4 - 5 樹形図
ぽたり。
水の滴る音が聞こえる。
トンネルに染み出た地下水だろう。
……水。
水にいい思い出はない。
大抵、水にまつわる記憶は陰鬱だ。
雨でずぶ濡れの帰り道。
締まりの悪い蛇口から響く、水滴の音。
どちらも、一人ぼっちの私を責め立てる。
その連想は、最後に黒く淀んだ濁流へたどり着くのだ。
兄を呑み込んだ黒い濁流。
一人生き残る私。
あの大水害の情景が頭をかすめる。
波間に見える兄の顔。
こちらに手を差し伸べ、私を助けようと必死にもがく。
そんな兄へと無慈悲に躍りかかる黒い濁流。
肩口から覆い隠すようにそれを浴び、僅かにのけぞる兄の上体。
濁流に消える横顔。
……私を助けようとしなければ、兄は生き延びただろう。
兄の方が岸辺に近く、充分辿りつける位置にいたのだ。
にもかかわらず、兄は私を助けるため、岸辺から離れた。
そして……。
ああ、なぜ私だけ生き残ってしまったのだろう。
なぜ兄は死ななければならなかったのだろう。
なぜ。
いっそ私も。
そんな悲観を引き裂くように、私の体を激痛が駆け抜けた。
「ぎ」
歯が鳴ったのか喉から絞り出されたのか判然としない音。
痛みに耐えかね、私はお腹を抱え込む。
芋虫のように体をくねらせ、必死に痛みに抗う。
目が覚めると巨大な毒虫になっていたと書いたのは誰だったか。
思考が脈絡を無くす。
悶える私に追い討ちをかけるように、胸に形容し難いざわめきが訪れた。
これは何だろう。
その感覚をようやく理解した時、私は上半身を起こし胃の中身を吐き下した。
げほげほと咳き込みながら、我が身に起こった出来事をようやく思い出す。
そうだ。
私は貝塚型に襲われたのだ。
横ざまに振り抜かれた腕は、私の腹部を大きく穿った。
腹がえぐれ、骨が軋んだ。
今の私は重症だろう。
きっと、腹をかき回され吐血したのだ。
込み上げる嘔吐感にえずきつつ、私は自身の吐瀉物を見るともなしに見る。
しかしそこに、血の赤黒い影は見当たらない。
腹部ではちぎれた衣服が黒く染まっている。
しかしお腹はまっさらで、あざ一つ見つからない。
ランプの弱い明かりのせいでそう見えるのだろうか。
再びこみ上げる嘔吐感。
ひとしきり胃の中身をぶちまけた後、私は腹部をもう一度確かめた。
手の平で撫でるが、やはり傷はない。かゆみや引きつれた違和感もない。
あの激痛と釣り合わない外傷。
というより、全くの無傷。
気が付くとその痛みも引いていた。
いったい何が……。
周囲を見渡すと、すぐ横に誰かいることに気付いた。
膝を折り、私と目線を合わせた小さな体。
ああ、子供の姿をしたヨゼフだ。
目に涙を溜め私を見ている。
それにしても、何だが妙に顔が大きい。
子供の頭というのは大きいものだが、それを差し引いてもやたらと大きい。
彼を上から下まで眺めてから、ようやく違和感の正体に気付いた。
ああ、肩幅が小さいのだ。
その肩はあるべき両腕を失い、ひどく華奢になっていた。
……そうか。
結局、私はヨゼフに助けられたのだ。
ヨゼフを庇った私を、さらにヨゼフが庇った。おそらく私と貝塚型の間に入り込み、殴打の衝撃をやわらげてくれたのだろう。
残った腕を犠牲にして。
私の服の黒い染みは、きっとヨゼフの体液だ。
「落ち着いたか?」
闇の向こうからマリウスが現れる。
「すまん……」
頭を垂れる大男。
私とヨゼフを危険に晒したことを謝罪する。
彼の大きな手が、水筒を手渡してくれた。
口をゆすぎ手を洗う。
その水浸しの口元を、マリウスが丁寧に拭ってくれた。
戦士に似つかわしくない、清潔なハンカチで。
可能な限り身なりを整え立ち上がろうとする私。
しかし、足に力が入らない。
マリウスの肩を借りどうにか立ち上がる。
が。
駄目だ。やはり歩けない。
「今いる場所は安全だ。しばらく休め」
けれどヨゼフが……。
そう反論し、再び立ち上がろうとする私。
「ヨゼフはいくらか余裕がある。両腕が取れてかさが減ったおかげで、体の維持が楽になったらしい」
確かに、ヨゼフの表情に苦痛は感じられない。
もっとも、私を危険にさらした罪悪感から、ひどく悲しそうな顔をしているが。
そんな彼を慰めたくて、私は声をかける。
「……ありがとう、ヨゼフ」
少しだけヨゼフの表情が明るくなった。
困り眉のまま、小さく微笑む。
「マリウスさんもありがとうございます。あなたがいなければ、私もヨゼフも今頃どんな目に会っていたか」
「やめてくれ。お嬢ちゃんたちが傷ついてる時点で、俺の任務は失敗だ」
感謝されるほど上手くやれてない。そう言いながらマリウスは、私をひょいと抱き上げ歩き始めた。
