6 - 3 不完全な石
「君の理論は、『神の文字』を否定する」
ゆっくりとこちらを向くハレマイエル先生。
「君の理論は、ゴーレムに意志や感情を認める」
赤ぶち眼鏡の奥、鋭い眼光が私を射抜く。
「それは、この街において決して許されることではない。この歪な楽園を生かし続けるには、我々を支配する『神の文字』と、我々が支配するゴーレムが、必要不可欠なのだ」
歩みを止める一同。
マリウスがことの成り行きを見守っている。
ヨゼフの眼差しが鋭くなる。
「『神の文字』、すなわち言語信仰は、千々に乱れた人心をまとめる絶対的な象徴だ」
聖地や偶像ではない、誰もが持つことのできる象徴。
「言葉のやり取りで意志を交わし団結しなければ、人は生存できない。しかし『破局』を経た人々は、他者や言葉を信じることをやめてしまった。人種も民族も宗教も政治信条も、ただいたずらに人を別つだけだと考えるようになった。そんな人々を辛うじて統制できているのは、『神の文字』を基にする言語信仰のおかげだ」
『神の文字』は人に数多の希望を与える。
いつかみな『
だが。
「そもそも、人の言葉は不完全だ。コミュニケーションを繰り返し齟齬を小さくすることはできるが、齟齬を無くすことは原理的にできない。人は、未だ明示されぬ迂遠な過程から言葉の深層を学ぶ。それは複雑でごく個人的な経験だ。故にその過程は人によって異なり、最後に事象へ張り付けた名が、たまたま他者と一致するに過ぎない」
先生の瞳は得体の知れない光を宿す。
「結局、人が真に理解し合うなど不可能なのだ。言葉は決して伝わらない。だから、語りえぬものについては、沈黙せねばならない。だが『神の文字』にそんな限界は無い。いつか『神の文字』による齟齬なき意志の疎通が可能だと信じるからこそ、我々は団結できたのだ」
かつて私の恐れた言葉の齟齬。その恐怖は私だけのものではなかった。
『破局』を生き延びた先人たち、そして先生までもが、それに怯えていたのだ。
けれど団結した人々が築くのは、神の怒りに触れ突き崩される巨塔ではないのか。
「そしてその奇跡の文字は、泥人形を結合し運動させる。科学の世紀を経てもなお理解を拒む超常の業、揺らぐことのない奇跡の顕現。『破局』で心をすり減らした人々に何かを信じさせるには、それを示すより他になかった」
だというのに。
「君の理論の前提は、奇跡の根幹を否定する」
淡々と語る先生。その顔は無表情だが、それでいて憤怒や後悔、そういった負の感情を伺わせる。
「そしてゴーレムは、この街を生かすために必要不可欠な労働力だ」
同じ仕事を何度でも繰り返し、文句すら言わない理想の労働力。
「数十年間停滞し続ける文明の中で百塔の街を生かすには、ひたすらゴーレムの物量に頼るしかない。しかしゴーレムは量産に向いたものではなく、陶工の精緻な手作業と、煩雑な奇跡の手順を踏まなければ完成しない。一時は『その三文字』の強引な増産で必要数を確保したが、近年は原因不明の暴走によって余裕がなくなってしまった。この統計を超えた暴走が頻発すれば、街は簡単に滅んでしまう」
このぬるま湯のような――かろうじて凍りつかない程度の――安寧は、私たちにその事実を忘れさせる。
「にも関わらず、君の理論はゴーレムに意志や感情を認め、やがて人に等しくなるとまで主張する。君は、そんな情緒豊かなゴーレムを使い潰せるかね? 涙を流して許しを乞うゴーレムを、しょせんは泥人形だと足蹴にできるものか。人は必ず、救いの手を差し伸べてしまうだろう。その慈悲が自らの首を絞めると知っていながら」
そう。
その通りだ。
決して私はゴーレムをないがしろに出来ないだろう。これほどまでに、ヨゼフを愛おしく感じているのだから。
「だからこそ、『その三文字』はゴーレムの口を噤ませる。発話によって自らに追記することを禁じるために」
