余分な水気を抜いたものだよ」


 豆腐はキッチンペーパーで包まれており、重しによって排出された水気を吸い取りしっとりしているそれを丁寧に剥がしていく。


「それをどうするんですか?」


 と、ゆっこ。


「160〜170度くらいの油で揚げるんだ。使う油は癖のないものを使うと豆腐の味が楽しめていいかもしれんな」


 そういって大将は、油の入った鍋へと水切りされた豆腐を入れる。油の中に入れられた白色の四角い塊を中心として、ジュワァ〜っと泡が放出されていく。


「これは厚揚げを作っているということですか?」


「ご名答」


 油の湯船の中に沈んでいた泡が段々と小さくなり、白い豆腐がすぅ〜っと浮いてきた。それを菜箸で摘まみひっくり返して、反対側も揚げていく。


「とみ。そこにあるネギを細かく切ってくれ。あと、冷蔵庫の中に生姜が入ってるからおろしておいてくれ。もし大根があるようだったら、そいつも同じようにおろしておいてほしい」


「あ、はぁ〜い。わかりました」


 料理人としての仕事スイッチがはいったのだろう。もしくは、ここが自分のお店ではないということを忘れてしまっているのかもしれない。私とゆっこの二人は手分けをして大将に言われた仕事をこなしていく。


 気づけば本堂からの音は聞こえてこなくなっていた。どうやら朝のお勤めは終わったようで、それに気づいてからしばらくすると、


「おはようございます。全員ここにお集まりでしたか」


 と、ゆっこのお兄さんが台所にやってきた。


「朝のお勤めご苦労様。もう少しで出来上がりますよ」


 油の中でお色直しをしてキツネ色の衣を身にまとった豆腐を引き上げ、スッと包丁を入れる。その断面からは、ふるふるとした純白の豆腐が姿を現す。皿の上に盛り付け、先程小口に切ったネギをはらはらと散らし、おろし生姜を皿の脇へと盛り付ける。


 土鍋の中で作られていたものは粥だった。


 そして、私達の嗅覚を刺激し、目を覚まさせた犯人はどうやら雪平の中で作られていたものだったらしく、それを納豆鉢へと移す。


 出来上がったそれらと、先に作られていたものをお盆の上へと乗せ、昨日、私達が食事した場所へと移動して、思い思いの場所へと着席する。


「まぁ、なにはともあれ召し上がってください」


 そういって大将は、人数分の茶碗に土鍋の中から粥を注いでいく。


「大将。この納豆鉢の中身はなんですか?」


「昆布と干し椎茸の出汁を濃いめに摂り、醤油と塩で味を整え、くず粉でとろみをつけたもの。京都の料亭なんかでは鰹節で取った出汁なんかを使うみたいだが精進料理ということで今回は割愛。粥に好みの量かけて食べてください。別の小鉢にあるのは、塩抜きした梅の実を包丁で叩いて味醂と酒で味を整え、白ごまを混ぜたものです」


 さじを手に取ると、まずはなにも入れることなく粥だけで食べる。感じるか感じないかの塩加減。優しい口当たりで、口から食道を通り胃へと運ばれていく時に伝わる暖かさも粥の良さだとおもう。


 納豆鉢を手に取り、黒色の茶碗の中を半分ほど満たした純白の粥の上へと茶透明な銀餡をかけていく。赤や黄、緑などの色鮮やかな食材や、純白の食器を使うことの多い西洋の料理ではまず見ることのない食器と食材の色の取り合わせ。


 しかし、和食という土俵の上での話になるとそれは別である。そこには侘び寂びという美的感性で溢れ、多くの日本人がこの情景を目にしたら「この料理は間違いなく美味しい」と、思うことだろう。


 銀餡をかけた粥をさじで軽くかき混ぜると、粥と混ざりあったことで、餡のなかに閉じ込められていた出汁の香りが一気に開花される。ただその匂いを嗅いだだけなのに、いとも簡単に胃袋を掌握されてしまった。


「はぁ〜〜幸せぇ…この餡とっても優しい味で、付け合せの梅肉は酸味が味醂の甘みですごくまろやかになっていて、混ぜられた白ごまを噛むと、胡麻の香りがふわ〜っと口の中で広がって」


