7 枝分かれ無き大樹、あるいは巨塔

7 - 1 石造りの森

 金色の森。


 佇む兄。


 いつも見る、あの夢。


 吹きわたる風が木々の葉を撫でる。

 尖塔から響く鐘の音が聞こえた。


 私を見て、はにかむ兄。


 やはり私は駆け出すのだ。

 その胸にたどり着けないと知っているのに。


 兄の名を呼ぶ。

 兄が手を差しのべる。

 ああ、そうしてまた、兄は真っ黒な濁流に押し流されるのだ。


 しかし。


「お兄ちゃん!」

 私は、兄の腕に飛び込めた。

 その胸に顔を埋め、決して離すまいと固く兄を抱き締めた。

 満面の笑みを浮かべる幼い私。

 けれど、今の私は言い知れぬ不安を感じている。


 ゆっくり顔を上げる。

 夕陽を背負い、逆光で真っ黒な影になった兄の顔。

 その口元が笑みを浮かべる。


 ああ、なぜ笑みだと分かったのだろう。


 ぽとりと何かが顔に落ちてきた。

 指でつまみ凝視する。


 それは、土の塊。

 どうしてこんなものが。

 再び見上げた兄の額は、淡い光を放っている。

 紫色の不気味な光を。


 その光で露になったのは、耳や鼻のこそげたどくろのような顔。

 ぽっかり空いた眼窩が私を凝視する。


 声にならない悲鳴を漏らす幼い私。

 しゃがみこみ、震える私に視線を合わせる泥人形。


 そして、強く、骨を砕くかのように私を抱き締めた。

 その顔は虚ろな笑みを湛えたまま。


 肺から空気が絞り出される。

 骨がみしみしと音をたてる。


 泥人形の肩越しの景色。

 そこには、小さな兄と手を繋いだ父がいた。

 兄が手を振り別れを告げる。夕陽へ振り向き歩き出す二人。


 必死にもがき口を開く私。

 けれど私は、兄の名を呼べないまま。

 代わりに、ばきりという大きな音がした。



   …



 シーツが汗でぐっしょり濡れている。

 恐怖で呼吸が浅い。

 けれど私は、あの悪夢にはまだ別の結末があるのかと、どこか冷めた頭で考えている。


 金色の森、鐘の音、吹きわたる風、佇む兄。

 もう何度見ただろう。

 あの情景はいつでも私を慰め、最後に裏切る。


 けれど、今回の結末は違った。

 父が、兄を連れ去ってしまった。

 代わりに私へあてがわれたのは、虚ろな泥人形。

 その抱擁が愛情に因るのか憎しみに因るのか、表情のこそげた顔からは分からなかった。


 連れ去られる兄。

 そうだ、私は彼とも別離したのだった。

 喋るゴーレム、ヨゼフとも。


 ぼんやりと、ひたすらゆっくり起き上がり体を検める。

 着ているのは下着と、少し大きめのシャツだけ。

 いずれも清潔だが、私の身に着けていたものではない。


 肘や膝に手当の後が見受けられる。

 幸い傷は大事に至っていないようで、痕はほとんど残っていない。


 窓も明かりも無い監獄のような部屋。

 時間さえ定かではない。

 ベッドから降りるべきか迷っているさなか、暗闇にぼんやり光が灯っていることに気付いた。

 本当にかすかな青白い光。


「目が覚めたか」

 声の主が部屋の明かりを灯す。

 現れたのは黒い男。

 彼は短く刈り込まれた金髪を露わにし、額から僅かに青白い光を放っている。


「俺はカレル。元の名前はセクンドゥスだったが」

 泥人形には贅沢な名前だ。そう言って、椅子から立ち上がりこちらへ近づいてきた。


「気分はどうだ? まあ、その……良くはないだろうが」

 虚ろな瞳で、私は彼を凝視する。

 私の心は驚くほどに凪ぎ、もう何も感じない。


 私から目をそらすカレル。

 私の顔を見ないまま淡々と、しかし後悔をにじませこう言った。

「プラハ城のある丘を下り、地下通路を通ってこの拠点に移動したが……。ヨゼフはここにはいない。『その三文字』に捕らえられた」

 今まで無表情だと思っていた彼の顔は、意外と機微に満ちているらしい。

 今も視線をさまよわせ、私への引け目を感じさせる。


「寝起きで悪いがついてきてくれ。ガル博士が待っている」



   …



 先導するカレル。

 時折振り向き、私を気遣う。

「シャツの大きさが合わないだろうが、しばらく我慢してくれ。ここにナーナの服より小さいものはない」


 ここ。

 私たちが進む通路。

 おそらく地下なのだろう。外へ通じる窓や扉は一つも見当たらない。


 青を基調とした非常灯が照らすのは、材質さえ定かでない床。

 リノリウムのような艶を放っているが、裸足の足裏から伝わる感触は妙に硬い。

 そして随分長いにも関わらず、その表面には継ぎ目もうねりもない。

 ひたすらに均一で現実味を欠いている。

 いったいどうやって造ったのだろう。


 不思議そうに通路を凝視する私に、カレルが補足を与えた。

「ここは砦の地下。『大隊』が保有する秘密の拠点だ」

 城の対岸から南へ大きく下ると、そこには砦の跡がある。

 かつては高い城ヴィシェフラドと呼ばれ、プラハ城と双璧をなす荘厳な城塞だったらしい。

 しかしそれは宗教戦争の折に破壊され、今では教会と聖堂、民族墓地や公園として面影を残すに留まっている。


 その地下にこんな空間があるとは。

 百塔の街の地下は、呆れるほどの驚異に満ちている。


