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辰さんの横に座った愛佳ちゃんは着ていた作業着を脱ぎ、壁にかかっていたハンガーへとかけた。Tシャツ姿から覗かせる引き締まった腕と、時々見えるキュッと引き締まった腰回り。同じ女性の私から見てもドキッっとしてしまう
そんな愛佳ちゃんのために大将はキスの天麩羅を揚げる。揚げる、出す、食べる、揚げる、出す、食べる。これを5回位繰り返した頃、大将のほうが先に音を上げた。
「天麩羅ばっか食ってないで他のものも食べろ」
と、苦笑いしながら、キスの出汁茶漬けを彼女の前に出した。
私は、ジャケットの男性から名刺を頂き、目を通した。
ご夫婦のお名前は黒崎さんというらしい。ご実家がこの近くにあり、お父さんが癌治療のため通院されているということで、その看護支援などのために一時的にこちらに帰ってきているとのこと。
「幸いに癌の転移はなく、先月、無事に手術もおわったのですが、病院内での生活が精神的にかなりきてしまったようで」
と、事の始まりについて黒崎さんが話し始めてくれた
「病院内での生活が精神的に、と言いますと?」
大将が尋ねる。
「昔の人というのは頑固なもので、「こんな不味いものが食えるか!」と言って、病院で出された食事をほとんど食べなかったみたいなんです」
それを聞いた辰さんが、遠い昔の思い出を語るかのような眼差しで黒崎さんを見て
「その気持ち、俺はわかるよ。俺も現役時代に仕事の事故で入院したことあるけど、病院食っていうやつは不味いとかっていう次元じゃなかったからな」
「へぇ〜辰さん入院したことあったんだ」と、相槌を愛佳ちゃんが打つ。
「はい。方々から「病院食=不味い」と聞かされていましたので、私もずっとそう思っていました。それで、本当にそうなのかと、父が残したものを少し頂いてみたんです。ところが、不味いどころか、美味しかった。確かに父が好きな味と比べたら薄味でしたけど、不味いというわけでは決してなかった」
そこに、出汁茶漬けを完食し、「ごちそうさま」と手を合わせた。愛佳ちゃんも話に参戦してきた。
「そうそう。去年うちのばあちゃんが転んで入院した時「病院食って、みんながいうよりもずっと美味しいじゃない」って言ってた。看護師さんも、ご飯が不味いって何よりの苦痛だから、今はどこも頑張ってるんだって」
「やっぱりそうなんですね」
と、黒崎さんの奥さんが答える。
「病院の先生には、家に戻ったらきっと食欲も戻るだろう。なんて言われていたのですが…」
話し方のトーンが変わった。それを察し、
「食欲は戻らなかった。ということですか」と、私は尋ねた。
「母が他界してからというもの、食事はもっぱらコンビニと外食で済ませていたみたいなんです。体には良くないかもしれませんが、食べないよりかは、と、思い、食べたいというものを言われるがまま買ってきては食べさせていたのですが、それも二口、三口手を付けるだけで」
「失礼ですが、奥様のほうはお料理は?」
と、大将がたずねると、
「妻はこの辺の出身ではないので、料理の味付けが全く違うんです。私は長いこと一緒にいますし、味の好みの好き嫌いもそこまでないのでいいのですが、父はそう言ったところは頑なに頑固な性分で」
以前、ラジオの新婚夫婦の相談事のコーナーで聞いたことがある。結婚したときにまず最初に揉めるのが、奥さんや旦那さんが作る料理の味が口にあわないということ。特に、一番の問題となるのがお味噌汁だといっていた。
日本各地にたくさんの種類の味噌があり、それこそ出汁の取り方、入れる具材、切り方、一重に同じ地域に住んでいるといっても、各家庭によって違いが生まれる。同棲していたのでなければ、奥さんの実家の味と旦那さんの実家の味が結婚したあと初めて衝突することとなる。実際は、そこからその新しい家庭の味が生まれ円満になっていくわけなのだが。
「日替わりで、手作りの惣菜などが入った弁当を配達してくれるお弁当屋さんや、美味しいと評判のお店に行ってもみたのですが反応は薄くて。元気だった頃は、それこそ、うどんだったら最低でも3杯は食べていたんです。それがいまじゃ1杯も怪しいほどに食べれなくなってしまって」
「それだったら」と、口を開いたのは辰さんだった。
「ここに連れてこればいいじゃねぇか。大将の料理だったら食欲復活間違いなしよ。な?愛佳」
「そうそう、それがいい♪それがいい♪」
と、盛り上がる常連二人を見て、
「俺ごときじゃ無理無理」
と、白羽の矢を立てられた大将自らがバッサリ切ったのであった。
「えぇ!?どうして!?」
と、ふくれっ面をする愛佳ちゃん。
「もちろん、やってみる価値はあると思う。が、話を聞いてる限り、親父さんは気鬱になっているようだ。食に対する関心自体が欠落してしまっているんだろう。味なら誰にも負けない自信はあるが、親父さんの凍った心を溶かすだけのものが作れるかというと自信はない。長年の料理人の経験から言って、こういった時に心を動かしてくれるのは『思い出の味』ってやつだけだ」
その大将の発言を聞き終えると、わらにもすがるような思いをした目で黒崎さんが私を見つめてきた。
「はい。それで、このお店の噂を聞きつけてやってきたんです」
店内を見渡せば、全員の視線が私に向けられている。
なんだろう…この無言のプレッシャー
「えっと…どこまで、お力になれるかはわかりませんが。どなたの何をつくれば…」
恐る恐る私は黒崎さんに尋ねると
「先週、お弁当の中の卵焼きを見ながら父が、「かあちゃんの卵焼き。もう一度くいてぇな」って言ったんです。退院してから今の今まであんなに名残惜しそうに食べ物の名前を言ったのは初めてでした。どうか、母の卵焼きを作ってはいただけないでしょうか」
そういうと、再び椅子から立ち上がり今度は私に深々と頭を下げる黒崎さん。隣の奥さんも席から立ち上がると「どうか、よろしくおねがいします」と、一緒に深々と頭を下げられる。
そぉ〜っと、横目で大将、辰さん、愛佳ちゃんの方へと視線を向ける。
『断ること此れ重罪即極刑』みたいなオーラを三人共発していることを感じる。
「う、うまく行くかはわからないですが、私の力になれる限りはお手伝いさせていただきます」
と、私は返事をした。
「ありがとうございます。よろしくお願いします!」
と、額をカウンターにぶつけんばかりに何度も何度も黒崎さんは頭を下げられた。
こうして、黒崎さんのお父さんが食べたいった、『黒崎さんのお母さんの卵焼き』を作ることとなったのでした。
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