3 - 2 砂男
私はちびた鉛筆をしまい、ノートを閉ざす。
そして小さく溜息をつく。
ヨゼフは今、家でどうしているだろう。
彼の悲痛な面持ちが目に浮かぶ。
一晩経って冷静さを取り戻し、私は彼にひどいことをしたのだと自覚した。
ヨゼフはただ「どういたしまして」と言っただけ。
たとえゴーレムの発話が禁忌であっても、彼自身に悪意や下心は無かったはず。
なのに私は恐れ、怯え、逃げ帰ったのだ。
きっとヨゼフは困惑しただろう。
なぜ、こんな些細な言葉に怯えるのだろうと。
どうして、こんな単純な言葉が伝わらないのだろうと。
……ヨゼフに人のような意志や感情が有るのかはわからない。
けれど、あの笑顔や悲嘆にくれる表情を見ると、私は彼をゴーレムとして扱えないのだ。
うつむく顔を上げ窓の外を見る。
眼下には、ヴルタヴァの金と黒に輝く奔流。
その河に面した橋塔から伸びるのは、私と兄を巻き込んで崩落したカレル橋だ。
その名の由来となったのは、かつてこの国を治め街を育んだ母国の父カレル四世。
彼はプラハ司教座を大司教座へ押し上げ、アルプス以北初の大学を生み出し、旧市街の南に新市街まで建造した。
その功績はすさまじく、ゆえにこの街にはカレルの名を冠した施設が多数存在する。
カレル橋も、そんな施設の一つだ。
旧市街と丘の上のプラハ城を繋ぎ、歴代の王が戴冠式のため歩んだ橋。
しかし、その橋は華々しい歴史だけに彩られているわけではない。
腐敗したカトリック教会と戦ったヤン・フスは、この橋の袂の塔に免罪符への抗議を掲げた。
彼の活動はプロテスタントの先駆けとなり、後のフス戦争の火種となる。
また、カトリックとプロテスタントによる三○年戦争では
ただ、彼らが神の言葉を受け取り損ねたがゆえに、この橋は血に染まったのだ。
私の通うこの学校は、そんな宗教戦争の合間に出来あがった。
その名を聖クレメンティヌム修道院という。
三つの教会と礼拝堂を備え、バロック様式の壮麗な図書館や講堂、天文台を持ち、出版局としての機能すら有する。
現在は修道院の講堂や付属施設が校舎となり、大学附属の図書館としても機能している。
神の言葉を仰ぎ、紡いだ人々。けれど、その意味はおぼろなままだったのだろうか。
そんなことを思いながら、橋の上を行く人々を見る。
ふと、立ち止まったままの人影が目にとまった。
黒い衣服、大人の背丈。
こちらを伺っているように見える。
なんだろう……。
私が目を細め凝視すると、その人影はすっと消えてしまった。
「この本ありがとう!」
唐突に、私の背中へ大きな声が投げ掛けられた。
快活な少女の声。
私はびくりと肩を震わす。
ゆっくり振り返った私の前に、一人の少女が立っていた。
くりくりした大きな青い瞳。
その上には白く丸い眉が乗っている。
同じく白い頭髪は毬のよう二房に結われ、その根元から細く長い髪が流れ出す。
少し子供っぽいが、それゆえ目を引く美貌の持ち主。
リンネルのスカートから覗く白い足がまぶしい。
彼女の名は、バールシェム。
「家名じゃなくて名前で呼んでほしいな。それ、いかつくて好きじゃないんだよね」
彼女の名はナーナ。
ナーナ・バールシェム。
ポーランド――その大半は砂礫に覆われてしまった――から来た転校生。
なんでも、『その三文字』に連なる名門の出らしい。
しかし彼女はそんな出自を微塵も感じさせない。
いつでも天真爛漫で快活な少女だ。
その明るさと容姿からすっかり学校の人気者で、私以上に馴染んでいる。
「『砂男』って題名だから、てっきりゴーレムの話かと思ったよ」
私に本を差し出しながら、そう告げる。
彼女は、無口ゆえ一人ぼっちの私に話かけてくる数少ない人間だ。
誰に対しても分け隔てが無く、こうして私とも交友を持とうとする。
先週、彼女から何か本を貸してほしいと言われたので、私は丁度読み終わった「砂男」という本を貸したのだった。
砂男。
ホフマンという作家の書いた、目にまつわるトラウマを抱えた青年の話。
砂男という妖怪や父の死、幼少期のトラウマなど多くの題材を内包しているが、取り分け私が興味を抱いたのは人形との恋愛。
主人公は図らずも人形に恋し、その破局によって一層傷を深めた。
兄が死んでから倍以上に膨れ上がった父の蔵書の一冊。
父はその蔵書たちを、光のない目で貪るように読んでいた。
しばし本の感想を語り合う私たち。
いきなり妙な本を貸してしまったことを詫びるが、ナーナはさほど気にしていないようだ。
この本は明るい内容ではない。
読み終われば、なんとも苦い気持ちを味わう事になる。
しかし彼女は、その暗さや不気味さに何かしらの意味を見出そうと、様々な考察を聞かせてくれた。
一息ついた後、彼女はまた喋りだした。
「それにしても、意地悪なお話だよね、これ」
彼女は物語の結末が気に入らないそうだ。
「お化けとか許嫁とのいさかいとか人形のこととか、いろいろ乗り越えて幸せになったのに、最後は狂って塔から身を投げちゃうなんて」
主人公を取り巻く陰湿で偏執的なモチーフは、彼の正気を蝕み死へと追いやった。
「人形に恋しちゃうところも変だよね。あれだけ喋ったり踊ったりすれば、相手が自動人形だって気付くんじゃないかな?」
何かを期待するナーナの眼差し。
本の虫として上手いことを言いたいが、あいにく持ち合わせが無い。
私は素直に、自身の解釈を話した。
「誰にもトラウマを理解してもらえない主人公は、人形だって分かっていても、話を聞いて欲しかった……のかも」
自動人形の虚ろな返答――意味の取れない感嘆符や、沈黙したまま頷く所作――は全てを受け入れ、まるで肯定のように聞こえた。
そうして主人公は恋心を募らせ、破局へと向かっていった。
私はそんな意味の言葉をナーナに伝える。
「だったら尚更悪いよ」
不満げなナーナ。
「ただ頷いたり黙り込んだり、そんなのコミュニケーションじゃないよ」
「でも……」
「相手のことが好きだったら、ちゃんと言葉で伝えなきゃだめだよ」
私から目を逸らし、か細く小さな声で、彼女はそう言った。
彼女の顔に浮かぶのは不安、或いは悲観。
けれどその表情は一瞬で消えた。
もう、いつもの快活な笑顔に戻っている。
「ま、恋は盲目ってことかな!」
彼女ははにかみながら言った。
「怖いけど面白い本だったよ。ヘレナさん、また何か貸してね」
そう言って、歩き去って行くナーナ。
鐘の音が始業を告げた。
数少ない友人との何気ない会話。
けれど、なぜだか心にしこりが残ってしまった。
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