何かの施設の名残だろうか、石段の埃を払い、その上に座らせてくれた。
ちょこんとヨゼフも隣に座る。
マリウスがランプの明かりを強め、この空間の全貌が明らかになる。
礼拝堂か何かだろうか。
飾り気は無いが、所々に宗教的な装飾が伺える。
『破局』のさなか、あるいは中世において、隠れて祈りをささげるための施設だったのかもしれない。
地下にこんな空間があるとは……。
しかし何より気を引くのは、正面の壁に描かれた巨大な六角形だ。
細長い六角形。
それは六本の線で対称的に描かれているわけではなく、十の結節点をおよそ二十の線分で複雑に接続したものだった。
幾何学的なようでいて、どこか非対称な図形。
収まりの悪い十個目の結節点は下側に飛び出ており、下部がとりわけ細長い。
「こいつは、導師さまが『樹形図』と呼ぶ図形だ」
よく見るとその六角形は大樹の幹に描かれており、何かしら樹木との関連を伺わせる。
「結節点が整数の数を、線分が『神の文字』の数を表すらしい。この世を構成する数字と文字、そいつを示すのが、この樹形図だ」
厳かに告げるマリウス。
「またの名を、セフィロトとも」
セフィロト。
……不思議な響き。
ゴーレムの『戒律の書』とは異なる樹形図。
その枝分かれの末端は、また別の枝分かれへと継がれている。
その樹形図に終端は無く、無限の循環を示しているように思えた。
「……この世界は一冊の書物に過ぎない。そこに登場する全ての事象は、『神の文字』で名前を与えられている。存在を存在たらしめる、奇跡の『その名』をな」
ゴーレムの胸に記されているのは「人」を意味する『その名』だ。
そう言いながら、マリウスも私の隣に座りこんだ。
「『神の文字』は失われて久しい。『その三文字』も、奇跡の残滓にあやかっているにすぎん」
奇跡の残滓。
私は、その奇跡を幾らか理解した。
人間は言葉の意味を理解し、無限の世界を闊歩する。
それは決してゴーレムには真似できないのだ。
そしてゴーレムの持つ不可能性は、神という文字を出さずとも説明できる論理的なものだった。
まさに「言葉」という論理そのものによって証明される不可能性。
私はマリウスへ問いかけた。
「……ゴーレムは無限の世界を認識できません。無理やり世界を有限にしたがゆえに、言葉も喋れません」
ならば、なぜ。
「人は言葉を口にできるのでしょうか。人も等しく有限で、認識できる世界は限られているのに……」
私はもう、マリウスの答えが分かっている。
それでも聞かずにいられなかった。
「そりゃあ人間の『戒律の書』は、神さまが書いてるからな」
そう。
そうなのだ。
『神の文字』なら奇跡を起こし、言葉の矛盾を乗り越える。
「無限の世界を認識するには、無限の条件文を書き下す必要がある。俺はそう言ったな」
「それはつまり、この世を書物に収めることと変わらない。そいつは『神の文字』にしか成し遂げられない」
まさに神の御業。
ゆえに、人の言葉では決して書き下せない。
「……世界はな、言葉から溢れ出す。そいつは恐ろしいことだ」
言葉から溢れたもの、語りえぬもの。
「溢れたものは、意味が分からない。無意味と言ってもいい」
人は、意味がなければ耐えられないのだろう。
私が、ヨゼフへ言葉が正しく伝わらないこと――そもそもヨゼフは意味を理解しないこと――を受け入れられないように。
神が世界を生み出し原初を与えてくれたからこそ、我々は安心して真理を追究できる。
理由の理由の理由の理由に、神の与えた明確な意味があると信じ、唯一の『
父はそんな真理の一端に触れたのだろうか。
そして、ヨゼフを生み出した。
目を伏せ考え込む私にヨゼフが肩を寄せる。
ゆっくり遠慮がちに、その頭がもたれかかってきた。
そういえばヨゼフは、大きく変形した今でも人らしく振舞っている。
当たり前のことだがすっかり失念していた。
大人から子供へ――巨人を経て――変形した彼は、物の見え方感じ方が大きく変わっているはず。
にもかかわらず、父の記した『戒律の書』は未だ機能している。
今でもヨゼフは私を気づかい、私を求める。
本来ならばあり得ないほどの冗長性。マリウスもそれに気付いているのだろう。
「形を損なっても残る根本的な命令、か。ヨゼフの根っこの部分には、よっぽどたくさんお嬢ちゃんのことが書いてあるんだろうな」
私はゆっくりとヨゼフの頭を撫でる。
ほんの僅か、森の土の香りがした。
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