3 塔の囚人

3 - 1 キュリロスとメトディオス

 聞き間違いだろうか。

 しかしそれは、あまりにはっきりと発音されてしまった。


 ヨゼフは自ら口を動かし「どういたしまして」とのだ。


 よりにもよって、兄と同じ声で。


 あの後私は、ヨゼフを置き去りにして逃げるように家へ帰った。


 ゴーレムが喋るなどありえない。

 いや、あってはならない。


 ゴーレムの発話は、人による人の創造を意味するのだから。


 それは紛れもない禁忌。

 決して犯してはならない過ちなのだ。

 父に、或いは導師に、そう言い聞かされて育ってきた。


 だがゴーレムの発話が禁忌でなかったとしても、彼の発話は私の心を抉った。


 私がヨゼフを愛おしく感じたのは、決して語らないから。


 

 けれどゴーレムゆえの沈黙が、その事実をかき消した。


 黙して佇むその姿は、金色の夢に現れる兄と同じ。

 兄と同じ形で、同じように振る舞い、同じように沈黙する。

 彼が沈黙を守るなら、私はその追憶にいつまでも浸っていられただろうに。


 しかし、彼は口を開いた。


 沈黙を破った彼は、やがて兄との相違を露わにするだろう。

 もうそこに望む答えは無いのだ。

 きっと私は、ヨゼフが泥人形に過ぎないと知り失望する。

 それが余りに切なくて、私はヨゼフから逃げ出した。


 私は今、一人ソファに身を投げ出している。

 暗い部屋の中で私の金色の瞳だけが、爛々と輝いているのだろう。


 今、私を苛むのは父の真意。

 父はなぜこんな事を。

 父は禁忌をもって、兄のまがい物を生み出した。


 私が最も愛した人を、父が最も忌み嫌うものとして蘇らせる。


 ……なんて残酷な。


 結局、父は私の事などお構いなしだったのだ。

 私の心を、黒く淀んだ悲観と猜疑と諦念が満たす。

 静かに涙が頬を伝う。

 まだ土の香りが残るソファの上に、涙がじっとり染みていく。


 そうして浅い眠りについた私は、夜も更けた頃目覚めた。

 立ち上がり部屋を後にすると、玄関の扉越しに人影が見えた。

 街のおぼろな灯が懐かしい形を照らし出す。


 ああ、ヨゼフか。

 兄ではなく。


 彼は家に入ろうとせず、扉の前でじっと立ち竦むのみ。

 うつむいた首とすぼまった肩が、彼の悲嘆を露わにする。


 やがて私は、小さく戸を開け彼を招き入れた。

 私の目は真っ赤だったのだろう、扉を潜ったヨゼフはたじろぎ、口を開いた。


 けれど私は、その口に人差し指を当てるだけ。


 そうして目に涙を浮かべたまま、つぶやいた。

「どうして喋ったの……」

 私の指に口を塞がれたまま、彼は何も言えない。


「どうか口を開かないで。私を一人にしないために」


 小さく息をのむヨゼフ。

 それからは彼は口を閉ざし、二度と喋らなかった。



   …



 私は教師の話を聞きながら、そんな夜更けの出来事を回想していた。


 この街の歴史を語る教師。

 彼もまた『その三文字』の導師だ。


「……アルフォンス・ドーデが言うように、自国の言葉を守っている限り、その国民は自らの牢獄の鍵を握っていることに等しく……」


 私は机にノートを広げ、ぼんやり教師の話を聞いている。

 暴走ゴーレムと襲撃者、ヨゼフの発話。それらが頭を離れず、どうしても上の空になってしまう。


「……しかし聖地を持ち歩けなくとも、言葉であれば誰もが持ち歩けます。ゆえに流転を繰り返す彼らは言葉を象徴イコンとし、現在の信仰のひな型となる……」


 何でもないことが気に障る。

 首筋に触れるシャツの襟や、タイツ越しに擦れるスカートが妙にむずがゆい。


 しばらくすると、教師の話はゴーレムへと移っていった。


「……そもそもゴーレムとは、現代の科学では説明のつかない存在です。いかに『神の文字』とはいえ、言葉を刻んだだけの泥塊が動き出すなど常軌を逸脱しています」


 血も肉も歯車も真空管も持たず、自己組織化し自律する泥塊。

 そんなもの、奇跡かオカルトとしか言いようがない。


「しかし私たちの社会は、その得体の知れない存在によって維持されているのです。『破局』を生き延びた僅かな人々は、ゴーレムなしでは生存すらままならない程、追い詰められました」


