5 主説転倒の種子

5 - 1 バールシェム

 湯に身を沈め、深い息を吐く。

 これ程大きな湯船に浸かるのは初めてだ。


 視線を落とし、自身の体を眺める。


 湯気に煙る、細く小さく華奢な体。

 白い肌は胸の淡い先と同じように、湯にあてられほんのり上気している。


 私は兄を失ったあの事故から、体の成長が遅くなったように思う。

 まるで大人になることを拒むかのように、体は小さいまま。


 私はとある本を思い出す。

 ダンツィヒで暮らすブリキの太鼓を持った少年は、階段から落ちた後、大人になることを辞めてしまった。

 そんな彼の目に映る世界はひどく不条理だが、彼自身はもっと不条理で不気味な存在だった。

 どこか達観しつつも子供そのものである振舞い。

 幼い容姿と裏腹に妙な諦念を抱く私も、端から見れば似たようなものなのだろうか。


 しかし今は、私より幼い存在がいる。

 すなわち、自身を切り詰めたヨゼフ。

 彼の無事を思い出し、私はしばし安堵する。


 私は今、ようやくたどり着いた工房で湯浴みしているのだ。

 長かった地下の行軍を終えた私たち三人は、早朝に工房へたどり着いた。

 マリウスはしかめ面の工房の主――ファブリ師匠と呼ばれていた――を説き伏せ、ヨゼフの修繕を了承させた。

 そうして工房へ運び込まれたヨゼフを見届けて、私はふらりと倒れこんでしまったのだった。


 日も暮れかけた頃ようやく目覚めた私は、夕食を食べこの大浴場に赴いた。

 工房の主ファブリ師匠は、湯船からあがったら修繕途中のヨゼフに会わせてくれると言った。


 それにしても、温かい湯でほぐされてなお、足が痛む。

 一晩歩き通しで全身がちがちにこわばっている。

 暗闇を盲目のまま歩き続けるのは、ただ歩くよりはるかに重い労働なのだろう。


 再び息をつく私。

 水面が波立ち、僅かに光が反射した。

 そうしてしばらく、私は温かな湯に身を委ねていた。


 ふと顔を上げると、相変わらずの濃い霞。

 沸き立つ湯気はたゆたい流れ、浴場の端まで見渡せない。

 けれど、その奥に人影が見えた。

 ……見間違いだろうか。

 目を凝らすと、やはり佇む人影が。

 私は驚き身を縮こまらせる。

 向こうも私に気付いたようで、ゆっくり近寄ってくる。

 咄嗟の事に身動きがとれない。


 そうして霞みを破り現れたのは、

「ヘレナさんちもシャワー出ないの?」

 人懐っこい笑顔を浮かべたナーナだった。


「ど、どうしてここに……?」

 戸惑う私をよそに、ナーナは喜々として話し始める。

「昨日の夜、旧市街でがあったでしょ? 何でも、ゴーレムがものすごい暴走したとか」

 私の瞳を覗き込むナーナ。

「水道管がめちゃくちゃになって、いろんな場所が断水してるみたい。私の家はシャワーが出なくなっちゃって」

 隣に腰かける。

「それで、ここまでお風呂入りに来たの」


 この工房は新市街に位置している。

 ナーナが暮らすのは新市街の高級住宅街であり、意外と家が近いらしい。

 近所と言えば近所なのだろうが、わざわざこんな場所を選ぶとは。


 彼女をちらりと盗み見る。

 赤らんだ肌にまとわる、白絹のような髪。

 普段はお団子だが、今はほどかれ長く尾を曳いている。その白い髪の先は波間にたゆたい、幾つもの枝分かれを描いていた。


 それからしばらく、ナーナは私の隣で話し続ける。

 どうも、旧市街の事故の影響で、学校は臨時休校だったらしい。

 この状況で学校を気にするのも妙だが、少し安心した。

 もしいつも通り学校があれば、ハレマイエル先生が私を心配しただろうから。


「私、こんな大きい湯船初めて」

 仰向けになり大きく伸びるナーナ。年の割に豊満な胸が反り返った。

 自身の胸を見ながらのたまう。

「もっと大きくならないかなぁ」

 彼女の贅沢な悩みに、私は語るべき言葉を持たない。

「まだこんなにちっちゃいよ」

 彼女の大きさで小さいのなら、私はどうなるのだろう。それを形容する言葉があるのか、私は不安を覚える。


 今度は口まで湯船に浸かり、ぶくぶくと息を吹き出すナーナ。

 その忙しない音に言葉を重ね、何かを言っている。

 ヘーレーナーさーん、という言葉は辛うじて聞き取れたが、後は泡立つ音にかき消されてしまった。


 落ち着きのないナーナ。

 普段から活発でそわそわしている彼女だが、今は取り分け落ち着きがない。

 かと思うと、時折うつむき何もしなくなる。


 何かあったのだろうか。

 彼女眺め、訝しむ私。

 今度は唐突に、ざばぁ、と湯船を突き破り立ち上がった。

