第一章 《怪盗》と《探偵》と
●1.失われた記憶。
炎が家を包み込んでいた。
真っ赤に真っ赤に燃える炎。
その中心で、ひとりの少女が佇んでいる。
炎の中。まるでそれを恐れていないかのように佇む少女。
彼女は――口元を歪めていた。
長くバサバサになった黒髪に炎が燃え移る。
それでも微笑んでいる少女。
辺りは真っ赤な、炎、炎、炎――。
その中で佇む少女。
――――〝僕〟は、それを泣きながら見ていた。
● ● ●
艶のあるサラサラの赤毛の少女の顔が、赤色の瞳が、どんどん近づいてくる。
「――って、何をやってんですか! アケミさん!」
ヤスユキはいきなりのことで呆けていたが、すぐ気を取り直して
ぐぇっというような呻き声をアケミが上げる。
「ってえなァ。いきなり起き上がるんじゃねぇよ」
肩の上で切りそろえられた赤毛を振り乱し、アケミは鼻を押さえながら立ち上がると、涙の溜まった瞳で見下ろしてきた。涙が溜まっているはずなのに、その鋭い眼光に恐怖を覚える。
「なんつー石頭だよ、てめえ。アタシに恨みでもあるのか?」
「そっちこそ僕に何か恨みでもあるんですか! 般若みたいな顔で僕の寝顔を覗き見ていたくせにっ」
自分の寝ていたソファーに座りなおすと、ヤスユキは非難するような目をアケミに向ける。その目を見たアケミは顔面を怒りで真っ赤にした。
「んだと、てめえ! 般若みたいな顔なんて、してねぇだろ!」
「し、してましたよ! 今にも食べてやるぞ的な顔でした!!」
するとアケミはヤスユキが言ったような般若のような顔になった。
ヒィッという無様な声がヤスユキの口から漏れる。
今まで強がっていただけで、実はずっと心臓が色々な意味でバクバクしていたのだ。
その上こんな顔をされると堪ったもんじゃない。
今にも襲ってきそうなアケミから守ってもらおうと、ヤスユキは辺りを見渡すが、ところどころひびの入った事務所内にはお目当ての人はいなかった。というか、ふたり以外に誰も居ない。
――――僕、絶体絶命の大ピンチ!!
とりあえず近くに置いてあったどこかの球団の応援バットをつかむ。
が、襲ってくると思っていたアケミは、ふんと鼻を鳴らすと向かいのソファーにどっかりと音をたてて座ってしまった。
死にそうなぐらい怯えていただけに、ヤスユキは拍子抜けしてしまう。
「あ、あのぉ、アケミさん?」
ビクビクしながら伺うと鋭い眼光で睨み返されてしまった。
ヤスユキは肩を震わせ唇をきつく噤むと下を向く。
アケミが徐に口を開いた。
「何の夢見てたんだ? すげぇ、うなされてたみたいだけどさ」
目線を天井にあるむき出しの蛍光灯に向けたまま問いかけてくる。
「さぁ? まったく覚えてないです」
本当だ。さっきまで何か夢を見ていた気がするが、まったく覚えていない。
ただいやな夢を見ていたことだけは覚えている。
「ふ~ん」
アケミはすっかり怒りが収まったのか、それでもまだ少し怖い顔を向けてくると、
「で、記憶はどこまで戻ったんだ?」
もう何回目になるかわからない質問を投げかけてきながら足を組んだ。
ヤスユキはとりあえずバットを自分の近くに置くと、その質問に答える。
「ぜんぜん、ですよ。何も思い出せません」
「ふ~ん。まあ、気長にまちゃあいいよなァ」
足を組みかえると、アケミは腕を組んでソファーの背もたれに自分の背を預けた。
彼女から目を逸らすとヤスユキもソファーの背もたれに身を預ける。
● ● ●
あれは一週近く前。
網谷ヤスユキは、ここ――<神宮寺探偵事務所>の前に行き倒れになっていたらしい。
そんな彼を、たまたま朝の買い物に出かけようとした探偵助手である十七歳の少女――
だが目を覚ましたヤスユキは何も覚えていなかった。
どうして倒れていたのかはもとより、自分の年齢や家族構成などすべて忘れてしまっていた。ただ名前は解っていた。
