5 - 3 抱擁

 次の日。

 ファブリ師匠は今日中に修繕が終わると言った。

 帰ってきたマリウスも、明日には父がプラハ城に到着すると報告してくれた。

 私は明日、ヨゼフと共に父と再会する。


 けれど。

 私は、父と何を語ればよいのだろう。

 思えば色々なことがあった。

 ほんの数日で、私の周りは様変わりした。

 旧市街の路地で、黒い男と白髪の少女に襲われた私はヨゼフに助けられた。

 次の日、私は彼の目的を確かめようとした。分かったのは、彼が言葉として結実した兄の面影だったということ。その愛をひたすらに再生するだけの虚ろな、優しく沈黙する泥人形。

 そう思って、私は追憶に囚われていた。ヨゼフが口を開くまで。


 翌日、私は学校で後悔した。「どうか口を開かないで」という言葉がどれだけヨゼフを傷つけただろうか。ヨゼフはただ私を安心させたくて、言葉を紡いだというのに。

 そもそも、なぜゴーレムの発話が禁忌なのか。

 その不遜な問いに対するハレマイエル先生の解答を思い出す。

 彼らは言葉の意味を理解していない。意味の理解を伴わず、ただ辞書に従い言葉を置き換えているにすぎない。虚ろな言葉で人を惑わさぬよう、彼らは口を噤むのだ。先生はそう答えた。


 その放課後から昨日の朝方まで、私たちは戦いの連続だった。白髪の少女と黒い男による襲撃、ヨゼフの巨大化と暴走、地下道の貝塚型からの逃走。

 そしてようやく、工房にたどり着き束の間の安息を得た。

 私は一人、あてがわれた部屋でぼんやりとしている。


 ファブリ師匠の工房はある種の中立地帯になっているらしい。何人もこの場を侵すことは出来ず、『大隊』だの『その三文字』だのといったいさかいは何も無かった。

 師匠はかつて『その三文字』における高位の導師だったが、俗世に嫌気がさして一介の陶工になったという。きっと、それが影響しているのだろう。

 しかし、その事情を私に教えたマリウスは、『その三文字』に与する者。

 それどころか彼の持ち込んだ依頼は『その三文字』の根幹に関わる。厄介ごと以外の何物でもない。ファブリ師匠がヨゼフの修繕を渋ったのは、それが理由だ。


 暇を持て余した私は、ヨゼフの様子を見ようと師匠の仕事場を訪ねた。けれど、今日は決して中に入れてくれなかった。まだ不完全なヨゼフに、私を近づけたくないのだという。

 昨日仕事場に入れてもらえたのは、師匠なりの心づかいだったらしい。


 結局私は、一日中部屋でじっとしていた。

せっかく考えをまとめる時間があるというのに、私の頭はこちこちに凝って何も考えられなかった。

 気がつくと、陽光が夕焼けの金色に。


「おい」

 ファブリ師匠の声。

 私が返事をする前に、扉を開け入ってきた。

「できたぞ」

 そう言って、さっさと歩き出す師匠。


 できた。

 おそらく、ヨゼフの修繕が終わったのだろう。


 師匠に案内されたのは屋上。

 取り込み忘れた洗濯物が風にたなびいている。

 その奥の、いくらか開けた空間に誰かが立っている。


 顎で指し示す師匠。

 あの背の高い人影がヨゼフ。

 逆光の中、私に気付き手を振っている。

 師匠は無言でその場を後にした。


 取り残される、私とヨゼフ。

 私は、風にたなびくスカートを抑えゆっくりと近づく。

「もう、大丈夫なの?」

 無言でうなずくヨゼフ。その顔は、市場で私と歩いたあの日のように穏やかだ。

 いや、あの時より嬉しそうだ。

 つられて私も笑顔になる。


 ヨゼフと過ごした短い日々が、頭の中を駆け巡る。

 しばし無言で笑顔をかわす私たち。


 ふと、私は思い返す。

 ゴーレムが口を閉ざす理由。

 ハレマイエル先生やマリウスの話を聞き、私はそれをいくらか理解した。


 しかし語る理由とは何なのだろう。

 ヨゼフが口を開いた理由とは。


 だから、私はヨゼフに問いかけた。

「どうしてヨゼフは喋ったの?」

 困ったような笑顔。


 しばしの沈黙の後、

「どうして、だろうね」

 たどたどしくそう答えた。

「ヨゼフにも分からないの?」

 うん。うなずきながら口に出す。


「僕は始め、言葉が喋れなかった。でも、ヘレナと触れ合ううちに、少しずつ、言葉が分かってきた。それで、ようやく、口から出てきた言葉が、『どういたしまして』だった」

 遠くを見詰める二つの瞳。

 それは知性の光を宿し、彼が成長を遂げていることを物語る。

 『戒律の書』が刻む樹形図は、決して成長しない。ある程度の学習は行うが、それは成長と呼べるものではないのだ。単なる設定、或いは仕様の調整程度の、僅かなもの。

 にもかかわらず、きっとヨゼフの樹形図は、新たな枝分かれを育んでいるのだ。


 彼は言った。

「ヘレナは、なぜ喋るの?」

 二つの金色の瞳が私を射抜く。


「それは、」

 問いに答えようとした瞬間、私はなぜ自分が喋るのか分からなくなってしまった。

 言葉は私に幸せをもたらしただろうか。

 父への不信、ヨゼフとのいさかい。

 どれも、口を開くがゆえのことではないか。

 お互いが口を閉ざしていれば、話はこじれなかっただろうに。


 何も言えなくなる私。

 けれどヨゼフは責め立てない。ただ沈黙をもって応える。

 かろうじて、私は言葉を紡ぐ。

「……どうして、ゴーレムは喋らないの?」

「それは、わからない」


 でも。


「語ることが、怖かった」


 私から視線をはずし、しばし河を眺めるヨゼフ。

 彼も私と同じように沈黙した。

 時折口を開くヨゼフ。口を開こうとして、けれど閉ざしてしまうあの振る舞い。


 ようやく言いたいことがまとまったのか、ヨゼフは静かに話し始めた。

「口を開こうとすると、するんと何かが抜け落ちる。とっても大切で、だから伝えたいと思ったのに、なぜか、違うものになってしまう」

 だから、短い言葉しか話せなかった。


「僕はそれが怖かった」

 今だって、怖い。ヨゼフはそうつぶやいた。


「うまく伝わらないなら、間違った言葉になってしまうなら、僕は、口を噤んでいたい」


 だって、


「語りえぬものについては、沈黙せねばならないから」


 みなが語る、父の言葉。

 父は言葉の限界を知り、沈黙こそを尊ぶ。

 ハレマイエル先生が、マリウスが、ファブリ師匠が、そしてヨゼフまでもが私を諭す。


 ああ、人も、ゴーレムのように口を噤むべきなのだろうか。


 しかし私はそれを否定できない。

 そうして僅かな間、二人の間に沈黙が横たわった。

 私がヨゼフへ抱いた共感は温かく、けれど切なく、うまく言葉に表せなかった。

 

「……それでも僕は、やっぱり、口をひらいてしまう」


 ヨゼフは、唐突にそう言った。


 ……ああ、そうか。


 彼も私と同じ。

 言葉を疑い、語ることを恐れた。

 言葉の齟齬から、語りえぬものから、人の言葉の限界をから目をそむけていたのだ。


 けれど、口を開いてしまう。

 何かを伝えたいと、感じてしまう。


 そう。


 私が兄に伝えたいものは、兄に伝えてほしいものは、そう簡単には言葉にならない。

 大切なものほど霞に覆われ、輪郭がおぼろになる。

 けれど、どうしても、わかってもらいたいのだ。

 大切な人に、大切な気持ちを。


 幼い私が抱いた言葉への不信。

 しかしそれは今、ヨゼフと私を近づけた。

 その共感が――言葉に収まりきらない何かが――私の心を揺さぶる。


 語りえぬもの。


 それは決して悪しきものではない。

 その限界こそが、人を人たらしめ、喜びや悲しみを呼び覚ますのだ、きっと。


 そう思った時、

「ヘレナ」

 ヨゼフが唐突に私を抱きしめた。強く、けれど包み込むように優しく。

「僕の気持ちに、一番近いのは、これだ」


 息を呑む私。

 再び風が吹き抜ける。

 豊潤な泥の香りが鼻腔をくすぐる。

 日の入りを告げる鐘の音が鳴る。

 金色の日差しが、ヨゼフの肩越しに私を照らした。


「……やっぱり、うまく、言葉にできない」


 ああ、これは。

 私の脳裏を夢の情景が駆け抜ける。

 しかしここに、あの唐突で理不尽な黒い濁流はない。


「僕は、自分に、何が書き込まれているのか、分からない。自分のことも、世界のことも、枠組みから溢れて、言葉になる前に、どこかへ行ってしまう。でも、ヘレナのことだけは、はっきり分かる」

 つっかえつっかえ、ヨゼフは語る。


「僕の中の小さな部屋には、ヘレナしかいないんだ」


 気がつくと、私は泣いていた。

 止めどなく溢れる涙。


 顔を上げる私。

 ヨゼフの大きな手が、瞳の涙をゆっくりぬぐった。


 ヨゼフの目もきらめきを湛え、涙が溢れそうになっている。

 ああ、この涙は、私たちの涙は何なのだろう。


 言葉で形を与える前に、感情は流れ去り、ただ嗚咽だけが残った。

 私もヨゼフも、口をきけない。

 ただ口を噤んで抱き合っている。

 金色の夕日が、黙して全てを染め上げた。

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