5 - 4 解答
その夜。
上階の狭いベランダで、私は夜風に当たっている。
初冬の空気は冷たく吐く息は白いが、長湯で火照った体には心地よい。
手すりにもたれ眼下のヴルタヴァを見下ろす。
その水面は星の瞬きと家屋の灯火を照り返し揺らめいている。
そんな情景にゴーレムたちを思い出す。
廃墟の中、青い光を瞬かせ追いかけてきた『大隊』のゴーレムたち、紫の光を灯し地下をさ迷う貝塚型、そして、赤い光を宿すヨゼフ。
今、ヨゼフは最後の仕上げとして微調整を受けている。
私は小さくため息をつく。その吐息に、
「邪魔するぞ」
野太い声が重なった。
すなわち、ファブリ師匠の声。
師匠は私の隣に並び、私と同じように手すりへともたれ掛かった。
彼は無言のまま。
私はこの人が苦手だ。彼の沈黙は重苦しく、胃がきりきりと痛むのだ。
けれど。
ファブリ師匠の纏う雰囲気は、今までとどこか違った。
その沈黙は憤怒や拒絶ではなく、もっと柔らかなものだった。
まるで、私が話し出すのを待っているように見える。
そして私には、尋ねたいことがある。
しばしの逡巡の後、私は口を開いた。恐る恐る、けれどはっきりと。
「『話者』とは……何なのでしょうか」
かつて『その三文字』に籍を置いた者として、彼は『話者』をどう考えているのだろうか。
「さあな」
師匠はにべもない。
「学校で、とある先生が言っていました。ゴーレムは言葉の意味を理解していない。それゆえ喋れない……と」
師匠は黙ったまま。しかし私は、何かに突き動かされるように語り続けた。
「ゴーレムの知性とはすなわち、塔に閉じ込められた囚人に過ぎない。辞書に従い、知らない言語をもう一つの知らない言語に置き換えるだけ。それは意味の理解を伴わない機械的な置換に等しい。ゆえに塔の囚人は、言葉に触れているにも関わらず、その意味を知らないまま。ゴーレムもこれと同じだと先生は言っていました」
私はハレマイエル先生が導いた二つの結論を思い出す。
「ゴーレムは『意味を理解したように見える』だけで、『意味を理解した』わけではありません。そして単なる記号の置き換えを繰り返すだけでは、決して意味を理解できません。理解できないのだから喋れない……」
「そいつはハレマイエルか?」
『その三文字』に所属していた者同士面識があるのだろう。
そういえば、二人の年齢は同じくらいに見える。
「お知り合いですか?」
私は逆に問いかける。
「腐れ縁だ」
師匠は短く答えた。
「……塔の話か。懐かしい」
しかしそう語る師匠の顔は、ちっとも懐かしそうに見えない。眉をしかめ、考え込むような顔をしている。
「その理屈には幾つかの仕掛けがある。随分入り組んだ仕掛けがな。それは、『言葉とは何か』を言葉で説明するということだ。言葉より上の階層に位置するものを、無理やり言葉にする。それゆえ、言葉の制約を逆手にとった詭弁がまかり通る」
師匠はそう告げた。
自分の瞳で自分の瞳を見られないのと同じ理由で、言葉は言葉による表現ができない。自分の瞳を覗き込むための鏡が、ゴーレムなのだろうか。
師匠は顎に手をやり髭をもてあそんでいる。
「まずその理屈の前提になっているのは、記号のやり取りだけで意味が生まれるか、という話だ」
記号のやり取り。
辞書の手引きに則った、単語や文章の置換。
「当然、それだけでは意味は生まれん。どれだけ高尚な理論に従い記号を並び替えたところで、記号は記号に過ぎない。対応する事象が無ければ、文字は意味を持たない。意味とは、『記号と事象の対応関係』と言い換えることもできる。そいつは解るか?」
「解る、と思います」
記号に記号以上の意味を与えるには、何かの名前、あるいは象徴として用いる必要がある。「葡萄」という字の並びから赤い房を連想するには、「葡萄という事象」が必要だ。
「すなわち、記号と事象が一揃いになったとき、意味が生まれる」
『その名』と形が一致した時奇跡を宿すゴーレムと、よく似ている。
「一つ目の前提がこれだ。記号は、記号だけで意味を生み出せない」
明言されないまま採択された前提。ほつれが一つ明らかになる。
「二つ目の前提は、塔の囚人が事象と切り離されている、ということだ」
事象と切り離されている?
私はいまいち理解できない。
「一つ目の前提で、記号は記号だけで意味を生み出せないと言ったな。つまり、純粋に記号だけのやり取りというのは、現実世界ではなんの意味も持たない。現実世界で俺たちが行っているのは、記号と事象の対応関係が存在する、意味のあるやり取りだ」
私たちが行う会話や文通、その他のコミュニケーションは、いずれも何かの意味を伝えるために行われる。
「だが、あの塔の密室には事象――手紙に書かれた記号と対応した事象――が存在していない」
密室に届けられる文章。それは外の人間が、「囚人の知らない文字」で「囚人の知らない事象」を記したものだ。
塔の密室の事象と外の事象が偶然一致することはあるだろうが、囚人がその一致を知る術はない。ゆえにそれは、「囚人の知らない事象」のままなのだ。
「あの密室に届けられる手紙は囚人にとって、記号だけが独立して存在しているのに等しい」
師匠が一息ついた。
「この二つの前提を整理するとだな、一つ、記号は事象が無いと意味を持てない。二つ、手紙に記された記号は事象が無い。よって、手紙の記号は意味を持たない。存在しない意味を理解するなど不可能だ」
まあ、こんなところだ。師匠が締めくくる。
「え……」
これでは、意味を持てない――理解できない――というハレマイエル先生の理論を証明したに過ぎない。
「結局、塔の囚人たるゴーレムは、意味を理解できないということになっていますが……」
まあ待て。そう言って師匠は話をまとめるため、しばし黙考した。
「この話では、塔の密室という例えがゴーレムの思考を表している。外から受け取った手紙を翻訳し、再び外へ送り出す。それが全てだと仮定している。だが、この例えは本当に正しいのか? 確かにゴーレムは『戒律の書』に従い記号のやり取りをする。だが、『戒律の書』が何を基準に書かれているのか考えてみろ」
ゴーレムにとっての辞書である『戒律の書』が基準にするもの。それは、
「ゴーレムの体だ。『戒律の書』はゴーレム体の構造や、そこに入力される情報を基準に、言葉を定義づける。しかしあの塔の密室の例えには、体に当たるものが存在しない。一方的に記号を差し入れ、定義づけできないのなら理解できない、と言っているだけだ。この話は、言葉の定義づけの根幹となる『体』を無視したまま展開されている」
そうだ。
言葉は体に依存するのだ。
そもそもの問題である定義づけ――すなわち記号と事象の結びつき――の仕組みを無視したまま独走する論理。これは、思考の根幹を問うことなく、記号のやり取りに終始した例え話だったのだ。
「つまりこの塔の密室は、ゴーレムの――ひいては人の――思考を正確に表しているとは言えん。この理論は、ゴーレムが意味を理解できない証明にはならんのだ」
私を見据え、厳かに語る師匠。
「もっとも、体を用いた定義づけが何なのかについては、沈黙せねばならん。それは言葉の深層に潜む、ひどく迂遠なものだ」
私たちの思考の根幹。意味とは何か、記号と事象の結びつきとは何か、その奥に潜むものは何か。そうして多くの問いを投げかけつつも、それは言葉の限界に阻まれ語ることができない。
だが、それはゴーレムの知性を否定することにはならないのだ。
一拍の後、師匠は話をまとめた。
「ゴーレムは体を持ち、記号に触れている。現実の事象と記号を結びつける素地を持つ。これは葡萄だと言って赤い房を手渡せば、ゴーレムはその対応関係をいつか理解する。勘違いすることはあるが、諦めずにやり取りを続ければ、齟齬を埋めることができるはずだ」
人と同じだ。師匠はつぶやく。
「結局、塔の監獄などまやかしに過ぎん。意志あるものは、いつでもそこから出ていける。理解を望む意志があるなら、必ずそれを得ることができる」
あまりにも長く複雑な論理。
それを語り終えた師匠はしばしの沈黙の後、再び何かを語ろうとした。
「だが、この理屈には……」
ファブリ師匠が言い淀んだ時、下から師匠を呼ぶ声が聞こえた。
ヨゼフの仕上げにかかる陶工の声。
「後は自分で考えろ。俺は最後の仕事に取り掛かる」
そう言って去っていった。
一人取り残される私。
再び水面へ視線を移す。
塔の監獄はまやかしに過ぎない。ゴーレムは言葉の意味を理解する素地を持つ。
それが、ファブリ師匠の出した結論。
しかし謎はまだ残っている。
無限の持つ不可能性という謎が。
仮に言葉の意味を理解出来たとしても、ゴーレムの有限な思考では、世界に生起する無限の事象に対応できない。
有限な『戒律の書』に無限の条件分は書き記せないのだ。
もし無限を書物に収めるならば、それこそ無限に追記していく必要がある。
無限に追記していく必要が。
無限に追記。
追記……。
『いくらでも書き足していけばいいんだよ』
ナーナの言葉が蘇る。
「……そうか」
私は顔を上げ、小さくつぶやいた。
「自分で書き足せばいいんだ……」
そう。
言葉の意味を理解したのなら、自ら追記すればいい。
そもそも、『戒律の書』が初めから完成している必要など、無いのだ。
無限を実現できずとも、無限を目指し書き連ねることはできる。
そうだ。
人は書きかけの書物だ。
自らの選択肢を枝分かれさせ、自身の物語を綴っていく。
それはゴーレムも同じこと。
与えられた『戒律の書』に自ら追記を施せばいいのだ。
言葉を理解できるなら、それが可能となる。
彼らは決して、
余白の頁には追記を。
『神の文字』で額と胸に、既に書き出しを与えられているのだから。
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