 顔を上げカレルを見る。

 肩越しに私を見下ろす顔。

 今まで帽子に遮られ気付かなかったが、その顔はどことなくヨゼフに似ている。


 視線の意味を悟ったのだろうか、カレルは口を開いた。

「俺はレーヴ教授によって、ヨゼフの次に造られたゴーレムだ。ヨゼフの弟にあたる。もっとも、目覚めたのは俺の方が先だがな」


 ヨゼフの弟。

 髪や肌の色は異なるが、それでもヨゼフとよく似ている。


 人ではないが、私と同じ父を持つ者。

 その不思議な縁に、私はしばし心を動かされる。


 ヘレナ、ヨゼフ、カレル。

 兄のいなくなった今、私は三兄弟の長女ということになるのだろうか。

「俺は元々『その三文字』の一員だったんだが、教授と先生の計画に賛同できなくてな。ナーナと共に『大隊』へ移った」


 以外と彼は口数が多い。

「お前には悪いことをした。ヨゼフを傷つけ、お前自身にも怪我を負わせるところだった。お前たちと戦った時、俺たちには手段を選ぶ余裕が無かった」

 私へ銃を向けた彼の顔は、恐ろしかった。

 今思えば、その顔に浮かんでいたのは怒りや憎しみではなく、焦燥だったのだろう。


「ナーナは許してやってくれないか? あいつは、お前を襲うことに最後まで反対していた」

 私は無言でうなずく。

 許しを得られたことに安堵したのか、彼は前を向いた。


 しばし無言で歩みを進める私とカレル。

 幾つかの分岐と昇降機――廊下と同じく、いったいどのような技術で造られたのか見当もつかない――を経て、私たちはようやく目的地へたどり着いた。


 眼前に大きな扉。

 カレルが手をかざすと、外見にそぐわないぱしゅん、という軽快な音を立てて開いた。


 通路と同じ青白い光に満たされた空間。

 奥行きは広大で、天井はあまりに高い。

 見上げた視線を下げ床を確かめる。

 そこには何やら大きな模様が刻まれていた。


 細長い六角形。

 ああ、これは樹形図セフィロトだ。


 しかしそれは、十の結節点から外側へ幾つもの枝分かれが伸びており、周囲の巨大な円柱――あるいは尖塔――に繋がっていた。

 プラハ城のヴィート大聖堂で見たような丸い柱。

 天井まで達し、幹はちかちかと小さな光を瞬かせている。

 ぶーん、と微かな唸り声。

 この列柱の森が発しているらしい。


「おはようヘレナ。元気……じゃないよね」

 柱の陰から現れたナーナが、うつむき憂いを湛えながら言った。


「改めて紹介するね。私はナーナ・バールシェム。こっちの『話者』がカレル。今まであなたを襲ったのは私たち。謝って許されることじゃないけど……ごめんなさい」

 青い瞳に苦悶の色を浮かべ、二人は頭を下げた。


「そして何より、ヨゼフを連れてこられなくて、ごめなさい」


 ヨゼフ。

 あの城門で、彼は私を守るために身を投げ出した。

 そして砕かれ、父に捕らえられた。


 黙したままの二人。

 私は返すべき言葉が見つからず――罵倒すべきか、感謝すべきか、それさえわからない――ただ二人を見詰めている。


 そんな彼らの後ろから、新たな靴音が聞こえた。

 やがてその音は大きくなり、静かな声が重なった。


「君がヘレナか。最悪の目覚めだろうが、おはよう」


 列柱の奥、青い光に照らされながら、一人の男が現れる。

 野性的な黒い皮膚と褐色の瞳。

 けれどその目は知性の光を灯し、静かに穏やかに見開かれている。

 白いものが混じる縮れた頭髪は短く刈り揃えられ、真っ白な白衣と相まって清潔な印象を受けた。

 青みがかった靴を鳴らし、こちらに近づいてくる。


 顔を上げカレルが言った。

「彼がガル博士だ」

「よろしく、ヘレナ」

 儚げな笑みを浮かべガル博士はそう言った。

 目元に刻まれた幾つもの皺が、彼の慈愛と苦悩を物語る。


「そして彼がブスマンだ」


 列柱でばらばらに明滅していた光が、同時に灯された。

 全ての光が同期したまま瞬く。


「理解し難いだろうが、この部屋の柱一つ一つが、ブスマンという知性を構成している。それぞれの柱が記憶や演算を行い、相互に通信を行うことで知性を生み出している。人の知性とは幾分異なるけれど、ある程度のやり取りは可能だよ。シリコンに根を張る知性という点では、樹木に近いかもしれない」


 かつて数学者が夢見た解析機関、あるいは『破局』のさなか暗号を解読するために生み出された自動計算機。

 それらの末裔にあるものが、このブスマンだという。


 人ともゴーレムとも異なる、より機械的な知性。

 人型ではない異形の頭脳。


「レーヴ教授による情報的な攻撃のせいで万全ではないが、彼も話を聞くくらいはできる」

 再び瞬く列柱の灯。


 それから、ガル博士は真剣な面持ちで私を見詰め、言った。

「こうなってしまった以上、君にはこの星の本当の歴史を知ってもらう。身勝手で申し訳ないけれど、どうしても知ってほしいんだ。君が正しい選択肢を選べるように」

 私の虚ろな瞳を博士がのぞきこむ。

 その顔はつらそうだ。


「どこから話すべきかな……」

 そう言って、ガル博士は長い長い歴史を語り始めた。

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