4 - 2 言葉の外

 狭く急な階段が、暗闇の奥底に消えていく。

 時々、右へ左へ折れ曲がる。

 きのこと黴の臭いが鼻をつく。


「まさか喋るとはな……」

 ヨゼフを背負い先導するマリウスが、重々しくつぶやいた。


 私たちは今、旧市街の地下に張り巡らされたトンネルを進んでいる。

 『大隊』の目をくらますため、このまま新市街河沿いまで移動するらしい。

 新市街到着後は、そこに住まう「すご腕」の陶工にヨゼフを修繕してもらうという。


 壁では壁龕へきがんが虚ろな闇を湛えている。

 横目に見ながら歩みを進める。


 古来よりプラハの住人は、こんな地下道の上で生活していた。

 その多くはヴルタヴァの岸辺に繋がり、水の湿気で冷え冷えとしている。


 頭上の音が消えて久しい。

 始めは地上の喧騒がもたらすくぐもった響きを不気味に感じたが、今となっては懐かしさすら覚える。

 それは地上との数少ない接点だった。


 私は道の木枠――扉の名残だろう――に躓く。

 どうにか壁に手をつき、体を支えた。


 この通路は左右に折れ曲がるだけでなく、上下にも激しくうねっている。

 岩や地下室を避け、場当たり的に道が継ぎ足されているのだ。

 おかげで私は、街のどの辺りにいるのか完全に分からなくなってしまった。


 視線を上げる。

 手にしたランプの金色の光が、辛うじて道を示す。


「大丈夫か?」


 立ち止まり私を気遣うマリウス。


「……大丈夫です」


 私の無事を確認し、再び歩き出した。


「……『話者』。『大隊』の連中はヨゼフをそう呼んだな。文字通りの、喋るゴーレム」


 マリウスのつぶやき。


「確かに、『その三文字』でも存在は噂されていた。だがそいつはあり得ないはずだった。なんせゴーレムは、摂理によって口を塞がれているんだからな」


 そう。

 それは有り得ないのだ。

 そもそもゴーレムは、言葉の意味を理解しないのだから。


 仮に摂理が――神が――禁じずとも、ごく論理的な理由から箝口させられる。


「だがレーヴ教授が関わったとなると……」


 心当たりがあるのだろう、マリウスは眉間に皺をよせる。


「あの水害で息子さんを喪って以来、レーヴ教授は様子がおかしかった。……まさか、こんなものをこさえていたとはな」


 黙り込むマリウス。

 まぎれもない禁忌を目の当たりにし、彼は語ることを止めた。

 後は歩みを進めるのみ。


 私が顔を上げると、マリウスに背負われたヨゼフが目に入る。

 あまりにひ弱で華奢な背中。

 苦しそうにあえぎながら、時折目の端で私を捉える。


 これが、あの巨人の正体。

 私は小さく溜息をつく。


 ヨゼフは私に言葉を伝えるため、禁忌さえも乗り越えた。

 その一途さに胸を打たれ、言葉を好きになりかけた。


 けれど。


 ヨゼフはその禁忌に溺れ、言葉を取り違えてしまった。


 結局、私の言葉は伝わらなかったのだ。


 あの図書室で過ごした、金色の黄昏が懐かしい。

 ほんの半日前の出来事。

 けれど、今では遠く感じる。 


「……どうして言葉は伝わらないの……」


 弱々しく漏れる私の呟き。

 足音にかき消されたかに思われたそれは、なぜだかマリウスに伝わっていた。


「……そいつはひどく根深い問題だ。取り分け、ゴーレムの場合はな」


 深く長いため息。

 そうしてたっぷり沈黙した後、マリウスは語り出した。


「ゴーレムの思考を構成するのは、『戒律の書』が与えるいくつもの選択肢とその条件文だ。ゴーレムはこの条件文を一つ一つ丁寧に判定し、枝分かれを進んでいく。そして枝分かれの尽きた先で行動を出力する」


 低くよく通る声。

 地下道に反射し、どこか虚ろな響きをはらむ。


「つまりゴーレムの思考は、条件文の集合ともいえるわけだ。こいつが一つ目の前提となる」


 マリウスの口調は、どことなくハレマイエル先生を連想させた。


「ところでヘレナ、おまえさん葡萄は好きか?」


 突然振り向き、私へ問いかけるマリウス。


 いきなり何の話だろう。

 訝しむ私をよそに、マリウスは二の句を継ぐ。


「葡萄を食べるには葡萄をもぐ必要があるな。さて、ヘレナはどんな時葡萄をもぐ?」


 唐突な質問。

 意図がわからず、私は頭にはてなを浮かべた。


「つまり、『葡萄をもぐ』という行動の条件文はなんだ?」


 『葡萄をもぐ』条件……。

 それが何を意味するのか分からず、すぐには考えがまとまらない。

 だが、ひとまず思いついたことを口に出した。


「えっと、房が赤く熟れていること……でしょうか」

「なぜ青く若い房じゃ駄目なんだ?」


 なぜ?

