-7-

 グツグツグツグツグツ


 店内に出汁の良い香りが漂う。その香りの発生元はコンロの火にかけられた、三つの一人用の土鍋。醤油と味醂で味付けされた出汁の中には、一口大に切られた里芋と人参が入れられている。


「かれこれ、1時間以上経つけど、本当にだいじょうぶなのかね。大将」


 何度目かのトイレから戻ってきた大内さんが、もうその機能を果たすことのできないほどぐっしょりと濡れたハンカチで手を拭きながら席に戻ってきた。


「どれだけ焦ったところで、何の手伝いもできない私たちには黙って待つことしかできないんですよ。今の私にしてやれることと言ったら、あいつの好きなものを作って待っててやることくらいです。町内会長は邪魔しないで待つこと。それしかありません」


 土鍋の中の野菜の煮え具合を確かめると、そこに鶏肉、長ネギ、油揚げを入れていく。


「で、鍋焼きを作っているってことか」


 洗濯機の浴槽掃除など、オーバーホールを終えた梅さんも戻ってきた。


「今やうどんと言ったら、世間ではイコール讃岐になっているからね。トミの出身の稲庭は自分で作るか、誰かが作ってやらないと中々食べる機会はないからね」


 土鍋の中に入れられた各具材が煮え、そこに主役である細くしなやかな稲庭うどんが投入された。


「でも土鍋は三つしかないけど、一つ足らないんじゃないか?」


 今、店の中にいる人間は、大将、梅さん、大内さん、富美子の四人。一つ足らない。


「トミの分はまだ作ってないよ。何しろあいつは1仕事終えるとすぐ分かるから」


 そう言って、かまぼこを2枚ずつ入れ、最後に卵を割りいれ、蓋をする。


「分かるってどういうことです?」


 と、大内さん聞いた時だった。


 ガタン!ドタン!バッタァーーン!!


「ほらね」


 そう言って大将は二階を指差し、コンロに新たに土鍋をセットするのであった。




 お好み焼きの屋台のおばちゃんの御霊に別れを告げ、異界との扉を閉じる。


 それを確認すると、全身を包んでいた霊気をゆっくりと収束させていく。体の中を駆け巡っていた力が抜けていく感覚を感じると


 ガタン!ドタン!バッタァーーン!!


 支えを失ったやぐらのようにその場で崩れ落ちた。


「あぁ〜〜〜〜つかれたぁ〜〜〜〜」


 いつものことながら、着ている服装が乱れることなどお構いなしに、うつぶせに寝転がる。本当は服装を整えたいのだが、そんなことをする体力ですら惜しい。


 しばらくそうしていると、下の階から出汁の良い香りが漂ってきているのを鼻腔が捕らえた。正直な体はぐぅぅ〜〜〜っとお腹が鳴かせる。


「はうぅ〜〜、ごはぁ〜〜〜ん」


 立ち上がろうと体を起こそうとするが、まだ神経回路が麻痺しているのか上手く力が入らない。匍匐ほふく前進をするかのように、さながらテレビから這い出てきた貞子のように部屋をズルズルと移動する。


 ギシッ ギシッ ギシッ


 階段を上がってくる、異なるリズムの音が三つ聞こえる。


「おぉ〜い生きてるか」


 部屋の前で止まった足音の一つである大将の声がする。


「ふぁ〜い、いつもの通りですけど生きてます」


 いつもの通り。そういえば大将には分かると思った。


「そうか…えぇっと、起きあがれるか?」


 前回のこともあり警戒しているのだろう。しかし、私だって馬鹿ではない。今回はあんなことにならないようにちゃんと準備してある。


「ちょ、ちょっとだけ手伝ってもらえると・・・」


 上半身に力が入らないので、体を起こしてくれれば多分なんとかなるはずなのだが。


「俺一人で大丈夫そうだから、おまえらは下で先に食べててくれ」という声が聞こえ、階段を降りていく足音が聞こえる。そのあとにスッと部屋の扉が空いた。


「相変わらず、すごい格好だな」


 呆れた口調で言われる。


「ほら、手出せ。うつぶせだと起こしにくい」


 大将が右手を差しのべてくれているのだが、顔はそっぽを向いている。よっぽど前回のことが身にしみているのだろう。


「大将。そんなに警戒しないでいいですよ。今日は水着着てますから」


 前回の教訓を活かして、下着ではなく、今日は水着を身に着けている。なぜだかわからないけど、下着は見られるのはダメなのだけれど、水着ならOKなのだ。面積は下着とそんなに変わらないビキニスタイル。トップは緑色のレースがついたもの、ショーツはスカートの付き。学生時代に友達とプールに行ったときに使用していたものである。


「わかったから、とりあえず、手を出せ」


 誰かに助けを求めるかのように(実際に助けて欲しいのだが)右手を出す。それを大将は首に引っ掛けるようにして、私の体を引きずり起こす。


「ほら、しゃんとしろ。昼飯に稲庭で鍋焼き作ってやってるから」


 出汁の香りの正体は鍋焼きうどん。それを聞いてテンションが上がった私は、


「稲庭のなべやきぃ〜♪やったぁぁ〜〜♪」


 ハンバーグやカレーライスが晩御飯だと聞いた子供のように、私は両手を上げて無邪気にはしゃぐ。


「おいおい、いくら水着だからってあまりはしゃ」


 そういって大将が固まった。どうしたのかと思っていると、何やら胸元がスースーすることに気づく。恐る恐る目線を下に向けると、はしゃぎすぎた私に悲劇が起きていた。


 ただでさえ、匍匐前進を紛いなことをしてから、抱き起こしてもらって、ろくに服装の手直しをしていないのにもかかわらず、きっと、学生時代から体型がわかっていたこともあるのだろう、着乱れたトップは複数回行われたバンザイ運動で見事にずれ上がり、私の大きくも小さくもないお椀型の胸が片方はみ出している。


「な、な、な、」


 あまりの出来事で声が出ない私。


「まて!こ、これに関しては俺はなにもしていないぞ!むしろ被害者だ!お前が勝手に!!」


 弁明しながら後退していく大将。私は慌てて胸元を隠すように壁際の隅に、それこそ蛇に睨まれたネズミのように小さく震える。


「ううぅぅぅ…お父さんにも見せたことないのに…大将この責任とってくださいよ」


 とりあえず物理的要因から逃れ安堵する大将。しかしすぐに我に返る。


「せ、責任って、お前が勝手にやったようなものじゃないか」


 確かにそうなのだが、乙女心としてはなにかしてもらわないと許せない。半泣き状態の私を見かねて大将が口を開いた。


「わかったよ…どうすればいいんだ。言ってみろ」


「それじゃぁですね…」





 ズルズルズル


 あれから服を着替えた私は矢継ぎ早に一階へ降りて行き、大将お手製の稲庭鍋焼きうどんを食べている。


「いいなぁトミちゃん。海老天つけてもらって」


 と、先に食べ終えた梅さんがいう。


 大将にとってもらった責任というのはすごく簡単で、今食べている鍋焼きの具材に海老天を2本ほど入れてもらったのである。出汁を吸ってぐずぐずになった海老天の衣が私は大好きなのだ。


「えへへへ〜いいでしょぉ〜〜♪」


 そう言うと上機嫌で私はズルズルとうどんをすするのでありました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る