3 - 3 黙する理由
放課後、私は一人図書室で過ごす。
聖クレメンティヌム修道院の図書室。
頭上は壮麗なフレスコ画に覆われ天井のアーチへ至る本棚には金色の装飾。
寄木細工の床には一直線に並べられた地球儀。
本棚の書物は古めかしくくすんでいるが、その褐色は西日で金色に輝く。
本の照り返す柔らかな光は森の木陰を連想させる。
繊維として抄かれ、言葉を刻まれ、書物として結実した木々が、再び鬱蒼とした森を成しているのだ。
この図書室は本来、大学の研究者――すなわち『その三文字』の導師――しか入室を許されていない。
しかし私の父は導師だ。
当然父もこの部屋に入ることが出来たわけで、書斎にはここの鍵が置かれたままになっていた。
それゆえ私は父が消えた後、鍵を拝借し時々忍び込んでいる。
窓辺には小さな椅子。
私はそこで本を読む。
しかし視線は文字をなぞるだけで、内容は全く入ってこない。
そうして知らず知らず、私は思索へ沈んでいた。
たいてい学校での私は一人ぼっちで黙って過ごしている。ナーナがいる時はあくまで例外。
言葉への不信ゆえに、私は無口になってしまった。
私が黙する理由。
それは、父の言葉の虚ろさ。
兄が死んだ後、父は研究へ没頭した。
私がどれだけ寂しくとも父は振り向いてくれない。
ただ、私の目を見ず語られる「愛している」という言葉が、唯一の愛情表現だった。
その響きのなんと虚ろなことか。
父が口にした「愛している」という言葉は、言動と意志――言葉と意味――が必ずしも一致しないという事実を、最悪の形で突きつけた。
私が信頼できたのは、かつての兄の包容だけ。あの金色の夢の続き。
黙して微笑む兄は大きな手で私を包み込むのだ。
決して離さないように、けれど壊れないように。
それは言葉を介さない、疑いようのない愛情表現。沈黙ゆえに、その愛は本物だと感じられた。
人々がかつての兄と同じように――あるいはゴーレムのように――何も語らず優しく微笑むのならば、きっと『破局』も訪れなかっただろうに。
ああ。
そもそも、なぜ人は語るのだ。
憐憫に沈む私の意識に、もう一つの疑問が浮かび上がった。
ならば、なぜゴーレムは沈黙するのか。
今まで思いもしなかった疑問だ。
ゴーレムは沈黙するもの。
ゴーレムは摂理によって箝口させられる。
そう習ってきたのだから。
だが、ヨゼフが語り禁忌が現実となった今、「禁忌だから」という自家撞着した理由は受け入れられない。
私はうつむき考え込む。
まず考えられるのは、発声器官が無いから。
しかしこれは否だ。
彼らは人と同じ体を持つ。
人の感覚を共有し、人の言葉を理解するため、彼らは可能な限り人に近い造形を施されるのだ。
そのためゴーレムは、たとえ機能を発揮せずとも咽喉や肛門がきちんと再現されている。
すなわち、彼らは発話可能な喉を持っている。喋ろうと思えば喋れるはずなのだ。
ならば何かに発話を禁じられているのではないか。
例えば『戒律の書』に。
『戒律の書』はゴーレムに知識を授け、行動を決定させる長大な書物だ。
同時にそれは、多くの制約をも課す。殺傷や自壊のように、人に危害を与える行動を禁じている。
「喋る」という行為もこういった制約、すなわち禁令に含まれているのだろうか。
禁令は何重もの安全装置により実行されないようになっている。
そこに到るまでの枝分かれには、数々の迷路や論理の防壁が立ちはだかっており、通常の命令ではたどり着くことができないのだ。
しかし、これらの安全装置を無効化できたのなら。
そして発話が禁令の一種ならば。
父は安全装置を出し抜き、禁令を実行可能にする方法を発見したのかもしれない。
私は小さく溜息をつく。
しおりを挟み、展開がよく分からないまま読み進めてしまった本――これも父の蔵書、『未来のイヴ』という奇妙な本だ――を閉じる。
かろうじて幾つかの文章は頭に残っているが、「我々の神々も我々の希望も、もはや科学的にしか考えられなくなってしまった」という台詞が、どのような文脈で語られたのか思い出せない。
小さく唸りながら伸びをする。
凝った肩を軽く回し、組んでいた足をほどく。
すると。
かたん、と頭上で音がした。
靴を何かに引っかけたような音。
この図書室は吹き抜けになっており、二階に当たる高さに壁伝いの足場が据えられている。
音はそこからしたのだろう。
私のちょうど真上で、ここからは何も見えない。
