8 - 3 神託
「ヘレナ!」
笑顔で私を迎えるナーナ。
「もういいの? 無理しなくて大丈夫だよ?」
私も笑顔で答える。
”もう大丈夫。こんなところでぐずぐずしてられないから。”
手帳にそう書き、ナーナに見せる。
ナーナが一層笑顔を輝かせる。
彼女に付き従うカレルも、かすかに微笑んだ。彼もこんな優しげな顔ができたのか。
「よく戻ってきてくれたね」
机でタイプライターのような鍵盤を叩くガル博士が、立ち上がり言葉をかけてくれた。
ここは『大隊』の指令室。
ガル博士と出会った部屋と同じように、青白く瞬く列柱が森を成している。
柱の幹や四方の壁は様々な記号を映し出し、めぐるましく変化する。
”ブスマンが復旧したんですか?”
「少しだけね」
ナーナが言うには、『大隊』本拠地の設備――かつて『その三文字』が秘匿した知識を総動員して生み出した、時代にそぐわない設備――を運用できる程度には回復したらしい。
現在周囲に表示されている信号は、無頭型の通信や行動履歴を解析したものだそうだ。
残った力をかき集め、どうにか電子戦、情報戦を仕掛けようとしている。
指令室をあわただしく動き回る『大隊』の兵士たちは、久々の反撃に勇み足だ。
しかし自らの劣勢を理解しているのだろう。その顔にはどこか悲壮な影が浮かんでいる。
「状況は芳しくない」
カレルが口を開く。
「今朝、無頭型を満載した輸送器とその護衛器、さらに大型の電子戦器を伴った一隊が、郊外へ向け飛び立った。おそらく近郊の『原形質』はあらかた採掘してしまったのだろう。実際、ウルティムスの体積は増加し、通信量も通信範囲も拡大した。現状、物量では一切太刀打ちできない」
ガル博士が鍵盤を叩くと、私の前に複雑な樹形図が表示された。幾つもの結節点がちかちかと瞬いている。
「これは無頭型の戦術情報通信網だ。ブスマン復旧のおかげで、通信網の監視くらいはできるようになった。けれど干渉は困難でね。彼らの通信は高度に暗号化されていて、僕たちには手が出せないんだ」
「どうにかして暗号を解けないの?」
ナーナが博士へ問いかけた。
「確かに、彼らの暗号の原理は単純だ。二つ以上の素数を掛け合わせた合成数と呼ばれる数、その因数分解の困難さを根拠にしているだけだ。因数分解さえできれば、すぐにでも暗号を解読できる」
「因数分解なら私でも出来るよ。学校で習った」
無邪気に告げるナーナをたしなめ、カレルが後を継ぐ。
「だが合成数が大きな値になると、因数分解の難度は飛躍的に上昇する。単なる掛け算の結果にも関わらず、その合成数を構成する因数の割り出しには、無限に近い計算資源が必要になってしまう。バベル以前にはそれを乗り越えた計算機があったらしいが、あいにくブスマンはその型の計算機ではない」
「量子暗号を使っていないだけ、ましだと思うしかない」
ガル博士がつぶやいた。
「その上、暗号の鍵である因数は定期的に変更される。かなり短い期間で、何度もランダムに」
スクリーンに新たな映像が浮かび上がる。特定の個体が送受信する信号を解析したものらしい。
白と黒の二値で描かれた帯が画面を埋め尽くす。
それは一見すると、白黒の石が描き出すモザイク画にしか見えない。
全く規則性を感じさせない、ランダムな模様だ。
そのモザイク画は随時更新され、何らかのパターンを見出す前に流れて行ってしまう。
「個体ごとに暗号の鍵が異なるため、伝達内容が同じでも同一の暗号文にならない。つまり、行動と信号の関係から通信内容を割り出すこともできない」
幾度か変換を繰り返され、パスタのように絡み合った暗号文。
それは原理的には解析可能だが、現実的には時間が足りない。
暗号。
特定の規則に従い文章を変換したもの。
その規則は複雑で、数学的理論や独自の符丁から、解読困難な規則を生成する。
強度の高い暗号ではランダムな変換や一定時間での規則の変更が取り入れられ、その解読を阻む。
無頭型が用いる複雑な変換。まるで『
あるいは、人の言葉に近いのかもしれない。