小さく息をつき、先生は言った。
「ゴーレムが
先生の瞳が昏く光る。
「そもそも、『神の文字』はまやかしだ。仮に『神の文字』が実在しそれを授かったとしても、我々人が不完全である以上『神の文字』も不完全な運用をされる。我々は、決してその恩恵を受け取れない」
言葉が正しくとも、人は間違うのだ。
床に目を落とす先生。
その自嘲的な笑みを、私は直視できなかった。
「人が人という塔に囚われている以上、我々は、決して完全な意志の疎通を得られない」
最後にぼそりと、先生はつぶやいた。
そして顔を上げ、眉根を寄せながら言い放つ。
「信仰と社会を維持するため、我々『その三文字』は、君の理論を許容しない。もちろん『話者』も」
後ずさる私。
ヨゼフが庇うように前に進み出る。
「うかつだったなぁお嬢ちゃん。だから俺たちは言ったんだ。語りえぬものについては、沈黙せねばならないと」
「なぜファブリが導師を辞し、あんなところで土いじりをしているのか、もう一度よく考えるべきだった」
ほんの僅か失望の色を浮かべる先生。
咳払いの後、改めて告げる。
「ヘレナ君、悪いが君を野放しにするわけにはいかない。レーヴ君の計画が終わるまでこの城で軟禁させてもらう」
ヨゼフは応じず、私を庇ったまま身構えている。
「プリムス、君は我々と来なさい。君は全くの不確定要素だ。君の起動はレーヴ君すら感知していない。そんな得体の知れない存在は、必ず我々の妨げになる」
そんな……!
この期に及んで先生は、私とヨゼフを引き離そうと言うのか。
私は不安にかられヨゼフの手を掴んだ。
ヨゼフが、ぎゅっと握り返す。
「真にヘレナ君を守りたいなら我々に協力しなさい。君という想定外のせいで狂った予定を、君の手で修正してくれ」
計画、予定。
先生は何の話を……。
我が父レーヴは、いったい何を……?
急転する事態。
先生の目が、教育者のものでも研究者のものでもない昏い眼差しが、私を不安へ陥れる。
薄ら笑いを浮かべるマリウスが恐ろしい。
私が信頼できるのは、もうヨゼフしかいない。
しかし彼は逡巡するのだ。
『ヘレナ君を守りたいのなら』
その一言に、動揺して。
私はヨゼフの手を引きよせ懇願する。
「一人にしないで……」
ヨゼフは一歩も引きさがらないが、その目に迷いの色を宿している。
その刹那、
「あいかわらずですね、先生」
私のものではない少女の声が響く。
高く、よく通る声。
続く銃声。
背後から飛来する弾丸。
先生を射抜くと思われたそれは、マリウスが抜き放った戦斧に弾かれた。
「不可視化の禁令を実行しているな。セクンドゥスがいるぞ」
霧の中から現れるように浮かび出る人影。
私の背後から十数歩のところに、黒尽くめの男が立っていた。
黒い外套と目深にかぶった帽子、縁から僅かに金髪が覗く。
手持ちで扱うものではないだろうに、黒く長大な重機関銃を立ったまま構えている。
その背後には白髪の少女。
鞠のように結われた二房の頭髪、流れ落ちるしなやかな髪。
「ナーナ君、学校はどうした。君はこんなところで油を売っていられるほど、優秀ではないはずだが」
「でたらめを教えてるくせに、偉そうなこと言わないでください。先生」
「よお、セクンドゥス。ヨゼフにやられた傷が治ってないんじゃないか?」
「あの程度……。それと、今の名はカレルだ。マリウス」
突如現れた
そして、彼らを知るハレマイエル先生、マリウス。
ヨゼフは私を庇ったまま、どちらにも心を許せず身構えている。
「ヘレナさん! ハレマイエル先生についていっちゃ駄目! 先生とレーヴ教授の計画は」
「ヘレナ君、『大隊』のならず者に耳を貸すな」
ナーナを遮る先生。
「プリムス、いやヨゼフだったか。ヘレナ君を守りたいのなら、私たちと共に来なさい」
「駄目!」
ナーナが呼び止める。
いったいどちらが。
