●29.深淵に潜むおもい。
そのとき、真白はちょうどアイの部屋に訪れたところだった。
部屋の中から何かが割れるような音が聞こえてくる。
「アイ?」
不安に思い、真白はアイの名前を呼びながら扉を開けて中に入って行く。
黒い室内。カーテンも家具も真っ黒で、唯一の明るさは天井で光っている蛍光灯のみ。
窓は閉まっており、カーテンも閉まっている。今は昼前だ。外は明るい。
「い、いたいッ」
悲鳴が聞こえる。アイだ。考える前に真白は動きだしていた。アイの傍に寄ろうとして、床に割れたワイングラスがあることに気づく。顔を上げると、焦げ茶色の髪の毛を振り乱し、手で顔を覆っているアイが蹲っていた。
「い、痛い。目。どうして」
「アイ、大丈夫ですか?」
真白の声に、アイが顔を上げようとして慌てて逸らす。
「真白……。今、私に近寄っては駄目よ」
呼吸が荒い。今すぐ近寄って介抱してあげたい。
けれど、アイの言葉に逆らうすべを真白は持っていなかった。
自分に彼女の痛みを和らげる
歯がゆい思いをしながらも、真白はアイから目を離すことなく彼女の痛みが和らぐのを待つ。彼女は、異能の所為でこうなってしまった。
真白は知らないうちに右手で自分の左腕を握っていた。
――彼女の痛みに比べれば、ワタシの〝犠牲〟なんて……。
本当にちっぽけなものだ。
真白は、物心がついた時にはもう〝使い魔〟と契約をしていた。
真白の契約している〝使い魔〟【
これは、代々アイの家に嫁いでいた真白一家に、はるか昔から伝わっている〝使い魔〟――異能力だった。だから〝犠牲〟は小さくても済んでいる。【銀色狼】は、人の恐怖を糧に暴力を振るうのだから。
真白はただしっかりと、自分の理性を確かに保ち、精神力を鍛え上げればいいだけだ。
恐怖に飲み込まれれば、真白自身も食べられてしまう。そうならないために、昔から真白は躾けられていた。
暫くして、アイの痛みは治まったようだ。
顔から手を離して、頭を上げたアイの顔は蝋のようにしろかった。瞳はサングラスで覆われている。
「ごめんね、真白。変なところを見せちゃったわ」
「いえ。何もできず、申し訳ありません」
「真白が謝ることじゃないわ。私は、自分で望んでこの力を得たのだから」
うっすらと口元に笑みを浮かべ、アイが笑う。
真白は、そんな彼女に苦笑を持って答えた。
――望んで手に入れた能力じゃないくせに。
口を開こうとして、その前にアイの声に遮られる。
「真白」
「なんでしょうか」
「私の目的はね、貴方も知っているわよね」
「もちろんです」
「私は、その為なら何でもやるわ。たとえ、何を〝犠牲〟にしたとしても」
――ワタシは、そんなアイの為ならこの身がどうなってもいいんですよ。アイを失くす恐怖に比べれば、自分が食べられる恐怖はたいしたことじゃない。
ふと、真白は何かを感じ取り、床を見た。いや、正確にはその下。アオの部屋のある階。
「真白?」
呼びかけられて顔を上げる。
不思議そうな表情で、アイが首を傾げる。
真白は言おうか言うまいか迷い、だけど今のアイに心配をかけるわけにはいかないと思い口を噤むと息を吐いた。
「少し、おなかの調子が悪いので、作戦会議はあとにしましょう」
「お腹? 珍しいわね。いいわよ。いってらっしゃい」
「失礼します」
軽く会釈をすると、真白は部屋を後にした。
○ ○ ○
彼女は視ていた。彼の心を。
いくら外見を取り繕い、自ら内面を偽ろうとも、彼女にそれは意味をなさない。
なぜなら彼女は、人の
人は、彼女のことを【視える者】と呼ぶ。
【視える者】に名前ない。【視える者】は【視える者】として、依頼を受けて仕事をしている。ただ、それだけだ。
ビルの上に立ち、【視える者】はとある人物を眺めていた。
視線の先にいるのは、長身の青年。死んだ魚のような目をしている彼の心を、彼女は読むことができない。
だから嫌いだ。
彼のことは、この男だけは、彼女の手に余る。
彼の後ろには、赤い髪の毛を肩で切りそろえた少女と、グレーの髪を馬の尻尾のように結い俯きながら嗚咽を漏らしている少女が手を繋ぎ歩いていた。
【視える者】の依頼はもう終了している。
あの少年の心を視て、黒か白かを怪盗に伝えるだけ。それで終わりの筈だった。
だけど異変が起こった。
彼女が少年の監視を辞めようとしたとき、まだ幼い十歳程度の〝異能者〟の少年が〝異端者〟の少年を拉致したのだ。
それを彼女はただ、静かな目で見ていた。漆黒の深淵のような光のない目で、彼女は〝異能者〟の少年の心を視てしまった。
【視える者】の能力は、一回目標を定めると三日間は変えることができない。彼女は、どこにいたとしても、目標とした人物の