言葉は時と場合によって変化し、複雑化し、自己組織化し、幾つもの例外を持つ難解なプロトコルだ。
私はその難解さを恐れ、言葉を拒絶した。
だが、今は違う。
もう私は言葉を恐れない。
たとえその真意を読み解くことが、辛く厳しいものであっても。
言葉の奥にある意志。
おぼろげで簡単に壊れてしまうそれを、人は丁寧に掬い上げ、相手に伝える。
言葉にならない何かを、言葉として変換する。
数多の齟齬を乗り越え、人はようやく言葉として結実させる。
それは、暗号と変わらないのだろう。
無頭型の暗号は、無限の計算資源がなければ解き明かせない。
逆にいえば、たったそれだけで解読できてしまう単純な言葉。
私たちは暗号の解読より、よほど難しいことをしている。
僅かな言葉と仕草から、相手の真意を読み取り補完する。
それが例え不完全でも、相手を知ろうと、互いを理解しようと歩み寄る。
受け取り方を間違えても、相手に勘違いされても、私たちは語ることをやめない。
その意志を暗号のように変換し、どうにか言葉に落とし込み、語り続けてきた。
こんな暗号など、辞書に則った置き換えと変わらない。例え頁が破けていても、例え版が古くても、それが辞書なら同じこと。
なぜなら私たちは、辞書を自ら造り出すことさえできるのだから。
私は博士に、信号の表示を増やしてほしいと頼む。
怪訝な顔をしながらも、博士はその数を増やした。
まだ、足りない。
再び映像が追加される。
私を取り囲むように展開する信号のモザイク画。
視線を巡らせ流れを把握する。
一見ランダムにしか見えないパターンの羅列。
しかしこれは、意志を乗せた言葉にほかならないのだ。
信号は樹形図を伝い、そこに乗せられた意志は相互に影響を与えていく。
その影響が、新たな意志を誘発する。
信号が接ぎ木され、枝分かれし、再び新たな意志を生む。
……何かが、見えかけている。
もう少しで、何かが掴める。
私は圧倒的な予感に包まれる。
この信号の基幹になっているのは、ブスマンが教えくれたパターン、ヨゼフが密かに伝えた符丁。
あの二値の言葉が幾重にも枝分かれし、貧しい言葉に豊穣な語彙をもたらしている。
私はその素朴な現実に胸が高鳴る。
意志の同定を遮る複雑な変換は、けれどこれだけ豊かな世界を描写できる。
体が熱い。
私自身が理解できない領域で、人の限界を超えた演算が成されている。
私の体は人の思考とゴーレムの思考、どちらも組み合わせることができる。
『
私を構成する人体が――『原形質』が――私の意志を受け今まで発したことの無い信号を発する。
私の全身を行き交うそれは、周囲を取り囲む信号の流れに誘発され、急激に自己組織化していく。
体が熱い。
齟齬なき意志の疎通を目指し、それがまやかしだと知っていながらも、記号はただひたすらに枝を伸ばす。
言葉としての実を結ぶ。
後少しで結実する。
そして。
「……わかった」
私が無頭型の言葉の基幹を獲得すると同時に、その言葉が口を衝いて出た。
今まで言葉を発しなかった虚ろな空洞が、声をあげた。
少し遅れて私はその事実に気付く。
「……どういうこと?」
突然口を開いた私に驚くナーナ。
そんな彼女を尻目に、列柱の森がその幹を一斉に瞬かせる。
まるで私を祝福するかのように、青白い明滅が多くの言葉を語りかけてきた。
今、無頭型が構成する大樹――彼らの情報通信網――への門が開かれた。
ブスマンが仲立ちとなり、その複雑な樹形図に私の意志を乗せていく。
私の体の『原形質』が、いかなる方法によってかブスマンと大容量の通信を成立させる。
だが私の言葉は不完全だ。
無頭型は私との対話を拒絶する。
しかし私はあきらめない。
彼らが納得するまで、私の齟齬が限りなく小さくなるまで、何度でも問いかける。
私の成す演算は、ごく単純な独白として認識される。
しかしその裏で行われているのは、高度で複雑な意志と言葉のやり取りだ。
おそらく、ブスマンの限界や人型の範疇を超えている。