それを見かねた、この探偵事務所の主――神宮寺により、記憶が戻るまでここに住まわせてもらうことになった。が、個室が二つしかなく、しかもその二つを神宮寺とアケミが使っている為いつもソファーで寝ることしかできない。
それでもヤスユキはよかった。
このまま野放しにされても行く当てもないし、あったとしても覚えていない。
それに――ふたりとも、とっても優しいからだ。
記憶が戻らなくてもいいと思うほどに……。
だからヤスユキは、今日もいつものようにのんびりしている。
● ● ●
「――で、君たちは一体、何をやっているんだい?」
突如上から聞こえてきた冷たい声にヤスユキは反応して顔を上げる。
そこには無表情で佇む一人の青年がいた。まだ二十歳になったばかりというぐらいの、若々しい顔をした青年である。彼はどこかに出かけていたのか上着を羽織ったままである。
それを見やると、ヤスユキは今までやっていたトランプを机の上に置きソファーに深く座りなおした。
「あ、てめえ、ずりぃぞ。自分が勝ってるからって、途中でやめるんじゃねぇよ!」
集中しすぎて青年に気づいていないアケミがドンッと机を叩く。神経衰弱をするために机に上にバラ撒かれていたトランプが宙を舞った。
そのうちの一枚を手に取り、黒髪の青年が再び口を開いた。
「もう一度聞く。君たちは一体何をやっているんだい?」
「うっせーな、ジン。さっきから何グチグチ言ってんだよ。てか、何をやってるかなんて、見たらわかるじゃねぇか。バカ」
「バカなのはあなたでしょ。弱いくせに、何回も僕に挑んでき、て……」
言ってからヤスユキはしまったと思った。慌てて口を塞ぐがもう遅い。
目の前にいるアケミが額に青筋を浮かべると、
「んっだとッ」
今にも飛び掛らんと立ち上がった。否、飛び掛ってきた。
ヤスユキの口から短い悲鳴が零れる。
――――またしても絶体絶命の大ピ――ンチ!!
後ろに下がろうとするが、あるのはソファーの背もたれだけ。逃げ場はない。
目に涙をためたヤスユキは、助けを請うようにジンこと神宮寺を見た。
彼は無表情で目の前の光景を見ていたが、わざとらしくため息をつくと、右手を伸ばしてアケミの肩に手を置いた。
ヤスユキの目の前ギリギリで、アケミの拳が止まる。
「あ、ありがとうございます……」
消え入りそうな声で感謝の言葉を述べると、ヤスユキは逃げるように神宮寺の後ろに隠れる。
「なにすんだよ、ジン! 今すぐこの手をどけろ。そんでもって、そのガキをアタシの前に突き出せして、一発といわず百発殴らせろ!!」
アケミがそう喚き散らすが、どれだけ力が強いのかアケミの身体はピクリとも動かない。
それでも暴れるアケミ。
「……ここは俺の事務所だ。暴れるんだったらよそでやってくれないかな」
感情のこもっていない神宮寺のその言葉に、ふてくされた顔で大人しくなる。
神宮寺が手を離すと、ジロリとヤスユキを睨みつけてアケミは元のソファーに座った。
ヤスユキも恐る恐る自分が元いたソファーに座る。
鬼をも殺しそうな鋭い双眸がいまだこちらを見ているが、己の全精神をコントロールして気づかないふりをする。
神宮寺がわざとらしくため息をついた。
「今からお客が来るんだ。だから大人しくしておいて欲しい」
「客? ……珍しいなァ。一体誰だ?」
「珍しいも何も、ここは一応探偵事務所なのだけどね。それと来るのは客といっても、君のよく知っている人だよ」
「だから誰なんだよ、それ」
「それは――」
そこで神宮寺はわざとらしく言葉を切ると、曰く有り気に口元を歪めた。目は笑っていない。
アケミの眉が、待ちきれないとでもいうかのようにピクリと引きつる。
「――――〝情報屋〟だよ」
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