今も、〝異能者〟の幼い少年の心が、彼女の目を通して頭の中に映像として浮かび上がっていた。
視界は前を見ているはずなのに、眼球だけが液晶画面を視ているかのように歪んでいる。
気持ち悪い。
けれど、慣れてしまえばどうってことないのだ。
彼女は無い口を引き結んだ。
――――この少年は、恐ろしい。
こんな〝使い魔〟は聞いたことがない。吐きそうだ。
〝異端者〟の少年の深淵に比べると、この少年の深淵のなんて深いことか。
正直探偵よりも苦手だ。この蟲使いの少年は。
【視える者】はゆっくりと瞬きをした。
視界が切り替わり、死んだ魚のような目をした青年と目が合う。
舌打ちをすると彼女は身を翻した。
黒いフードを深く被り、【視える者】はその場を後にする。
――依頼はもう終了した。後どうなろうがあたしの知ったこっちゃない。どうとでもなればいい。
それでもこれから三日間は、こんなにも恐ろしい悪夢を見続けなければならないのだ。
○ ○ ○
「神宮寺?」
アケミの声に、神宮寺はビルの屋上から視線を逸らすと彼女を見た。
「どうしたんだ? 何かいたのか?」
「いや。ちょっと懐かしい顔があってね。気になっただけ」
「ふ~ん」
神宮寺は再び前を向くと歩きだした。右手には一通の手紙が握られている。
ぐしゃぐしゃに折りたたまれたそれに書かれていた文句を、神宮寺は頭の中で反芻させる。
『今夜〇時。彼をいただきに参ります。 ――≪怪盗ドラゴン≫』
深夜になるにはまだ早い。
それなのにヤスユキはいなくなってしまった。あの〝異端者〟の少年が一人でどこかに行ったというのは考えにくい。アケミの話ではヤスユキがいきなり倒れ、そのあとに自分の意識も遠のいていったと応えていた。
ヤスユキが一人でどこかに行くこともないだろう。彼が雪姫を置いていくとは思えない。
神宮寺は冷静な頭で分析をして、今回の件に怪盗が絡んでいないとひとまず考えることにした。
それからさきほど見かけた、【視える者】と呼ばれている女性のことも気にかかる。
彼女を使っているものは誰なのだろうか。彼女は、依頼がなければ動かないはずだ。閑古の友人である彼女のことを、神宮寺はそれなりに知っていた。【視える者】は警察以外であれば、誰の依頼でも請け負う。どんな依頼であったとしても、彼女は報酬をもらうために遂行するはずだ。
――今回の依頼主は誰だろうね。
今、神宮寺はとあるところに向かっていた。
≪レオンのデンジャラス整体院≫という看板の掲げられているそこは、名前の通りデンジャラスなところだ。
その店の扉を、神宮寺は軽くノックする。
中から濃い男が出てきた。オネェ言葉を操る彼の言動は、度々神宮寺を困らせる。
「神宮寺じゃなぁ~い。どうしたの? あちしに、なんのようかしらん?」
「……依頼だ」
「整体のん?」
「…………デンジャラスの方」
「オッケー。今から準備するから待っててね。ぱちっ」
神宮寺は飛んできたハートマークを顔を少しずらして避けた。
「【
整体院の中に入り、その中の一番奥の診察室。そのさらにまた奥。本棚の裏に隠れた秘密の扉を開けると、床一面に大きな魔方陣のようなものが書かれていた。○△◇。いろいろな種類の図形が折り重なり、アラビア文字のような理解不能の文字が描かれた中心に、レオンは腰を降ろすと呪文を呟いた後叫んだ。
神宮寺が耳をふさぐ。アケミと雪姫は外で待っていてもらった。
「キイィィィィィィィィィィッ!!」
甲高い音が、掌の間から入り込んでくる。神宮寺が眉を寄せると、右肩が疼き漆黒の羽が一枚生えて、神宮寺の頭を包みこむ。
人の声帯を超越した、耳鳴りのように甲高い叫び声はまだ続いている。神宮寺には見えないが、この状態の時のレオンの瞳は、白目を剝いて光っているはずだ。
レオンは、超音波のように高い声を反響させて相手の居場所を察知することができる。だけど誰でも居場所が分かるわけではない。彼が分かるのは、マーキングをつけた相手だけ。たとえば、彼の手作り弁当を食べた相手とか……。
魔方陣は、より遠くを探すために用いるものだ。近くを探すだけなら必要はない。レオンはこの超音波を手に入れるために、脳の一部を〝犠牲〟にしているらしい。
暫くして甲高い音が消えた。
漆黒の羽がそれを察知して霧散する。
突然のことで上着を脱ぎ忘れていたことに気づき、肩の部分が敗れた上着を神宮寺はしばらく眺めるが、瞬きをして忘れることにした。替えはいくらでもある。
レオンの目は閉じていた。
神宮寺は、魔方陣を踏まないように彼に近づくと耳を近づける。
「…………」
掠れた声で告げられたヤスユキの居所を記憶すると、神宮寺は立ち上がり診察室を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。