幾つかの列柱が煙を上げ始めた。
しかし幹の瞬きは止まない。
私の意志に呼応して、言葉を紡ぐ手助けを怠らない。
体が熱い。
今、一体の無頭型が私に同意した。私の言葉を認め、対話を許容した。
豊満な語彙とは裏腹な、無頭型の乏しい意志。
彼らは語ることができると言うのに、その喜びを表す術さえ持たない。
「私と同じ……」
無意識に言葉を発する口。
彼らを理解し受け入れる。
彼らが私を認めたように、私も彼らを認める。
彼らの言葉で、彼らがまだ持たない意志や感情を伝える。
それはとても困難で、より一層の誤解を生みだした。
けれど、今の彼らは対話を拒まない。
自らが持つ言葉の豊かさに気付き、その結実を夢見て、私との対話を乞う。
私は彼らに、多くの意志や感情を語った。
かつて兄が私を諭したように。
新たな知識に歓喜し湧きたつ無頭型。
言葉という大樹を育むため、その土壌を耕し続ける。
伸びゆく大樹の枝分かれ。
その樹はやがて閉鎖する。
枝が根を成し、根が枝を伸ばす。
幾つもの結節点から線分が枝分かれし、言葉のやり取りをもう一つ上の次元へ押し上げる。
その結節点と線分。
その中を流れる幾つもの言葉が、やがて一つの意志となる。
その奥にある何かが形を成す。
意味とは何か、記号と事象の結びつきとは何か、その奥に潜むものは何か。
その奥に潜むもの。
私はようやくそれを掴む。
そして、私の意識は途切れた。
…
「ヘレナ、お前は自分がやったことを理解しているのか?」
戸惑うカレルの声で、私は目覚めた。
私は神妙な面持ちのカレルとナーナ、博士、それに『大隊』の兵士たちに囲まれたまま、指令室の床に横たわっている。
あの奇跡のような体験も今となっては他人事で、当事者という実感が持てない。
自身の力で見出した解答は、しかし
「暗号を全部解読して、無頭型の通信網を掌握したんだよ?」
私はナーナに言われ、ようやく客観的な事実としてその成果を受け入れた。
「君の体の『原形質』が、一時的に脳を拡張したらしい。本来脳としての機能を持たない腕や足といった部位までが脳の仕組みを、あるいはそれ以上の何かを模倣し演算していたみたいだ。セフィロトのように、結節点が並置され循環する計算機。人の脳とよく似た、それ以上の何か……」
ガル博士は呆けたようにつぶやいている。
全身が痛むが、どうにか上半身を起こす。
恍惚は後を引き、倦怠感が抜けない。
意識を失う直前、あの時得た啓示は既にかすんでいる。
ああ、これは人の言葉で語りえぬのだ。
けれど、直感することはできた。
僅かながら触れられたのだ。
胸を温かなものが満たし、私は小さくため息をつく。
しばらくすると、私は違和感に気付いた。
服の中がじゃりじゃりする。
なぜだが、タイツや下着の中にまで砂が入り込んでいる。
砂を掃おうとゆっくり立ち上がる。
すると、すとんとスカートが落ちてしまった。タイツもずり落ちる。
「からだが……」
恐る恐る、自身の体を検める。
私の外見は幼児のそれで、年齢との整合性を完全に欠いていた。
一つの言語を育て上げ、結実させる。それは人の身に余る業なのだ。
私の半身を構成する『原形質』が力を失い、多くは砂礫へと還っていた。
全身を覆う痛みは、『原形質』の急激な崩壊の結果なのだろう。
どうにか幼児の外見を保っているが、激しく動けば骨や健がちぎれてしまうかもしれない。
あまりにも幼くなった私の体。
ああ、これではまるで金色の夢の中のようだ。
兄の胸へ飛び込む幼い私と同じ。
しかし、これは夢ではない。
愛しい兄の、ヨゼフの、その胸に飛び込むため、私は立ち上がったのだ。
この体を直したら、すぐにでもヨゼフへ会いに行こう。
海豚のような無頭型の力を借りて、空飛ぶ海獣のはらわたへ乗り込むのだ。
そこには父が、先生が、マリウスが、そしてヨゼフがいる。
私は、彼らと語りたいことがたくさんある。
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