「……どうして人間の成長って、こんなにゆっくりなんだろうね。大きくなりたいと思った時、大きくなれればいいのに」

 私の目を見据え、言った。



 私を見詰めたナーナの瞳が忘れられず、すぐには相槌を打てない。

「……私の一族はね、昔からずっとゴーレムに関りがあったの。それこそ、昔話になるくらい前から」

 とつとつと語り出す。

「それでね、ご先祖さまが出てくる昔話にね、こんなのがあるの」

 すなわち、ポーランドに伝わるゴーレム伝説。

 それは伝承と創作が混じり合い、今では史実性を疑問視されている。

 そもそも当時でさえ、ゴーレムという存在は眉唾だったのだ。


「昔々あるところに、大変賢い導師さまがおりました。導師さまは神さまの言葉を勉強して、ある時ゴーレムを造りました。けれども導師さまはそそっかしく、大切な朗唱を少しだけはしょりました。その結果、産み出されたゴーレムは少しずつ体が大きくなっていったのです」

 絵本を読み聞かせるような、芝居がかった語り口調。


「はじめは気にしなかった導師さまも、ゴーレムの頭が天井に届く頃、こりゃまずいと考えを改めたようです。これは危険だ、土くれに戻した方がいい。そう思ったものの、もう額に手は届きません」

 人の制御を離れ、手に負えなくなった。

 緩やかではあるが、これも暴走の一種。


「そこで知恵者の導師さまは、ゴーレムに『靴を脱がせろ』と命令しました。そうです、ゴーレムをかがみこませ、額に手が届くようにしたのです」

 唐突に、ひざまずいたゴーレムの挿絵を思い出した。

 確か、昔兄が読み聞かせてくれた絵本にも、同様の場面があった。


「さあ、額の三文字をかき消した。これでゴーレムは土に還る。一件落着、と思いきや、土に還ったゴーレムの残骸が、導師さまの上に雪崩れ落ちてきました。そうして、土砂崩れの下敷きになった導師さまは死んでしまいましたとさ。めでたしめでたし」

「……めでたくはないよね」

 語り終えると、彼女はぼちゃんと湯船に浸かった。


 膝を抱え小さく溜息をつくナーナ。

 また湯船に口をつけ、ぶくぶくと泡立てる。

 そして沈黙。


 ……巨大化したゴーレムの顛末。

 それは土砂崩れによって幕を閉じていた。


 ヨゼフと、同じ。


 しかし彼女の語った伝説と異なり、ヨゼフに言葉は届かなかった。

 額づくゴーレムと異なり、佇立するゴーレムを止めるには、額に刃を突き立てるしかなかったのだ。


「……ヘレナさんはこのお話の教訓、何だと思う?」

 うつむいたまま口を開くナーナ。

「いろんな受け取り方があるよね。驕った人への戒めとか、人工物への警鐘とか、あと頭上注意とか」


 ナーナはゆっくりと顔を上げ、私の瞳を凝視する。

 視線を受け止め、けれど逸らしてしまいそうになる私。


 彼女はヨゼフの事を言っているのだろうか。

 私の事を揶揄しているのだろうか。

 いやそもそも、彼女は私とヨゼフの身に起きた事を知っているのだろうか。

 私は考えがまとまらず、ナーナの問いに答えられない。


 苦し紛れに、こう言った。

「……ナーナさんはどう思うの?」

「人も言葉を間違える、って意味だと思う」

 高く澄んだ、よく通る声。

「導師さまの言葉はきちんとゴーレムに伝わったけど、そもそも命じる内容が間違ってた。だから導師さまは死んじゃった」

 ゆっくりと、最後の一言を絞り出す。

「言葉が正しくても、人は間違うんだよ」


 そんな……。


「……だとすれば、私たちはどうすればいいの? これじゃあ、言葉なんて絶対に伝わらない……」

 つい、私は取り乱し、縋るような声をあげてしまった。


 ハレマイエル先生、マリウス、ナーナ。

 そして何よりヨゼフの暴走。

 みな、言葉は伝わらないと私を諭すのだ。


 僅かに黙り込み、それからナーナは私を見詰めた。

 私の肩へ静かに手を置き、私の耳元へ口を寄せる。

「確かに、人の言葉は伝わらないかも。でも、生きてれば言い間違いはなおせるよ」

 彼女の温かな吐息が耳をくすぐる。


「だから、伝わるまで言葉を重ねればいいの。いくらでも書き足していけばいいんだよ」


 ね。と、私を見て頷くナーナ。

「それじゃ、先に上がるね」

 そう言って、ほんのり赤らんだ肌のまま、湯船から去って行った。


 彼女が浴場の戸を開けると、僅かに靄が晴れた。

 金色の灯が私の顔を照らす。

 それから、戸はひとりでに閉まった。

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