 少し考えてから、私は返答する。


「私は食べるために葡萄をもぎます。けれど、熟れていない青い房は食べられません。それゆえ食べられない青い房はもいではいけない……と思います」


「なるほどな。だとすれば、病気で斑点が浮き出た房ももいじゃまずいってことか? 食えない以上、もいでも意味が無い」

「それは……」


 確かにそうなのだろう。

 けれど。


「葡萄を食べるには、葡萄を実らせる木を守る必要があります。……なので、病気の房ももぐべきだと思います」


「そうだな」


 マリウスは底知れぬ笑みを浮かべながら、肯定した。


「お嬢ちゃんの言った理由は何も間違っちゃいない。


 再び前を向くマリウス。

 彼は次第に饒舌になっていく。


「人はどんなことにでも理由をつけられる。葡萄をもぐにしたって同じだ。ある者は食べるため、ある者は聖餐の葡萄酒のため、ある者はロッシェル塩のため。人間は、この世界が見せる事象全てに理由をひねりだし、何らかの意味を持たせる。お嬢ちゃんがやったようにな」


 確かに私は、『葡萄をもぐ』というひどく単純な出来事に、幾つかの理由を見出した。


「それゆえこの世界が見せる事象は、全てが条件文になり得るわけだ」


 何らかの意味を持ち、私たちに関係があるのなら、それは物事を判断する材料となる。条件を課し、行動を分岐させることができる。


「つまり無限に広がるこの世界は、無限の条件文の集合とも言える。こいつが二つ目の前提だ」


 そう言った後、彼は私の目を見て口を開いた。


「無限の条件文の集合なんて言うと仰々しいが、なに、大したことじゃない。導師さまも言ってるだろ? 『』ってな」


 条件文、すなわち言葉によって記される文章。


「そういう意味だったのですか……」


 その一文は言葉の全能を表わす象徴なのだろうと思っていた。

 だが今、私はようやく教義の本質を理解したのだ。


「これで必要な前提がそろった」


 一つ。ゴーレムの思考は、条件文の集合である。

 二つ。この世界は、無限の条件文の集合である。


「つまりだ。ゴーレムをこの世界で思考させるには、ゴーレムの頭へ無限の条件文を吹き込んでやる必要がある。この世界が見せる事象全てを条件文として翻訳し、ゴーレムが理解できる形で入力する必要がある」


 だが。


「ゴーレムに条件文を刷り込むのは『戒律の書』だ。人が記し、朗誦によって刻まれる文章。当然、


 無限の世界と有限な文章。

 その辻褄をどのように合わせたというのだろう。

 私の質問へ先回りし、マリウスは言った。


「そこで導師さまは考えた。無限の世界を記せないのなら、世界そのものを有限にすればいい。つまり、ゴーレムが受け取る世界を有限にすればいい」


 分かりやすく例えるなら、


「ゴーレムを狭く小さな塔に押し込め、その有限な空間を世界の全てとした、ってところだ」


 塔の囚人。


 ハレマイエル先生の語ったモチーフが去来する。

 その虚ろな面影に囚われる私。


 黙り込んだ私をちらりと見た後、マリウスは口を開く。


「ゴーレムの――つまり人の――体は有限だ。目や耳の制限から、認識できる事象が限られている」


 可視光を外れた見えぬ光、可聴域を外れた聞こえぬ音。

 私たちは、そういったものを認識できない。


「『戒律の書』はこういった、物理的に認識できない事象を存在しないとして扱い、対応する言葉をゴーレムへ与えない。つまり認識できない世界をばっさり切り捨てることで、無限の条件文を有限にしている」


 いつだったか、レーヴ教授はこう言っていたぞ。


。口を噤んで世界を条件文に――言葉に――置き換えないからこそ、ゴーレムは思考できる。ゆえにゴーレムは、


 暗い隧道に反射し、その言葉はしばらく響き渡っていた。

 反響が消える頃、ようやく私は理解した。


 ああ、それもまた沈黙の理由なのだ。


 ハレマイエル先生の語った理由――意味の理解の不可能性――とは異なり、けれど根源を同じとする論理。


「さて、世界を言葉に置き換えず切り捨てることで、ゴーレムはこの世界を思考できるようになった。だが切り捨てられた世界はあまりに大きい。例えば、


 人が当たり前に感じるそれらは、しかし物理的には観測できない。


「俺たちは『微笑み』という動作なら観測できる。その動作を読み取り『微笑み』だと認識することはできる。だがその奥に潜む意志や感情はどうだ?」


 マリウスは歩みを止めない。

 振り返らず、ひたすら前へと進み続ける。


「親愛の証なのか愛想笑いなのか、はたまた嘲笑なのか。そいつは形として現れない。ゆえにゴーレムは認識できず、対応する言葉を与えられない」


 そうして一拍の間を置くマリウス。


「なぜ言葉は伝わらないのか。理由はこうだ。ゴーレムの辞書からは沢山の言葉が抜け落ちている。愛情、信頼、憧憬、追憶……」


 そしてきっと、私が伝えたかった気持ちも。


 金色の光が真っ黒な影を大きく照らし出す。

 そんな影の中から響くように、


「人の意志や感情は、ゴーレムの言葉の外にあるんだよ」


 マリウスの声が聞こえた。

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