8 - 2 発芽

《あなたは何者?》


 ランプの問いに、困ったように微笑む私。

 その口は固く閉ざされたまま。


 当然だ。

 私は口をきくことができないのだから。


 もっとも、口をきくことができたとしても、私はそれを表現できないだろう。

 私自身、自分が何なのか言葉にできないのだ。


 私は人でもゴーレムでもない。

 私は言葉から零れ落ち、対応する言葉をあてがわれていない。


 再び眼を伏せ、膝を抱え込む。

 ベッドの隅でただ一人追憶へと沈んでいく。

 私とは何者なのか。

 金色の森に佇む兄は、決して私に問いかけない。

 ただ沈黙をもって肯定する。


 ああ、意識がかすむ。

 夢と現が混じり合い、金色の夕陽が瞼の裏に浮かぶ。

 もうすぐ、夕陽を背負った兄が現れる。


 唐突に、ランプが瞬いた。

 夢へと沈む私の気をひくように、強い光で何度も明滅する。


《あなたの目的は、父に関わること?》


 ランプは何を言っているのだろう。

 今の私に、父がどう関わるというのだ。

 質問の意味がわからない。


 ランプとのやり取りは随分円滑になった。

 それでも、ときどき意味の通じない符丁をよこす。


 とはいえ、それが当然なのだ。

 言葉を用いて互いの真意に到達することは、原理的に不可能なのだから。

 あの時プラハ城で、ハレマイエル先生が語った言葉の不完全性。

 私はそれを思い出す。


 一見、人は他者の言葉を理解しているように見える。

 だが、私は他者になれない。

 他者がその人生を通して培った言葉の「意味」を体感できるわけではない。

 必ず、僅かな誤差が残るのだ。


 私が「追憶」という言葉に感じる幸福と絶望と切なさは、私だけのもの。

 同じように、他者の使う言葉には、私に理解できないニュアンスが結び付けられているのだろう。


 ゆえに、私たちの言葉に絶対的な定義はない。


 必ず、話者毎に定義の差異が生じる。


《あなた自身に関わること?》


 それでもランプは語りかける。

 私の目的を、あるいは意志を問い質そうとする。

 その不完全な言葉で。


 仮にそれが分かったとして、ランプはどうしたいのだろう。

 互いが間違いだらけの辞書で翻訳し合い、その果てに何が得られるというのだ。

 私は既に誤訳を繰り返し、ただ一人置き去りにされたというのに。


 目をつむり耳さえ塞ぐ。

 それでも、瞼に焼きついた明滅が離れない。

 私の頭が無意識に、明滅を言葉へ翻訳してしまう。


 きっとそれは本能なのだ。

 人は言葉がなければ、意味がなければ、耐えられない。

 人が神を求めるように、幼い私が肯定を求めたように。

 ただ無邪気に純粋に、言葉を求め思考が暴走する。

 ああ、もうやめてくれ。


 なぜ私は語るのか。

 その答えは空白のまま。

 あの屋上で修繕されたヨゼフと抱き合った時抱いた疑問は、未だ解を得ていない。


 どれだけそうしていただろうか。私は恐る恐る目を開ける。


《???に関わること?》


 ゆっくりと穏やかにランプが明滅した。

 まるで諭すかのように、青白い光が私を照らす。


 それは、初めて見る符丁だった。


《???に関わること?》


 繰り返される符丁。私には分からない。

 塔の囚人に等しい私にとって、この部屋に存在しない事象は言葉と結びつかない。


 対話を求めておきながら、なぜ意志の齟齬を生むような真似をするのだ。

 私は再び目をつむろうとする。

 しかしランプは猛烈な勢いで明滅を繰り返した。


《あなたは???を知っている。あなたは???が好き。あなたは???を求めている》


 やめてくれ。


《あなたは???を信じている。あなたは???と語りたい。あなたは???とまだ語れる。???は、あなたと語りたい》


 もう、やめて。お願いだから。


 万年筆を手に取りがりがりと紙に書き付ける。

 否定の、拒否の言葉を思いつく限り。

 そうして頭を抱え込んだまま、私はうずくまっていた。


 僅かに顔を上げると、ランプが弱々しく瞬いた。


《ごめんなさい》


 謝罪がほしいわけではない。

 ただ、言葉から遠ざかっていたい。

 それだけなのだ。

 その謝罪の瞬きが、私の心を慰めることはない。


 再び顔を伏せる私。

 夢に沈みこもうと瞼を閉ざす。


 しかし。


 ……なぜだろう。

 何か違和感を感じる。


 このわだかまりは……。


 私は顔を上げランプを見詰める。


《ごめんなさい》


 再び瞬くランプ。

 私は目を凝らす。


 そして、頭の中で明滅を反芻する。

 このパターン……。


 ……私は。


 ……これを。


 どこかで……!


 そこでようやく、違和感の正体に気付く。


 これは、あのパターンだ……!


 私が無人となったプラハを彷徨い、ヨゼフと再会したあの日。

 あの時、別れの間際にヨゼフが見せたパターン。


 冷酷に別れを告げた後、ヨゼフは額の三文字を光らせていた。

 


 なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 いや、頭のどこかでは気付いていたのかもしれない。

 今ようやく、それが思考として像を結んだ。


 あの決別の場で、ヨゼフは私に謝っていた。

 自らの意志で私を裏切り、別れをつき付けたあの時に。


 冷たい眼差し、何ら温かみを感じさせない言葉。

 けれど裏腹に、私にわからない方法で詫びていた。


 


 ……なぜそんなことを。

 偶然の一致だろうか。

 だが、全く同じパターンを偶然瞬かせることがあるのだろうか。

 私がこの部屋で学んだ符丁だけでは、それを確かめることはできない。


 できない……?


 ……なぜ?


 聞けばいいのに。ヨゼフに、直接。

 そうすれば誤解は解ける。


 頭の霞が徐々に晴れていく。

 胸を満たす絶望が消え、代わりに何かが流れ込む。

 それは、天啓のように鮮やかな閃き、あるいは理解だった。


 そう。


 確かに、言葉を完全に理解することはできない。

 だが、自らの意志を言葉に乗せれば、何かを伝えることはできる。

 たとえそれが不完全で、時に過ちを孕むとしても。


 そうだ。

 何かを伝えることはできる。

 ヨゼフも私も、言葉を操れるのだ。


 どれだけ食い違いがあってもかまわない。

 根気よくやり取りを続ければ、いつかは何かを伝えられる。

 たとえ言葉が尽きたとしても、その意志は消えはしない。


 


 今、思い出した。

 幼い頃もそうだった。


 口下手な私は兄を困らせた。

 けれど、私のつたない言葉に途方にくれながらも、兄は根気よく私の言葉に耳を傾けた。

 そして私の言葉を言い換え、表現を改め、私に再び問いかけてくれた。

『ヘレナはこう言いたいのか?』

 そうやって、優しく聞き返してくれた。

 私は、その問いかけの中で自身の意志を知り、言葉へ落とし込むことの嬉しさと難しさを学んだ。


 幼い私は、時にへそを曲げ兄の言葉を拒んだ。

 けれど、その胸のわだかまりも、言葉にして伝える以外ない。

 そんな感情の先走った不明瞭な言葉でも、兄は解きほぐし、私の真意を理解しようとたくさんの時間をかけてくれた。


 自身に閉じこもる私に、兄は手を差し伸べたくさんの言葉を教えてくれた。

 事象と言葉の結びつき、感情、意志、それらを伝える方法を、教えてくれたのだ。


 新芽が顔を出すように、私の中に新たな意志が芽生えていく。


 聞けばいい。

 語ればいい。


 互いが納得のいくまで、議論を交わせばよいのだ。


 ヨゼフはまだ生きている。


 今度は私の番。


 かつての兄と同じように、臍を曲げたヨゼフに問いかけるのだ。

 ヨゼフはこう言いたいの? と。


 ヨゼフは兄のように、夢の世界で物言わぬ住人となったわけではない。

 まだその口を動かし、自ら声を発することができる。


 彼が、ヨゼフが何を思うのか。

 なぜ口を開いたのか。

 私はそれを、問いかければいい。


 言葉による意志の疎通など、ほんの些細なことだったのだ。

 本当に大事なのは、意志を疎通させようという意志。


 言葉にすることで何かが零れ落ちるのは恐ろしいことだ。

 話せないことより辛いのだろう。

 しかし、それでも何かを伝えようとしてしまう。


 どうしても、わかってもらいたいのだ。

 大切な人に、大切な気持ちを。


 こんなところで、一人閉じこもっている場合ではなかったのだ。


 私は立ち上がり服を着る。ナーナの、私より少し大きな服。

 カレルがくれたメモ帳と、ガル博士が貸してくれた万年筆。どちらも筆談のためのもの。それらをポケットに入れる。


 身支度を整え、私は部屋を後にする。最後に一言、ベッドに書置きを残す。


”今日は、ありがとう。”


《どういたしまして》


 ブスマンが、短く瞬いた。

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