6 - 4 黒い濁流

 濁流のような泥土が迫ってくる。


 全てを呑み込む、唐突で理不尽な黒い濁流。

 狭い通路を埋め尽くし、私たちを押し包もうと追随する。


 その表面に時折『神の文字』が浮かび上がる。

 でたらめな文字列。

 いや、それは列の体を成しておらず、角度も大きさもめちゃくちゃだ。


 おそらくは今のマリウスを表す『その名シェム』。

 人でも獣でもなく、ただ泥塊となり追いすがる化け物の『その名』。


 津波のようにうねる表面に、なんらかの構造物が現れる。小さな球体がきらめきながら右往左往する。

 きっとあれは目だ。

 眼球、或いは光学的な受像器官を模したもの。


 既に生物の形を失ったマリウスにとって、目が目の形をしている必要などない。

 眼球として最低限の――あるいは最大効率の――感覚器を形成し私たちを認識しようとする。


 虚ろな眼が周囲を睥睨し、索敵する。

 その瞳が私を捉え打ち震えた。


 疾駆したまま振り向き機関銃の弾を撃ち込むカレル。

 まがい物の眼球が砕かれ泥の中で攪拌される。


 しかし泥塊はなんら怯えもひるみも見せず、勢いを増し追いかけてきた。


 カレルの舌打ち。

 間髪居れず彼は柄付きの榴弾を投げ込んだ。

 しかしそれは泥の奔流に呑まれ、炸裂しない。


 私を抱え全力で走るヨゼフ。

 ただ私を守るため逃げ続ける。


 ……ハレマイエル先生との決別が正しいのかはわからない。

 しかしヨゼフは躊躇わず、私を悪夢から遠ざけようと疾走する。


 通路のあらゆるものを呑み込みながらマリウスは流量を増していく。


 前方にゴーレムが立ち塞がる。

 城を守る衛兵型ゴーレムが、大きな体で私たちを阻む。


!」


 カレルにしがみつくナーナの叫び声。

 その声を聞いたゴーレムは、ナーナに恭順を示すかのように立ち止まった。


 早口言葉で檄を飛ばし、濁流を食い止めるべく突撃させるナーナ。

 衛兵たちは、ほんの僅かに流れを押しとどめた。


「私の名前はナーナ・バールシェム。バールは『の主』って意味。『戒律の書』奥深くにあえて残されたルート権限、その鍵がこの名前」


 ちらりとこちら見ながら、彼女はずいぶん早口でそう言った。


「私は現行のゴーレムほぼ全てに命令を上書きできるの。ゴーレムを使役する人間の暴走を食い止めるために。それが私の一族の使命」


 


