7 - 4 塵土の楽園
ナーナやカレル、ガル博士の言葉が脳裏にこだまする。
「つまり、ヘレナが唯一の鍵なの」
ナーナが言った。
「あなたは人として生まれ、今はゴーレムに近しい体を持っている。『人としての意志』を備えながら『人としての形』を再現できる可能性があるのは、あなただけ」
ああ、そういうことだったのか。
『大隊』が私を求めた理由、ナーナが言った「ヘレナの力」の正体。
彼ら『大隊』は、私を鍵とするつもりだった。
にもかかわらず。
「今、ブスマンは機能不全に陥っている」
カレルが言った。
ブスマンはいわば『本文』の扉にあたる存在。
『本文』へ接続し、人と『本文』のやり取りを仲立ちできる。
『大隊』はブスマンを介して私と『本文』を接続し、楽園を追記するつもりだったのだ。
しかし『大隊』の目論見は、『その三文字』とヨゼフに阻まれた。
元より『その三文字』は、街の犠牲を厭わず自動計算機により『本文』をこじ開けるつもりだった。
しかし当時の最高位権限者――ハレマイエル先生、ファブリ師匠、ガル博士、そして我が父レーヴ――たちの意見は割れ、街の犠牲に反対した師匠と博士は導師を辞し野に下った。
師匠は一介の陶工として隠居したが、博士は『大隊』を率いて『その三文字』に抵抗を続けた。
まだ試行錯誤の余地はあるはずだと、計画を遅延させるため破壊工作を繰り返した。
そして『その三文字』と『大隊』は、互いの道理を通すため人知れず戦い続けていたのだ。
最終的にガル博士は砦の地下に押し込まれたが、その対価としてブスマンというほぼ唯一の大規模自動計算機を得た。
『大隊』が私を手に入れれば、ブスマンを扉に使い、私を鍵として『本文』と対話できるかもしれない。
街を犠牲にすることなく、地上に楽園を顕現させられるはず。
どれだけ時間がかかるか分からないが、ガル博士は一縷の望みにかけていたのだ。
しかしあの夜希望は潰えた。ヨゼフの乱入によって。
もしヨゼフが現れなければ、もう全ての決着はついていたかもしれない。
あの夜、マリウスを飽和攻撃――彼の吸収速度を上回る量のゴーレムをぶつけ、かろうじて動きを封じる――で止めたカレルとナーナはようやく私を追い詰めた。
しかしマリウスとの戦闘によりゴーレムは失われ、カレル自身も痛手を負った。
それゆえカレルはヨゼフに勝てなかった。
苦肉の策としてナーナが徴用した民間のゴーレムも、ヨゼフの予想を上回る戦闘力に撃破されてしまった。
ヨゼフが暴走した夜も同様で、結局『大隊』は私を手中に収めることができないまま。
そして城で父と再会した日、『大隊』による妨害を恐れた父は、ウルティムスでブスマンを攻撃した。
失踪した父が秘密裏に建造した、特大規模の自動計算機型ゴーレム、ウルティムス。
その演算能力はすさまじく、ブスマンを重篤な機能不全に陥れた。
そうしてブスマンは『本文』に繋がることができなくなった。
…
「とはいえ、こちらには安全装置たるナーナがいる。ゆえにレーヴ教授が『原形質』を集めるのは不可能だと考えていた」
大量の『原形質』を手に入れるもっとも確実な方法は、既存のゴーレムを自壊させ『原形質』に戻すこと。
しかし、百塔の街のゴーレムには『戒律の書』が刷り込まれている。
「『戒律の書』に刻まれたバールシェムの権限は強力だ。レーヴ教授が自壊を命じても無効化できる。……だが、あれ程強引な方法をとるとは」
カレルが沈鬱な面持ちのままそう言った。
強引な方法。
すなわち、無頭型を用いた物理的な制圧。
ウルティムスにより一時的にこじ開けられた『本文』から剽窃された『その名』は、無頭型と呼ばれる異形のゴーレムを象った。
無頭型は従来の人型ゴーレムと大きく異なり、その思考は戦闘に特化している。
ウルティムスや電子戦器の支援を受けた戦術的な情報通信網を張り巡らせ、人型ゴーレムとは比べ物にならない効率で戦闘をこなし、少数ながら街一つ制圧した。
『大隊』の保有する兵器――戦車や野砲――では歯が立たず、『大隊』は地下への籠城を余儀なくされた。
父と先生は一切の横槍をかわし初動を完遂するため、この計画を僅か数名で画策したのだ。
そして、あの無頭型を手足として実行に移した。
既存の兵器もブスマンも戦力にならない今、『大隊』は指をくわえて彼らを見ているしかない。
それが、ここまでの経緯だ。
…
そうして今、私は一人黒い廃墟をさまよっている。
『大隊』の拠点を抜け出して。
その口は塞がったまま。
それが心的な原因によるのか、ゴーレムに近しいがゆえなのかは分からない。
けれど、私の口は黙り込んだまま。
久々に感じる絶望が、私の小さな胸を満たす。
いっそ私もゴーレムなら良かったのに。
そうすれば、ヨゼフと同じ存在でいられた。
人ではなくても孤独を感じることはなかった。
けれど。
今の私は人でもゴーレムでもない。
その純然たる事実が私を打ちのめす。
かつての私は、人には人だけが持つ何かがあると、純粋に信じていた。
同じようにゴーレムにもゴーレムたる証があると、どこか無邪気に思っていた。
それが自らの寄る辺を明らかにするはず。
そう考えて安心していた。
確かに『本文』は、人の証を求め人とゴーレムを厳格に区別している。
しかし、私のような例外が存在する以上、その境目は曖昧なのだ。
たまたま、『本文』の基準では人とゴーレムが分かたれるだけ。
結局、物事の――言葉の――基準など、それを操るものの主観にすぎない。
幼い私が他者の言葉を受け取り損ねたように、言葉の定義は人の数だけ存在する。
そして。
父の「人」の定義に、私は何者として映ったのだろう。
きっと父も打ちひしがれたのだ。人外となった娘のあり様に。
父が私をないがしろにしたのには理由があったのだ。
……先生もマリウスも、私ではなく世界を選んだ。
言葉によって綴られた、この世界を選んだ。
そう。
私という半端な存在は、言葉から零れ落ちるのだ。
私はもう「人」あるいは「ゴーレム」という言葉に所属できない。
言葉から放逐された、寄る辺なき者。
ふふ。
もし口をきければ、乾いた笑いが漏れ出ていただろう。
けれど実際は、冷たい涙が頬を伝い落ちていくだけだった。
そうして私は、ただひたすらに歩いた。
けれど未だ人影は見えず、時折無頭型の足音が聞こえるだけ。
かつん、と石畳に躓き、私は転ぶ。
黒いタイツが破ける。
膝から血が流れ出した。
どす黒い泥水ではなく、真っ赤な血液が。
戯れに、私は自身の体に命じた。
傷を閉ざせ、と。
しかしそれは受領され、膝の傷口はただちに塞がった。
痛みすら消えた。
これでもう、夢と現を見分けることはできなくなったのだ。
こんな寝入りばなの悪夢のような状況が、現実だなんて。
ヨゼフもこうして傷を治していたのだろうか。
私はまた少しゴーレムに近づき、人から遠ざかる。
しかし、どちらに属することもできない。
私は「人間」と「ゴーレム」という言葉の間を揺れ動く。
立ち上がり周囲を見渡す。
いつの間にか、私は旧市街まで歩いてきていた。
路地の別れ道を右へ左へと折れ曲がる。
旧市街の通りは細く曲がりくねり、幾つもの分岐を持つ。
もう、誰にも会いたくない。
誰に会ったとしても、それは私の同族ではありえないのだから。
この心を慰めることなど、できはしない。
気がつくと目の前に壁が立ちふさがっていた。
行き止まり。
左右には廃墟の高い壁。
その壁に手を触れる。
淡いベージュの漆喰。
長い時を経て古びたそれが、ぼそりと剥がれ落ちる。
ああ、この路地は。
ヨゼフが、初めて私を助けてくれた路地だ。
ヨゼフ。
……そうだ。
まだ私にはヨゼフがいたのだ。
確かに私は、人でもゴーレムでもない。
けれど、ヨゼフだって似たようなもの。
ただ兄のまがい物として私を守る。その心情すら兄を模し、ヨゼフそのものとは何なのかを曖昧にする。
私に残った、本当に最後の心の拠り所。
もう、彼さえいれば何もいらない。
言葉さえ欲しいと思わない。
語れないなら、それでいい。
……ああ。
だから私は、喋れなくなったのだろう。
もうこの口は言葉を必要としていない。
言葉が私を見捨てた様に、私も言葉を見限ったのだ。
だって、言葉は決して伝わらないのだから。
振り向くと、路地の入口からずん、ずん、という音が聞こえた。
こんな近くに無頭型がいることに、私は全く気付かなかった。
私を認め、既に追い詰めたことを理解したのか、ゆっくりと距離を詰める無頭型。
その額の『真理』の三文字を穏やかに明滅させている。
彼らはまだゴーレムを探しているのだ。父の計画の糧とするため。
彼らは既に市内のゴーレムほとんどを狩りつくしたが、まだ足りないのだろう。
執拗に街を闊歩し泥人形をあぶりだす。
無頭型が立ち止まり、身をかがめ私を凝視した。
ねえ、あなたに私はどう見える?
