●30.思いは、すれ違っていく。
エレベーターの中に入り階数を確認すると、どうやらここは二十階建てのマンションの地上十五階らしい。
――高いな。
ヤスユキは、十六階以上のボタンをすべて押し、閉めるボタンを押すと少年を連れたままエレベーターから出た。扉が閉まったエレベーターは地上に昇って行く。
辺りを見渡し、すぐ近くにある階段を選択するとヤスユキは降りていく。
少年はもう動くのをやめており、だぼだぼのトレーナーから手がだらりと下がっている。
蟲は近くにいない。羽音もしない。
だけど油断は禁物だ。これから何があるかわからないのだから。
階段に、ヤスユキの足音だけが反響する。
――コツ、コツ――カツッ。
思わずヤスユキは天井を仰いだ。
自分とは別の足音が聞こえた気がしたのだ。
――――上?
足音を極力落としながら、ヤスユキは足早に階段を降りていく。
――まだ十二階か。
先は長い。
● ● ●
真白はアオの部屋の扉をノックした。
暫く待ってみても返事がないので、懐から合鍵――アオは存在を知らない――を取り出すと、真白は躊躇うことなく部屋の中に入って行く。
床一面に、蟲がいた。
踏み場もないほど蠢いていた蟲は、真白が部屋に入った瞬間壁に寄って行く。
どうやら、真白は蟲にも嫌われているらしい。
苦笑しつつ、部屋の中を見渡す。
人影は見当たらなかった。
――――さっきの音は、この蟲たちだったのでしょうか?
ふと、部屋の中心に視線が向く。
そこには木でできた子供用の椅子があり、辺りにロープが落ちていた。
そのロープを掴み、真白は首を傾げる。
――――こんなもの何のために?
アオの趣味とは思えない。
真白は、ゆっくりと目を閉じて思考すると、推論を導きだして――再び銀色の瞳を開けた。
――――アオ……お遊びはそこまでですよ。
嫌な予感しかしない。アイの弟であるアオは、好奇心こそ姉から譲り受けているものの、どこかいつも仄暗い闇を抱えているように思えた。それもやはり彼が契約している〝使い魔〟に関係するのだろうか。
アイは、アオを守れなかったことをいつも後悔している。
だからなるべくアオのわがままには付き合ってあげているし、真白はアイのためにアオの身の回りの警護をしているつもりだった。アオがいなければ、アイはもっとおかしくなってしまうから。
午前中のことを思い出す。
今夜零時、アイはとある〝異端者〟の少年を誘拐する予定だ。その情報収集のために、真白は暫くこのマンションを後にしていた。その間に何かがあったのかもしれない。
目を離した隙に、アオが何かをやったのかも。
真白はロープを放り捨てると、踵を返して部屋を後にする。
扉に鍵をかけ、指紋を拭きとると真白はエレベーターに向かった。
今、エレベーターはどうやら十九階にあるようだ。
暫く迷い、真白は階段を降りていく。
――下から、足音が聴こえる。
● ● ●
――――久しぶりの都心だ。
大きな高層マンションがそこにあった。周りにそびえ立つマンションが小さく見えるほど、そのマンションはシンプルながらも異様な雰囲気を帯びていた。
〝異能者〟なら気づく異様な雰囲気。
アケミが「うげぇ」と声を出し、雪姫は静かに涙を流している。
神宮寺は瞬きをすると、辺りを見渡した。
人気がないわけではない。だけどまるでその高層マンションを避けるかのように、人々は歩いている。たまに立ち止り、マンションを見上げて変な顔をするものもいる。だが、殆どはまるで存在そのものを打ち消したいかのように、目を向けることをしない。
「あれ?」という声がした。近くを通った男性が、呆けた目で雪姫を見る。神宮寺は、じっと彼を見た。男性は神宮寺に気づき、「ひぃ」とまるで化け物にあったかのような声を上げて走り去っていく。
「どうしたんだ、神宮寺?」
「いや」
神宮寺は再びマンションに目を向ける。不気味な気配は消えることがない。
「もうそろそろ泣き止めよなぁ」
アケミがしゃがみ込み、雪姫と視線を合わせる。徐に手を出して頭を撫でた。雪姫はふと顔を上げ、だけど〝彼〟の姿がみえないのに気づきまた泣き始める。
「う」とアケミが顔を上げて神宮寺に助けを求めてくるが、神宮寺はマンションから目を逸らさなかった。
マンションの入り口となっている扉がキィと音をたてて開いた。
中から、長身の男性が出てくる。
ツンツンした銀髪の男性の瞳と目が合う。
「あ」と男性が声を出した。白いスーツを着た彼は、ゆっくりと目を細めると左腕を握る。
神宮寺は上着に手をかけると脱ぎすてた。
ばさりと上着はアケミの頭の上に落ちた。非難するような目を、神宮寺が気にすることはない。
足を踏み出し、神宮寺は男性に声をかけた。
「……まさかこんなところで会えるなんてね」
「探偵が。どうして我々の居場所が分かったのですか?」
男性のツンツンとした銀髪がさらに逆立つ。神宮寺は右肩がうずくような感覚に眉を潜めた。
「俺は、怪盗を探しだすためにここに来たわけじゃないよ。探していたのは別だ」
「別?」
「ちょっと、知り合いがね」
わざとらしくため息をつき、神宮寺はチラリと後ろを振り向いた。
だけどすぐに目線を前に戻し、銀色の瞳を見つめる。
死んだ魚のようなぼうっとした瞳に、男性が眉を顰めた。
「どうしましたか?」
「いや。ちょっと気配がしたのだけど……気のせいかな」
「気配? どういうのかお聞きしても?」
「……」
神宮寺は無言で答える。
男性が足を一歩踏み出す。彼の瞳が、細くなり、猫のように鋭く光り輝いだ気がした。
「まあ、いいでしょう。我々の居場所が見つかったからには、生かしてはおけません」
「……こんな街中で戦うのかい? まあ、≪怪盗ドラゴン≫ならやりかねないよね」
ぴょこんと、男性の頭に犬のような耳が現れた。
「――――ドラゴン?」
背後から、少女の声がする。泣いていた雪姫が、グレーの瞳を大きくして男性を見ていた。
男性が雪姫を見て嘆息する。「珍しいですね」と呟き、彼は足を一歩踏み出した。
警戒するようにアケミが雪姫の腕を引っ張って下がって行く。
その間に、漆黒の羽が広がった。
神宮寺の右肩から現れたそれは羽ばたき、何でも破壊する風が男性に向かって行く。
男性が徐に左手を突き出して、切り裂く風を押さえた。その時。
少女の絶叫が響き渡った――。
「兄者をッ!!」
――パンッ。と。乾いた破裂音が。
● ● ●
――――やっぱりね、ボクはよわいんだよね。
思い出すのはあの時のこと。
腕や足が腫れるのにも構わず竹刀に撃たれていた時のこと。
あの家は、狂っていた。どう狂っていたのか、それはアオに判別はできなかったけれど、それでも恐怖に身を竦ませることしかできなかった日々を思いだし、込み上げてくる吐き気を口から蟲と共にだす時に、ふと思うのだ。
――狂っていたのは、あの家だ。
あの家の、父だという男は、毎日朝昼問わず、何かがあるとアオを殴ってきた。竹刀でもぶたれた。首を絞められた。唾液で顔が汚くなるのに構わず、アオは咳込んだ。
それを――姉は知らなかった。アオも、姉がいることを知らなかったのだから仕方がない。
アオは地下室の鳥かごのような牢屋に閉じ込められる日々を送っていた。
ご飯を与えられるのは気紛れだ。異能を持たないアオに、父から受ける暴力を防ぐ術はなかった。
何のために自分はぶたれているのだろう殴られているのだろう首を絞められるのだろう。
理由なんてどうでもいいのだろう。
まだ幼いアオに判別することは何もできなかったのだ。
光の差さない地下牢の隅っこで体育座りしているとき、父がやってきた
次は何をやられるのだろう。虚ろな目で見ると、父は静かに重い口を開いた。
「これはお前のためなのだ」
――――ボクのため?
「お前の精神を鍛えるために必要なことなのだ」
――――ボクのせいしん?
「我が家に代々伝わる〝使い魔〟は、まだ弱いお前には使いこなせない。契約するまでの辛抱だ。頼むから、失望させないでくれよ」
――――つかいま、ってなに? けいやく? しつぼう? ボクは、よわいの?
何か、何かが引っかかる。
虚ろな目で、アオは父の顔を仰ぐ。竹刀を持った父は、そんなアオの目を静かに見定め、歩き去って行く。
その背中を、アオはただ見つめていた。
――――よわいから、ボクはここにいるの?
よわいの反対はつよいだ。それぐらいアオも知っている。
父は強い。だから、ボクを虐げる。
それに気づいたアオは、薄く笑った。
――――だったらつよくなればいいんだね。
ぶたれても泣くのはやめよう。
殴られても、叫ぶのはやめよう。
首を絞められても、唾液をだすのをやめよう。
――そうすれば、ボクは強くなる。
そう悟ったアオは――――数週間後、地下から地上に連れていかれた。
黒く閉ざされた扉の向こう。
そこから、ずしりとした気配を感じる。
けどアオは動揺しない。そんなことをすれば、情けないと父に殴られてしまう。
アオは、父に促されるまま扉を開けた。
そこに――絶望の化身が巣くっており――アオは、目の前の闇から一目散に逃げ出した。
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