「城から出れば『大隊』の支援が得られる。それまで持ちこたえろ」


 カレルは大量の武器を背負いながら、息も切らさずそう言った。

 黒い男カレル。彼もまたゴーレムであり『話者』なのだ。


 濁流はとどまるところを知らず、やがて衛兵型ゴーレムを呑み込み追いすがってきた。

 二股に差し掛かる。左に折れようとしたその時、


「先回りされたか」


 鉄砲水のように躍り出る泥土。


 カレルは機関銃で天井を撃ち砕き、老朽化した梁を落下させる。

 瓦礫に押しつぶされるマリウス。

 しかし、それは効かないはず。


 あの地下道で、もう少しよく考えればよかったのだ。

 なぜ貝塚型がマリウスを襲ったのか。

 なぜマリウスが崩落から生き延びたのか。 


 泥土が瓦礫の隙間を縫ってくる。

 不定化したマリウスに物理的な障害は無いに等しい。

 蟻の這い出る隙間があれば、彼はどこでも戦える。


 再び濁流となり襲い掛かるマリウス。

 全てを呑みこむ濁流に、抗うすべはない。


 カレルは背に回していた擲弾発射器を脇に抱え振り返る。

 がちりと引き金を押しこみ弾頭を射出。

 轟音と共に濁流に着弾し、煙と破片を撒き散らした。


 マリウスを構成する末端が飛沫となってはじけ飛ぶ。

 そのいくらかは砂となり力を失うが、総体にはなんら影響を与えない。


 砂となった自身を巻き上げ黒い濁流が迫ってくる。


 ヨゼフとカレルは全力で逃走する。

 まがい物の筋肉ははちきれんばかりに服を押し上げ、少しでも怪物から距離をとろうとあがいている。


 通路の結節点にさしかかる。

 門番のように立ちはだかる衛兵型。


 ナーナの号令が再び彼らを虜にした。

 しかし、その後ろには隊伍を組んだ歩兵型。

 ナーナの言葉が届く直前、彼らの銃は火を噴いていた。


 私を胸に抱えたまま、とっさに背を向け銃弾を浴びるヨゼフ。

 肉にめり込む銃弾の衝撃が伝わる。

 ぱきゃっと気味の悪い音がした。


 膝をつくヨゼフ。

 左足が砕け散っている。


 銃弾に穿たれながらもカレルが反撃する。

 人間離れした正確な点射で、歩兵型の額を射抜く。


 カレルの背後、すなわち私とヨゼフの正面へと迫る濁流。


 砕けた足はすぐには治らない。

 ヨゼフが上体をねじり私を投げ飛ばす。


 宙を舞う私。

 その目前で、ヨゼフが呑み込まれる。


 あの事故の情景が頭をかすめる。


 金色の夢の終わり。

 躍りかかる黒い濁流。


 一瞬、ほんの一瞬だけ、時の流れが遅くなる。


 肩口から、覆い隠すように浴びせられる泥水。


 僅かにのけぞるヨゼフの上体。


 濁流に消える横顔。


 ああ。


 また……。


 一時歓喜に打ち震え、ひときわ明るい光を放つマリウスの『真理』の三文字。

 すぐにカレルへ追撃しようと鎌首をもたげる。


 しかし唐突に、その泥塊は光沢を失った。

 ぼたぼたと崩れる波しぶき。

 そして、悶えるかのようにびくびくと震えた。


 零れ落ちた泥濘が床に広がっていく。


 ごろりと大きな塊が転がり出る


 それは胎児のように丸まったおぼろな人型。

 形の崩れた泥水が、その塊を取り囲む。


 周囲の泥水を取り込み、ぐねぐねと蠕動しながら塊は立ち上がり、徐々に人型を取り戻していく。


 その姿は……。


 それは、愛しいヨゼフの形だった。


 彼の首が、僅かにこちらへ顔を向ける。

 ちらりと私を見やる目。

 その金色の瞳は、


「一人にはさせない」


 決して負けない、強い意志に輝いていた。


「土ってのは意志の強い奴が好きでな」


 崩壊を免れた泥土――そちらの方がはるかに多い――がマリウスを象る。

 屈強な人型が口を開く。


「お前らはただの土くれじゃない、俺の一部なんだ、そうやって『意味』を与えてくれる奴の言うことは、驚くほど素直に聞く」


 胸の傷を露わにしたままマリウスは語る。


「土も人と同じだ。無意味は寂しいんだと。せっかく手に入れた言葉を手放すのが怖いから、土は原型を維持しようとする」


 その顔はずいぶんと楽しげだ。


「だが、お行儀よく『戒律の書』に従ってるゴーレムはろくな言葉を与えてくれない。だから俺は簡単に土を説得できる」


 大きな拳を握りこみ腰を落とす。


「お前はやっぱりこっち側だ、ヨゼフ。頑固で、なかなか説得できん」


 ヨゼフも無言で構えをとる。


「それに、お前の『戒律の書』はセクンドゥスカレルのように禁令を外されているだけじゃない。そもそも、お前に刷り込まれているのは『戒律の書』なのか?」


 マリウスの問い。

 しかし彼は返答を期待していない。


「お前の思考を象る樹形図は終端が無い。まるでセフィロト。いや、人の樹形図だ。こんなものを書き込めるのは……」


 まあいいか。

 マリウスがにやりと笑う。


 カレルの銃火が、再び戦いの火ぶたを切った。

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