私の視線は、両者の間をさまようだけ。
焦燥が私の胸を締め付ける。
ヨゼフにすがり、けれど答えは出せないまま。
にもかかわらず。
私の逡巡をよそに、ヨゼフの目が澄んだ光を湛えた。
「ヘレナと一緒にいられないのなら、僕は、行かない」
私の手を強く握りしめる。
大きな手で引き寄せ、私を強く抱きしめた。
小さくため息をつくハレマイエル先生。
顔に手のひらをあてがい冷静さを保ちながら、先生はゆっくりと交渉を始めた。
「お前たち『大隊』が、ヘレナ君とプリムスに手を出さないのなら、こちらも手を引こう」
「それも駄目」
「『大隊』の方法が如何に不完全か理解していないわけではないだろう。残された僅かな時間で百塔の街を救うには、我々の計画以外にあり得ない」
「だからといって、街のゴーレム全てを犠牲にするなんて……! 例え街が残っても『破局』直後に逆戻りすることになります!!」
「それは仕方ない。もとより全ての人を救う方法は無いのだ。むしろ、ここまで街が永らえた幸運に感謝すべきだ」
諦念と共につぶやいた後、ハレマイエル先生は問いかけた。
「結局、ガルもブスマンも考えを変えるつもりはないのか?」
黒い男――セクンドゥスと呼ばれ、カレルと名乗った男――が答える。
「そうだ。ガル博士は、ハレマイエル先生と違うやり方で街を救うつもりだ」
「後少しで目途が立つのに、どうして待ってくれないんですか……?」
必死に訴えるナーナ。
しかし先生はにべもない。
「我々『その三文字』は充分に待った。しかし、お前たち『大隊』は有効な打開策を提示できなかった。この街に、これ以上の猶予はない」
おそらく双方の目的は同じ。
この街を救うこと。
しかし、手段があまりに違いすぎるのだ。
命を賭しても許容できないほどに。
「ヘレナさんの力を使えば、もっと犠牲を減らせるはずなのに……!」
私の力?
唐突に呼ばれた私の名。
けれど、思い当たる節は無い。
一体ナーナは何を……?
視線をハレマイエル先生に戻す。
すると、先生は小さく呟いた。
「ガルは……」
静かに眉間に皺を寄せ、
「まだ……」
絞り出すように、ゆっくり、
「それを……!」
むき出しにされた歯の奥から、憤怒の声がほとばしる。
「ならば、もう語ることは無い!!」
その激情はとどまることを知らない。
「ヘレナの力」という言葉に怒り、声を上げた。
「マリウス! 禁令一一から一〇二四を解禁。外形無制限。形而下学的全挙動を解放、統語論の放棄を許容する。
全質量であたれ!!! そう言い放った。
「御意」
外套を脱ぎ捨てシャツを引きちぎるマリウス。
その下から赤銅色の筋肉が現れる。
逞しい胸板。
そこには大きな裂け目が覗いており、太く鋭いかすがいで、かろうじて繋ぎとめられている。
「まずい」
げヴぉヴぉヴぉと鼓膜を震わす爆音が響く。
周囲のゴーレムが先生とマリウスを庇う。
跳弾がカレルの帽子を弾き飛ばした。その額で青白く光る『真理』の三文字が露わになる。
護衛のゴーレムが突撃してくる。それをいなしながら、カレルは肉薄する。
片手で機関銃を、残りの片手で戦斧を引き抜き、迫るゴーレムを砕いていく。
その奥で、マリウスが胸のかすがいを抜き放った。
裂け目が押し広げられ、どす黒い液体がほとばしる。
びちゃびちゃと音を立てる泥水。
マリウスを遮るゴーレムたちが、弾丸に耐えかねとうとう砕け散る。
到達する弾丸。
しかしそれはマリウスを穿たず、どす黒い泥水――まるで何かの腕のように躍動する――に遮られた。
自ら右目の大きな眼帯をむしりとるマリウス。
露わになった右の額から、真っ赤な光が放たれる。
『真理』の三文字を象った、禍々しい光。
「ヨゼフ、お嬢ちゃん。禁忌の行き着く先を見せてやる」
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