 粥の入った茶碗を持って、夢見心地にうっとりとするゆっこ。


「粥といわれると、付け合せの佃煮や漬物で味の変化をつけるということしか思いつかなかったのですが、なるほど、こういう方法もあるのですね」


 二人はこの銀あん粥を大絶賛しているようだ。しかし、私の関心はそちらの方には向いていなかった。純白色の肌にキツネ色の衣を身にまとった出来たて揚げたての厚揚げ。おそらく生涯で一度も食べたこと無いこれに心を奪われている。


 小皿に取り、熱々のそれを箸で小さく切り分け口へと運び入れる。


「!!!!!」


「ん?富美子どうしたの?」


 行儀が悪いのはわかっているが、私は箸でそれを指した。意味を理解したゆっこもそれを小皿に取り、同じようにして口へと入れる。


「うっそ!?なにこれ!いつも食べてる厚揚げとぜんぜん違う!!」


 私達の反応を見るやいなや、ニヤニヤとする大将。


「そんなにうまいか?」


 女子二人は無言で何度も何度も頷く。


「と、いうことです。よかったですな、副住職」


「もしかして、これ、お兄ちゃんのお豆腐なの!?」


 全く話が見えてこない私は「なにかあったのですか?」と尋ねると、


「実は、大変お恥ずかしながら私の不徳の致すところ、自家製豆腐を作るのに試行錯誤しすぎまして…作っては皆に食べさて、また作っては皆に食べさせ、を繰り返していましたら、いつしか私の作る豆腐を毛嫌いするようになってしまいまして」


「こんなに美味しいのに?」


 粗目におろした大根おろしにちょっと醤油をかけ、それを厚揚げに乗せて食べる。大根おろしの辛味が、豆腐の甘みを引き出し、油っぽさを無効化してくれる。


「何度も何度も何度も何度も失敗作を食べさせられたら、嫌いにもなりますとも」


 プンスカプンスカするゆっこの姿を久しぶりに見た。ほっぺを膨らませている姿はとっても可愛い。


「そんなに失敗したんですか?」


「お恥ずかしながら…十数回ほど…」


 頭を掻きながら、ゆっこのお兄さんは答えた。


「食べられるならまだしも、にがりを入れ過ぎたのか妙に苦かったり、逆に味が薄かったり。全く食べれないやつならまだしも、微妙に食べれるから捨てるのがもったいないって」


 ゆっこプンスカプンスカサウルス、リターン。


 そんな兄妹のやり取りをみて、大将がフォローを入れる。


「豆腐作りは温度や豆乳のタンパク質量が変わってもうまくできないですから、初めの頃の自家製豆腐には失敗はつきものですよ。なにしろ、横で作り方を教えてやっているのにもかかわらず、それくらい失敗したのがいますからね」


 ギクリッ…こんな形で飛び火してくるとは…


「それでは、やはりお店の豆腐はすべて自家製で?」


 ゆっこのお兄さんの質問に、顔の前で手を横に振る大将。


「いやいや、そんな手間のかかることを毎日はしていませんよ。豆腐料理専門店でしたらそうするのでしょうが、うちは言わば小料理屋みたいなものですからね。若かくて腕のいい豆腐屋が、懐かしいラッパ吹きながら売りに来ますのでいつもはそれを」


 なるほど。と、ゆっこのお兄さんは納得した様子。


「と、いうことは、富美子もお豆腐作れるんだ」


「うん。作れるよ。豆乳を買ってきてとかじゃなくて、大豆からね」


「5回に1回くらいの割合で失敗するけどな」


 うぅぅぅ…本当のこととは言え、今言わなくてもいいのに…


「それにしても、厚揚げにするというのは盲点でした。衣をつけて揚げ出し豆腐には何度かしていたのですが」


 揚げ出し豆腐と厚揚げ。同じ油で揚げているもの同士、似ているように見えるがちょっと違う。揚げ出し豆腐は、豆腐に衣をまとわせてから揚げる。かたや厚揚げの方はというと、豆腐そのものを揚げる。


「餡や出汁を張って仕上げる揚げ出しもいいが、豆腐自体の味が良ければ余分なものは付けず、厚揚げにしてしまうのも一つの手ですな。余ったら、甘辛く煮付けてしまえばまた別の一品にもなりますし」


 煮てよし、焼いてよし、揚げてよし、豆腐ってやっぱりすごいなぁ〜。と、改めて痛感させられながら朝食の時間は過ぎていくのでした。

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