言葉の出ない口で問う私。
無頭型はしばし凍りつく。
文字から放たれる光が一時消え、その後猛烈な勢いで明滅し始めた。
なんだこいつは?
きっと、彼も決めかねているのだろう。私が何者なのか。
しかし彼は考えがまとまったらしく、文字の瞬きは止んだ。
身を起こし私を見据えた。
ゆっくりとその肢を振り上げる。
まるで、お前を叩き潰してやるとでもいうように。
私は口の端をゆがめて笑う。
彼の言葉の定義において、私はゴーレムに含まれるようだ。
あんなものを叩きつけられたら無事では済まない。
けれど、私はそれでもいいと思っている。
どうせこの体は治るのだ。土を継ぎ足せば。
その肢が振り下ろされる。
私がめちゃくちゃに叩き潰されるその寸前、ずどん、というとてつもない音が響いた。
もんどり打って吹き飛ばされる無頭型。
廃墟をなぎ倒し、埃を巻き上げ、四肢をばらばらに撒き散らしながら消えていった。
あたりを覆う土煙。
その奥に何かが佇んでいる。
今日、地上に出てから初めて見る人型。
はたして彼は人だろうか。それともゴーレムだろうか。
額にきらめく赤い光。
『真理』の三文字を象った、淡い瞬き。
私と同じ黒い頭髪、琥珀のような金色の瞳。
そしてその優しげな面差しは。
それは、ヨゼフだった。
幻?
それでもいい。
いつものことではないか。
その腕に飛び込もうと、私は駆けだす。
しかし、
「来るな」
ヨゼフは私に向かって手を突き出し、私を拒絶した。
「」
私は何も言い返せない。
立ち止まり、ただ黙して彼を見詰める。
しかしヨゼフは私から目をそらし、決してこちらを見ようとはしない。
「……これでお別れだ」
彼の喋り方は随分と流暢になった。
しかし、その言葉は何ら温かみを感じさせない。
あの時屋上でたどたどしく語られた彼の言葉は、不完全でありながらも私への思いやりに満ちていた。
この温かな気持ちを受け取れるなら、伝えられるなら、私は言葉など話せなくてもかまわない。
あの時もそう思った。
どれだけ言葉を重ねても零れ落ちる真意。
それを、彼は懸命に言葉にしようとした。
けれど今の彼はその言葉に、命令を受領させる以外の目的を見出していない。
語ることが怖かったのではないのか。
言葉から大切なものが零れ落ちることを恐れたのではないのか。
言葉にならない何かを失うことは、言葉を失うより辛いことではなかったのか。
やっぱり、言葉なんて。
あの笑顔も、あの抱擁も、今のヨゼフは連想させない。
ゆっくりと顔を上げ、その金色の瞳で私を射抜く。
立ちすくむ二体の人型。
無頭型と同じように、ヨゼフの額の『真理』の三文字が高速で瞬いた。
同じパターンの明滅を繰り返す。
何度も、何度も。
もう、彼が無頭型と同じ存在になったことを告げるかのように。
そして再び沈黙した。
しばらくすると、彼は石畳を踏み砕いて跳躍し、どこかへ去っていった。
私は立ち尽くし、呆けたように彼の消えた街並みを眺めるだけ。
それからようやく崩れ落ちる。
もう、涙も出てこない。
…
どれだけそうしていただろうか。
遠くからかすかな声が聞こえた。
「いた!」
それはナーナの声。
足音はもう一人分聞こえる。
足早に駆け寄る二人。
カレルが、物言わぬ私をゆっくりと抱き上げた。
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