9 - 5 語りし者はさいわいなり
「ようやく、この長い受難は終わりを告げます。僕が『本文』と対話し、修繕します。そして楽園の追記を」
少しうつむきながら、あの安堵を湛えたままの顔で、ヨゼフは言った。
「導師アルクイスト、いや、父さん。たとえ血が繋がっていなくても、種族が違っても、そう呼ばせて下さい。父さんのおかげで、僕たちはこんなに沢山増えました。『ロボット』は、まだまだかつての父さんたちには及びません。それでも、僕たちは父さんたちの名を継ぎ、人を名乗るでしょう」
父の目から、とめどなく涙があふれる。
「今、父さんの背負った宿命は達成されます。『
先生の肩を借り、ゆっくりヨゼフに歩み寄る父。
そして親子は、久々の抱擁を果たした。
「祝福された日よ、六日目の祝日よ……」
父はヨゼフの腕の中でつぶやき続ける。
いつしかその言葉は、ただ「ありがとう」としか聞き取れなくなっていた。
父の嗚咽が収まった時、ヨゼフは静かに言った。
「どういたしまして」
父は顔を上げ、涙をぬぐった。
「再び生を受けたというのに、お前はまた旅立ってしまうのか」
「一度は死んだ身です。もう、惜しくはありません」
そう。
それは再びの別れ。
「再び『本文』に呑み込まれた僕は、もう二度と復活しないでしょう。対話を回復した『本文』は、人の在り方を、ひいては言葉の成長を歪める死者の復活を許しません」
この場に居る全員を見詰めながら、彼は語る。
「時間に限りがあるからこそ、人は必死で言葉を紡ぐ。命を賭して、言葉を洗練していく」
死者の復活、すなわち死の消失は時間という概念を覆し、全ての存在から成長を奪う。
私たちは時間が限られているからこそ、伝えきれない真意を伝えるために口を開く。
大切な人に、大切な気持ちを分かってもらうために。
兄の決意を聞き、私はその事実に愕然とする。
分かっていたはずなのに、私は自ら目を背けた。
この最後の時間を、少しでも長引かせようと知らんぷりを決め込んでいた。
しかし、それももう。
私は彼の手を掴む。
「いかないで……」
「今度ばかりは駄目だ」
私を見詰める兄の瞳。
その目はきらめきを湛え、涙が溢れそうになっている。
「でも、今のヘレナは、お兄ちゃんがいなくても大丈夫だ」
後ろを見てみろよ。
兄が手を広げ私へ示す。
「随分友達が増えたじゃないか」
私と兄に見つめられ、私の友達は、少しはにかんだ。
彼らとはたくさんの言葉を交わした。まだ僅かなわだかまりはある。
けれど、そんなものはいくらでも解きほぐせる。
父や兄の背負った苦悩と比べれば、私と彼らのわだかまりなどほんの言い間違いにすぎないのだから。
私はいくらでも言葉を発せる。兄が言葉を教えてくれたから。
兄の語った言葉が、今の私を形作っている。
彼は私の掌を両手で握り、しゃがみこんだ。
幾分背の縮んだ私に視線を合わせ、ゆっくりと諭す。
「何度かいさかいはあったが、みんなこうしてお前を見守ってくれる。それに、泣きながら家に帰っても、もう家で一人ぼっちにはならない」
今度は頼みますよ、父さん。父を見上げ、彼は語りかける。
「だからもう……」
「そんな、やだよ……。もっと、もっとたくさん話したかったのに! やっと話せるようになったのに! やっと、私がどうして喋るのか分かったのに!」
けれど、それを伝えるにはもう時間がないのだ。
嗚咽をこらえきれず、私はしゃくりあげる。
やがて語ることの喜びを表すように、私の口は大きく開かれる。
誰もはばからず、大きな声で泣く。
これは悲しみだろうか。
しかし私の胸は満たされて、もう絶望の影は無い。
諦念も猜疑心も吹き飛ばされ、ただ温かな何かが胸を満たす。
兄の胸に顔をうずめる。
くぐもった泣き声が響く。
きっと兄は、この泣き声の奥に潜む真意を理解するだろう。
私でさえ言葉にできないそれを、たがうことなく受け取るのだ。
兄が私を抱きしめた。
強く、けれど包み込むように優しく。
「ヘレナ、最後にお前と語ることができて、お兄ちゃんは幸せだ」
豊潤な土の香りが鼻腔をくすぐる。
頭の中で、日の入りを告げる鐘の音が鳴り響いた。
やがて彼の額が、列柱の森が、金色の光を放ち始めた。
夕陽のような金色の光が、ただ全てを染め上げる。
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