 『破局』。 


 それは地球環境の劣化と、世界規模の大戦が招いた未曾有の災厄を指す。

 この世界がこんな姿になってしまった原因。

 私が生まれる遥か前の出来事だが、未だその傷は癒えない。


 産業革命の起きた前世紀の終わり頃、この星の土はゆっくりと死に始めた。

 からからに乾き砂漠と化した土壌は森や畑を許容しない。徐々に畜産も農耕もままならなくなった。


 同時に多発した異常気象は疫病を復活させ、活発になった人と物の流れに乗って世界中に死をばらまいた。

 この時欧州では、民族の自立や革命、あるいは植民地の獲得を目指し各々が闘争を始めてしまう。

 中欧を治めるハプスブルク家の統治は衰え、その不安定な情勢に異常気象が重なった。

 元より埋めがたい国家・民族間の溝は、この時決定的となる。


 そして今世紀の初め、一度目の大戦争が起こる。


 二重帝国として永らえたオーストリアは脆くも崩れ去り、さらなる火種を増やして終戦を迎えた。土壌の劣化も著しく、戦後の痩せ衰えた土は、大幅に減少した人口すら養うことができなかった。


 その後に起きたのは苛烈な生存競争。

 自らの生存圏を確保するため、他者を虐げる人々。

 言葉や文化、奉ずる神が違うから。いや、その奉じ方が違うから。そんな些細な理由で区別し、殺しあい、人はずいぶんと数を減らした。


 かつて神は分をわきまえない人々に激怒し、その象徴たる巨塔を突き崩したという。

 『破局』のもらたした極めて不条理カフカ―ルナな混乱もまた、神の怒りを代弁するかのような苛烈さを持って、人を蹂躙したのだった。


 人はあまりに減りすぎた。

 既に人は、人の力だけで社会を回すことができない。


「……そうして途方に暮れる人々の前に現れたのが、結社『その三文字』です」


 『神の文字』を操り、ゴーレムを使役する結社。


「彼らは伝説上の導師アルクイストが興し、遥か昔より存在していたといわれています。プラハに伝わるゴーレム伝説も、彼らに連なるものだと言われています。……『その三文字』は『破局』からの復興を成し遂げ、百塔の街において人種も民族も越えた統治を実現しました」


 この苦境を乗り越えいつか『真理その三文字』の頂へと到達すべく、彼らは日々を邁進する。


「当初はオカルトじみた秘密結社に過ぎない『その三文字』でしたが、ゴーレムという奇跡と頑健な教義をもって、徐々にこの街へ浸透していきました」


 頑健な教義。

 それは既存の宗教を取り込みながら、ゆるやかに信仰を統一した。


 言語信仰とでも呼ぶべき『その三文字』の教義は、ゴーレムを駆動する『神の文字』を最大の根拠としている。


 いわく、神が十種の整数とおよそ二十種の記号から世界を記し、この世を創った。

 神の生み出した言葉は奇跡を流出させ、「意味」や「事象」を生み出した。


「すなわち、


 それが『その三文字』の信仰。

 彼らは、言葉が伝える「意味」ではなく「言葉そのもの」が力を持つと信仰する。

 そんな彼らの教義により、既存の宗教が拠り所としていた聖典は正統性を失った。


 いかなる信仰であろうとも、それは言葉――あるいは絵画や音楽、舞踏といったコード――で記される。


 しかし、今に伝わるその言葉は、誰の言葉だろうか。


 少なくとも、それを記した者の言葉では有り得ない。

 なぜなら言葉は長い年月を経て変質するから。


 記録メディアの劣化や不完全な書き写しにより、教えは失われていく。

 他言語への翻訳は多くのニュアンスを欠落させる。

 そして何より、言葉を操る人そのものが変わっていく。


 それゆえ聖典の意味が正しく伝わることは、有り得ないのだ。


「……遥か昔、この国に教えを伝えた聖人キュリロスとメトディオスは、土着の人々が用いるスラブ言語でのミサや典礼を広めようとしました。そのためにグラゴール文字――あるいはキリル文字――まで発明したと言うのに、東フランクの教会はそれを許さなかったのです」


 スラブの言葉は、神を讃えるための言語ではないから。


 ゆえに教えは正しく伝わらない、と判断されたから。


 言語の不完全さから、キュリロスとメトディオスの信仰心はないがしろにされたのだ。

 結局二人の夢が叶うことは無く、ただその波乱の生涯がヴィート大聖堂で、ムハミュシャの手掛けたステンドグラスとして伝えられるのみ。


「……さて、話を『破局』以後に戻しましょう。実権を握った『その三文字』は、次第に政治や教育も掌握し……」


 そうして教師は『その三文字』の解説を続ける。


 今、この歪な楽園は『その三文字』の一党独裁によって運営されている。

 彼らは『神の文字』を手本とし、言語や文化の統一を目指している。


 未だ残る言語や文化の違いに目くじらなど立てない。

 奇跡を起こす『神の文字』に比べれば、人の言葉などみな等しく不完全なのだ。


 だからこそ、共に『真理』を目指す事ができる。

 等しく不完全な他者に寛容になれる。


 こうして一所に集い『神の文字』を目指す我々は、いつか完璧な相互理解を実現するだろう。

 そんな空気がこの楽園を包み込んでいる。


 けれど私は、その考えを素直に受け入れられない。


 言葉は正しく伝わらないのだ。

 ヨゼフの温かな言葉が、私を傷つけた様に。


 なにより、一つの言葉に従い神を目指したからこそ、巨塔は突き崩されたのではなかったか。


 この百塔の街が例外だという保証は、あるのだろうか。


 気がつくと、授業の終わりを告げる鐘が鳴っていた。

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