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 シュルル…


 年頃の女性の部屋と比べたら全くと言っていいほど何もない、がらんとした畳張りの室内に、衣を脱ぐ音が響き渡る。


 きつく締められた帯を解く音。それによって締め付け、固定されていた柔らかな生地でできた着物がはだけていく音。一切の汚れのない純白の白衣と緋袴ひばかまを脱ぐ音。そして、それらを丁寧に畳み、すっくと立ち上がる音。そして、術中邪魔になるからと、後ろで束ねて置くために使用した髪留めを取り外し、それを解きほぐす音。


 視線に入った姿見の前には、上下純白の下着を身につけ、肩まで伸ばした黒曜石のように艷やかな髪の細身の女性がそこにはあった。


 クシュン!


「さ、さむぃぃ〜〜!!」


 のんきに姿見に写る自分を見ている場合ではない、季節は冬なのだ。術中は全身のありとあらゆる感覚器官が研ぎ澄まされたり、シャットダウンされたりして感じることはないが、それらが終わった今、一糸纏わず素肌でいると室内の温度の低さを改めて痛感する。


 肌着に黒のタートルネックのセーターとGパンをそそくさと身につけ、髪を櫛でかし終えると、お店の開店準備をするためにトントンっと階段を下りていく。


 今、私はどこにいるかというと「つくし」の二階。


 大将は持ち家があるためお店が終わると家へと帰られる。なので、料理人見習いの住み込み状態の私は、このお店の二階を生活のスペースとしてお借りしているのです。大将がこの物件を見つけた時、すでに一階は飲食店(うどん屋だったらしい)で、店長が二階で暮らしていたそうです。なので、お風呂もトイレも綺麗な状態で問題なく使えるのです。


お店の方にヒョコッと顔を覗かせると


「おはよう。で、どうだった?」


と、大将は仕込みをしながら私の方をチラリと見て言う。


 今しがたまで、一体私がなにをしていたかというと黒崎さんのお母さんを現世に降ろす儀を行っていたのです。


「おはようございます。奥さんには『だらしない旦那を宜しくお願いします』っていわれちゃいました」


 私は肩上げ、ふふふっと苦笑いをする。


まさか故人にまでプレッシャーをかけられるとは思っていなかったが、奥さんとの対話は無事に終了した。


「あんなにいっぱい手料理作ってあげたのに、卵焼きが食べたいだなんて、ほんと子供なんだから」と、涙声でいう奥さんとの対話で貰い泣きしてしまいそうであったが「あの人が元気になるのなら」と、思い出の卵焼きのレシピも教えていただけた。


「そうか。それで、作れそうか?」


 野菜の下ごしらえの手を休める事なく、大将は問いかけてくる。


「調理方法なんかは特別変わったものではありませんでした。ただ…」


「ただ、なんだ?」


 しゃべりながらも大将は、完璧な包丁捌きで里芋を一様に背の整った六方剥きで仕上げていく。


的なものがあるのですが、それが簡単に手に入るものなのかな?とおもって」


 カウンターの椅子に腰掛け、スマートフォンでその隠し味を調べる。産地、原料、中々ヒットしてこない。そもそもそんなものでこれができている。ということ私は今日初めて知ったのである。


 どうして、そこまで産地や原料までこだわるのか。それは、故人の味を再現する場合、時期外れの食材でもない限りできるだけ産地も合わせていかなくてはいけない。ものによっては地域で微妙な味の変化が発生してしまうからだ。


「むぅぅ!?でてこないぃ!でてこなぁ〜〜い!!」


 目当てのお菓子を買ってもらえない子供のようにジタバタとする私。


 そんな私を見て、新聞紙を丸めて大将が頭をポカリと叩いてきた。


 このままだと、つてもないのに現地に行って仕入れをしてこなければいけない。それだけはできれば避けなければいけない。


 ガラガラッ


 暖簾もあげていない開店前の時間なのにお店の扉が開いた。


「おはよぉ〜、裕次郎さんいる?あ、いた♪」


 そういって、お店に入ってきたのは紡績工場の奥さんの優子さんだった。


茶褐色の髪をポニーテールにし、作業場のエプロンを身につけ、なにやら紙袋を持っている。見た目は近所にいそうな奥様なのだが、その一つ一つの動作に気品を感じる。お化粧もほとんどしていないのに、いつ見ても綺麗な憧れの女性である。


「おう、優ちゃんどうしたこんな時間に」


 仕込みの手を止め、手を洗いタオルで拭くと、大将はカウンターの外へと出て行った。


「昨日、旦那が品評会の出張から帰ってきたんだけどね。そこの商工会で出会った蕎麦畑の農家さんと意気投合したらしいの。そこまでは別にいいんだけど、お土産にこんなものもらってきたのよ」


 といって、持っていた紙袋からでてきたのは真空パックされた『蕎麦の実』だった。それを受け取り、パックの裏面のラベルに大将が目を通すと、


「へぇ、今年取れた新蕎麦の実ですか。で、これがどうしたのですか?」


「はぁ」と、優子さんが一つため息をつく。


「「一般家庭でこんなものもらってどうするのよ!」っていったら、だったら、裕次郎さんに蕎麦を打って貰えばいいじゃねぇかっていうの。だから朝も早くからやってきたというわけ」


 いま優子さんが話した、昨晩お家でおきたと思われるその光景を、私は頭の中でシミュレーションしてみる。


うん、あの旦那さんなら絶対にそう言う。間違いなく言う。と一人で納得し、うんうんと首と縦に振るのであった。


「頂いていいのでしたらありがたく使わせていただきます。それで、お望みの蕎麦はいつお作りしましょうか」


と、大将が尋ねると、


「それがあの人また出張に行っちゃったの。なんでも、その親しくなった農家の人がお客さんを紹介してくれるんだとかなんとかいってたんだけど、どうせ仕事はちょろちょろっとやって、結局飲んで遊んで帰ってくるつもりなんでしょうけどね」


 再度シミュレーションしてみる。あ、いま新幹線に乗りました。営業して、朝から居酒屋さんに入って、うん、飲んでる。あ、二軒目に行くようです。と、一人ニヤニヤしながら納得する。


「それでどちらまで?」


「それがね…」


 と、優子さんがその地名を言った時、私は雷に撃たれたかのような勢いで椅子から立ち上がった。


「ど、どうしたのトミちゃん、急に立ち上がって。もぉ椅子転がってるじゃないの、大将に怒られるわよ」


 私は優子さんの元に駆け寄り、手を握りしめる。


「優子さん!お願いがあります!」


「え?え?」


と、突然のことで目を白黒させる優子さんに、私は事の始まりについてお話するのでありました。


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