再び圧し殺したような沈黙が訪れる。
ほんの僅か、衣擦れの音が聞こえた。
大学の人間だろうか。
だとすれば、なぜ息を潜めるのだろう。
本来、無断で忍び込んだ私を叱り飛ばすべきなのに。
不意に、教室の窓から見た人影を思い出す。
橋の上に立つ黒づくめの人影。
あれは私を襲った黒い男ではないのか。
まさか。
ここは学校だ。
いや、あり得ないことはない。
既に彼らは手段を選んでいなかった。
今さら何をしてきてもおかしくないのだ。
ヨゼフとのいざこざから忘れていた恐怖が、首をもたげる。
ああ、なぜこんな不用心な真似を。
一人きりになるのが如何に危険か、分かっていたというのに。
怯えから胸が締め付けられる。
必死にくい縛っても、歯の根が合わなくなる。
私は静かに席を立つ。
震える足で窓辺を離れた。
しかし、恐る恐る、足場の上を見上げてしまった。
……そこにいたのは。
「ヨゼフ……?」
書棚がはじく金色の光に囲まれ、ヨゼフが佇んでいた。
森の中、夕陽を背負う兄を思い起こす。
私を見下ろし、ヨゼフは優しく微笑んだ。
あの夢とは少し違う、どこか寂しげな顔で。
私は息をのむ。
「どうしてここにいるの……?」
うつむくヨゼフ。
沈黙をもって答える。
ああ、そうだ。
私は彼に言ってしまったのだ。
どうか口を開かないで、と。
それゆえ、彼は私の問いに答えられない。
一瞬ヨゼフは、私を見据え口を開こうとした。
しかしやっぱり喋らない。
再びうなだれるヨゼフ。
私は彼に、発話を促すべきだろうか。
けれど、それは……。
逡巡する私。
不安げに見つめ合ったまま、私たちは沈黙した。
そして、唐突に思い出した。
そういえば昨日の朝、私は「一人にしないで」と彼に告げたのだった。
「……私を一人にしないために、ここまでついてきたの?」
さっと顔を上げ、こくこくと首を振る。肯定のうなずき。
「もしかして、今朝からずっとついてきていたの? 学校の中にまで?」
同じくうなずく。
束の間、私は沈黙する。
いくら兄が過保護とはいえ、ここまで極端ではなかった。
いや、あんな目にあった今となっては、過保護とも言えないが。
あくまでも命令に忠実なヨゼフ。
その樹形図に刻まれた「ヘレナを守る」という言葉を、忠実に再生し続ける。
しかしヨゼフは、私の言葉を間違って受け取っている。
一人にしないでとはそういう意味ではないのだ。
ずっと寄り添っていてほしいとも思うが、それは本質ではない。
この言葉は命令ではなくお願い。
一人ぼっちが嫌だという意味の、曖昧な言葉。
彼は、やはりゴーレムなのだと実感する。
兄に似ているからこそ、僅かな差異が目立ってしまう。
黙考する私をヨゼフが見下ろしている。
不思議な表情だ。
僕の行動は合っているか?
そんな問いを伺わせる、自信と不安がない交ぜになった顔つき。
まるで、年長者の忠告を聞く子供のよう。
立場の逆転した兄妹。
その妙な情景に、ふっと笑みがこぼれる。
そして、静かに思う。
彼の存在は禁忌そのもの。
けれど、口を開いたのは私のため。
今もこうして、私を守るため身を挺しているのだ。
そう考えると、胸につかえるわだかまりが解けていった。
私は小さく息をつく。
それから口を開く。
「昨日は、ごめんね」
自然とそんな言葉が出た。
きょとんとするヨゼフ。
「ヨゼフの言葉は何も間違ってないよ。間違ってたのは、私の受け取り方」
私にとって、ヨゼフの言葉は禁忌の証。
けれど彼にとって、それは感謝の印だった。
沈黙では決して伝わらない温かな気持ち。
それを伝えようと、彼は禁忌さえ踏み越えたというのに。
「だから、どうか気にしないで。もう喋って大丈夫だよ」
しばらくしてから合点がいったのだろうか。
彼はなんだか困ったような、それでいて嬉しそうな顔をして、言った。
「ありがとう、ヘレナ」
私の言葉は伝わっただろうか。
確証はない。
けれど今は、今だけは、言葉を信じてもいいと思えた。
たとえささやかな言葉でも、こうして分かりあえるのなら。
人間と人形でも分かり合えるのなら。
たとえ禁忌であっても、悲劇ではないはずだ。
心を病み塔から身を投げることはなくなるだろう。
言葉を伝えあった私たちは、再び沈黙に包まれる。
書物の森で金色に照らされる中、尖塔が夕刻の鐘を鳴らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます