●21.破滅への道標。
ぽつ、と掌に雨粒が落ちる。アユはそれを眺めながら、≪神宮寺探偵事務所≫から目を逸らすことのないユウヤに声をかけた。
「ユウヤさん。雨が降ってきましたよ」
「そうだな」
「あの子は、事務所から出てきそうですか」
「……今日は、もう出てこないだろうな。ついさっき、探偵と女が出てきたから、今、あの事務所にはあいつ一人だけかもしれない」
「では、今から侵入しますか」
「……本当にあいつが一人でいるかはわからない。下手な行動はできないな」
ふう、とユウヤがため息をつく。
「しょうがない。今日は無理だ。明日、またこよう」
「そうですね。雪姫さんも心配していますよ」
「そうだな」
拳銃を懐に仕舞うと、ユウヤは立ち上がった。
アユは空を見上げる。弱い小雨だ。本降りになるまでまだ時間がかかるだろう。
《
――この雨が、心の汚れを少しでも落としてくれたらいいのに。
なんて馬鹿な思いが湧き上がるほど、アユは心の闇を払拭できないユウヤをずっと見続けることが悲しかった。
アユは雨から逃れるように、屋上から室内に入る扉に向かって行く。
すぐに足音が一人分しかないことにアユは気づいた。先程から同じところに、ユウヤガ突っ立っている。
どうしたのか、アユは問いかけようとしたが、ユウヤの顔を見て息を飲む。
血相を変えた表情で、大きく目を見開いたユウヤが事務所にある方を唖然と睨みつけていた。その瞳が徐々に細くなっていき、ユウヤは握り拳を柵に打ち付けながら叫び声を上げる。
「ヤスユキィ――――!!」
その叫び声は、強くなった雨音に紛れ込み辺りを震わせた。
● ● ●
――今、何か聞こえたような?
≪神宮寺探偵事務所≫は二階建ての建物だった。一階には錆びれた車の止まっている駐車場があり、二階に事務所を構えている。駐車場の隣にある扉の鍵を開けて、神宮寺が階段を上って行く。そのあとをアケミが続いた。少女の手を握りながらヤスユキも上って行く、その途中に自分の名前を呼ぶような声が聞こえてきた気がしたのだ。
振り返るが、≪神宮寺探偵事務所≫の前の通りに人は誰もいない。それもその筈だろう。今、外は土砂降りの雨が降っている。さっきまで小雨だったのが、雨脚が徐々に強くなっていき、体を押しつぶすかのような大雨に変化したのだ。
ちょうど神宮寺が階段を登り始めたときだったので、ヤスユキと少女の髪の毛と服が濡れただけで、びしょ濡れというほどひどくはならなかったのが救いか。先程コンビニであった出来事に比べれば、雨に濡れるというのは些細なことだが。
ヤスユキが立ち止まったからか、少女が階段の上から見下ろしていた。右手は繋いだままなので、いきなり立ち止まったのを不審に思ったのだろう。ヤスユキは何でもないよというような表情を作ると、階段を上るのを再開した。
事務所に入り、定位置になっているソファーに少女と隣同士で腰を下ろす。
「さて」
向かいのソファーに座っている神宮寺が口を開いた。隣ではアケミがムスッとした顔をしている。
「これからどうするんだい?」
それは誰への問いかけか。神宮寺の視線を追うと、ヤスユキの隣の少女に向いている。
「……タオル」
少女が口を開くよりも早く、アケミが立ちあがった。自室に向かって行く。
ヤスユキは少女を見た。馬の尻尾のように結われたかグレーの髪の毛は、雨により湿っている。彼女が着ている浴衣も同様だ。先に着替えをした方がいいかもしれない。
少女は俯き、神宮寺の問いに答えようとしない。神宮寺はもう一度問いただすことはなかった。感情に制御されない分、頭の回転が速く、少女の答えを聞かなくても悟っているのかもしれない。
少し緊迫した雰囲気の中、アケミの部屋が開く音がした。彼女はタオルを何枚買抱えている。
その内の一枚を神宮寺の頭に投げ、もう一枚をヤスユキに放ってくる。アケミは自分の首にもタオルを巻くと、残りの一枚をもって少女の前に立った。
「先に体を拭いた方がいいぜ。風邪ひく。話はあとにした方がいいんじゃね、ジン」
少女の頭にタオルを乗せ、アケミが優しく髪の毛を拭きはじめる。少女は驚いたように目を見開いたものの、その目を細めると大きな欠伸をした。
「お前、名前は?」
「ん……。妾は、雪姫」
「雪姫。アタシの服でよかったら着替えた方がいい」
「うみゅ……。うん」
雪姫と名乗った少女の声は、どこか掠れていた。アケミがタオルをどけると、少女の体がゆっくりとアケミに倒れていく。
「おい。どうした?」
アケミが雪姫を支えると、「……んむ……すぅ」というような寝息が聞こえてきた。
「おい。寝てるぞ。どうすればいいんだ」
助けを求めるかのような顔をするアケミに、神宮寺が淡々と言う。
「泣き叫んだりして疲れたんだろう。今は寝かせておいた方がいい」
「しょうがねーなぁ。アタシのベッドに寝かせてくるかぁ。ソファーは寝心地が悪いだろうからな」
ため息交じりにアケミは呟くと、
「ジン。運ぶの手伝ってくれ」
「ああ」
近くに寄ってきた神宮寺が雪姫をお姫様抱っこして、アケミの部屋に消えていった。そのあとをアケミもついて行く。
暫くして戻ってくると、アケミの提案に乗り、話し合いは明日にすることになった。
時計を見ると、いつの間にか夜の六時になっている。アケミはお風呂に向かっていき、神宮寺は濡れた上着を木製のポールハンガーに掛けると、事務机の椅子に腰掛ける。
雪姫が消えた部屋を眺めながら、ヤスユキはズキズキと痛む頭を押さえた。
● ● ●
「サイヤぁ!!」
地下にある一階を丸々切り取った大部屋に、男の怒声が鳴り響く。その声はあまりにも大きすぎて、仲間のほとんどが思わず耳を塞いだぐらいだ。
アユは、叫び声の主であるユウヤを心配そうに眺める。
≪神宮寺探偵事務所≫の張り込みから帰ろうとしたときのこと。彼は見てしまったのだ。探偵事務所の中に、雪姫と裏切り者が手を繋いで入って行くのを。
ユウヤは目を疑ったのだろう。彼が自分の妹を間違えるはずがない。
どうして雪姫があそこにいたのかなんて関係なかった。ただ、怒り狂ったユウヤは、走って事務所に踏み込もうとしていた。それをアユは止めた。今は駄目だと。〝異能者〟のいるところに、冷静じゃないユウヤが突入したら、雪姫を救い出すことや、裏切り者を殺すことはもとより、返り討ちにあってしまうだろう。探偵の能力は強大だと聞く。目的を果たせずに、ユウヤが命を散らすのは早すぎる。
冷静じゃないユウヤを宥めるのは大変だった。もとよりユウヤは気象の荒い性格なのだ。組織のボスの体裁を保つために、妹を守るために、いつも感情を押し殺している。怒りを一身に受ける覚悟で、アユはユウヤに必死に言い聞かせた。
何とか聞いてくれたユウヤは、また感情を押し殺し黙ってしまった。
余りにも静かすぎて怖いぐらいだった。組織のアジトに帰ってきて、ユウヤがフードを被った少年を無言で殴りつけて叫び出すまで、アユは気が気でなかった。
殴られた勢いで、サイヤは倒れていた。口が切れたのか、唇から赤い血が一滴流れ出し、少年はパーカーの袖で血を拭きとる。フードが捲れ、染めた金髪を露わにした少年が、カラーコンタクトの青い瞳でユウヤを睨みつける。
「ボス……。いきなり酷いんじゃねーか?」
低い声でサイヤが呟く。その顔からは罪悪感は伺えなかった。
「何か言うことがあるんじゃないか?」
感情を殺したユウヤが淡々と言う。それはまるで爆発寸前の風船のようだ。ふつふつと、空気が入れられた風船は、いつ本当に破裂するのかが分からない。
アユは少年への当然報いだと、止めることなく成り行きを見守る。
――それでも、ユウヤさんがもしこれ以上取り乱してしまうのであれば、止めないと。今のままだと、ボスの体裁が保たれない。この組織はまだ危うい。怒り狂って彼を殺してしまう前に止めないと。組織が分裂してしまうかもしれない。
「何のこと?」
サイヤは本当に知らないのだろうか。首を傾げて、戸惑ったような顔をしている。
もしサイヤが関与してなかった場合、最悪な状況だ。ユウヤが何もしていない仲間のことを一方的に殴ったことになってしまう。
なぜ雪姫があそこにいたのか。裏切り者と手を繋いでいたのか。〝異能者〟のもとに、行ってしまったのか。
雪姫はサイヤといたはずだ。だからユウヤはサイヤが何かしらしたと思ったのだろう。
アユもそう考えていた。だけどサイヤの反応はどうもおかしい。
――どうすれば。
次の瞬間、笑い声が響き、アユは不安が杞憂だったと確信する。
サイヤが掠れた声で笑っていたのだ。
「あはははははッ。ひぃ……あーあ、笑いが止まんねぇ」
情緒不安定にもとれるサイヤの行動に、周りの仲間が困惑する。
それでもサイヤは笑い声を止めることない。広い室内の中、掠れた笑い声は反響することなく消えて行く。
ユウヤが一歩足を踏み出した。
「雪姫をどうした?」
「ふひぃ……あはは、さーね?」
ピタっ、とサイヤが笑い声を止める。サイヤの表情が暗くなり、下から睨みつけるかのようにユウヤを見上げていた。
「俺は知らねーよ。あいつんとこに行ったんじゃね。雪姫ちゃんは、ヤスユキ君のことが大好きだからねー」
「ふんッ!」
膝をついて立ち上がろうとしたサイヤの脛を、ユウヤが鼻息荒く蹴りつける。
風船が爆発してしまったのだろうか。ユウヤの横顔を見てみるが、どうやらそうではないらしい。まだ空気は溜まっていく。
「で、お前は何をしたんだ?」
ユウヤの静かな問い。怒りを押し殺した声からは薄ら寒さを感じる。面と向かって向けられているサイヤはこの倍の悪寒を感じているのだろう。口角が少し引きつっている。
「ヤスユキ君を殺そうとしただけですよー」
「どうしてヤスユキの居場所が分かった」
「それは、ひみつはーと。にしていただきましょうかね」
ふざけているのだろう。サイヤは恐怖を感じているはずだが、あまりにも堂々としている。
ユウヤは何も言うことはなかった。「よいっしょ」と少し後退したサイヤとの間合いを詰める。
「えー。なぁに? ボス。どうしてそんなに怖い顔してるんすかー? ねぇ。俺は、ただヤスユキを殺そうとしただけですよ。裏切り者に、制裁を加えるつもりだったんですよー。ボスだってそのつもりだったでしょ? 知ってますよ。雪姫ちゃんの大好きなヤスユキ君を殺して、憎まれ役を演じる予定だったんでしょ。俺はその代わりを務めてあげようとしただけなのに、どうしてこんなにも怒られなくっちゃいけないのかなぁ。雪姫ちゃんは、自分の意思でヤスユキのもとに行ったんだよ?」
立ち上がりながらサイヤがいう。楽しそうな言葉とは裏腹に、彼は警戒する獣のようにユウヤから距離を取ろうとする。だけどユウヤはそれを許さない。サイヤの歩調に合わせて、ユウヤは一歩ずつ前に進んで行く。
「あはは。なに、ボスもしかして怒ってます? 俺がヤスユキを殺そうとしたから? でもそれはしょうがないじゃないですか。あいつは裏切った。俺が育ててやったのにも関わらず、あいつは〝異能者〟と一緒に楽しんでるんですよ。ヤスユキ君に仕事のやり方を教えたのは俺なんですから、俺が殺したっていいでしょ。ユウヤさんは、いつも雪姫ちゃんのことしか見てないじゃないですか。本当に、仲間のことを思ってます?」
サイヤがちらりとアユを見た。
「いつも仲間のことよりも、雪姫ちゃんを中心に考えてますよね。自分の妹が、そんなに大事なの? 前のボスは……あんたの兄は、兄妹にも容赦しなかっただろ? あの人は誰が裏切っても、それこそ雪姫ちゃんが裏切っても殺してたんじゃないかなぁ」
致命的な言葉。
パンッ、と破裂するような音が響いた気がした。
勿論それは比喩で、響いたのはユウヤがサイヤを蹴りつける音だった。
鳩尾を蹴られたサイヤは、嘔吐物を吐き出した。よろけても立ち続けるサイヤは口を少し歪める。遠くから見ているアユにもわかるほど、彼は明確に笑っている。それを見たアユは寒気を覚えた。――何かがおかしい。
アユは少しずつ後ろに下がって行く。部屋の中を見渡せる範囲まで下がると、部屋の中に居る仲間の顔を一人一人念入りに眺めた。
「サイヤぁ!!!!」
ユウヤの叫び声が響く。彼は拳銃を手にしていた。銃口は金髪の少年に向いている。
「自分の思いを満たすためだけに俺を殺したら、あんたボスじゃなくなるんじゃない」
「何を……ッ」
この大部屋に集まっている仲間の半数以上が、ユウヤに銃口を向けていた。アユは思わず懐に手を入れながら歯ぎしりをする。
――もっと早く気付いていれば。
ユウヤのことばかり見ていて、周りを見るのを忘れていた。いつもだったらもっと早く状況判断できていたというのに。
「ユウヤさん。本当に俺を殺すの? 殺してもいいけど、あんたも死ぬよ。あんたは仲間よりも妹を優先している。そんなのは甘いんだよ。俺らはあんたの兄についてきただけだ。別にあんたのために仲間になったわけじゃない。あんたは所詮、あの人の金魚のフンのナンバーツーなんだよ!」
よく見てみると、ユウヤに拳銃を向けているのは古くからいる仲間だった。アユよりも先に仲間だったメンバーもいる。不満は、埃のように積もっていたのだ。
狼狽えているのはユウヤがボスになってから集まってきた仲間だろう。どうしたらいいのか。どっちにつくべきか決めかねているのかもしれない。
妹の裏切りを他者にぶつけるユウヤか、ユウヤを糾弾するサイヤか――。
《
アユは拳銃を構えながら仲間の間を通り抜けてユウヤのもとに行く。背後からは分からなかったが、ユウヤは唇を噛みしめていた。唇からは血が流れている。
「くそ」
短く吐き捨て、ユウヤは拳銃を降ろした。サイヤが愉しそうな笑みを浮かべる。
それを横目で眺めやり、ユウヤは歩きだす。この場から逃れるため。彼は、無言で部屋の出入り口に向かって行く。背後から聞こえてくる声に背を向けて、怒りをまた押し殺したユウヤの背中を視線で追いながらアユは駆けだした。
――私だけは、一緒にいてあげないと。
「裏切り者には制裁を――。それが《
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