●22.知らない記憶。

 彼は、ユウヤの兄に手を引かれながらやってきた。

 焼け焦げてボロボロになった布きれを纏い、何かに討ちつけられたのであろう痣や爛れた火傷の痕を隠そうともせずに、十歳程度の少年は、哀れな姿とは異なる意志の強そうな瞳でユウヤを睨みつける。まるで、お前は誰だ、とでも問われているようだ。

 ユウヤは少年の姿を暫し見つめ、顔を逸らすと兄を見た。長く伸ばしたグレーの髪を後ろで一括りにしている男性は、ユウヤに優しく微笑みかける。

「拾ってきた。ヤスユキという名前らしい。新しい仲間だ」

「……ああ。歓迎するよ」

 重い口を開いて、ユウヤは答える。兄の前に立つと、どうしても緊張してしまう。本当の肉親であるはずなのに、いつも微笑みを浮かべている兄からは威圧感しか感じなかった。

「〝異能者〟に炎で家を焼かれたらしい。それでヤスユキの両親は死んだ。この子は恐らく強くなるだろうね。――サイヤ」

「はーい」

 いつもの如く近くで話を盗み聞きしていたのだろう。自分より少し年下の少年が兄の近くに寄ってくる。金髪で青い瞳という日本人離れした容姿は、自分を偽るためのものだという。髪の毛は染めていて、瞳にはカラーコンタクトをつけている。ユウヤはサイヤを何となしに見つめる。彼は兄の前に立つと、何を考えているのか分からない顔でヤスユキを眺めていた。

「サイヤ。お前がヤスユキを育てるんだ。お前の力のすべてを教えてあげなさい」

「いいんですけど、どうして俺? 俺よりも、ユウヤさんのほうが適任じゃないですか?」

「ユウヤは今ね、オレがいろいろ教えている最中なんだ。他人に構っている余裕はないんだよ」

「そうっすか。じゃあ、頑張ります」

「ああ。頼んだよ」

 兄はそう言うと、踵を返して歩きだした。その背中をユウヤは追いかける。ヤスユキという少年もついて来ようとしていたが、サイヤが服の裾を掴んで止めていた。

「兄さん」

「ここではボスと呼べ、って何べん言ったら分かるんだい?」

「ボス」

「何だい」

「雪姫が会いたがっている。今、時間はないのか?」

「無理だね。これから作戦会議だ。お前も出るだろ。雪はアユに見てもらえばいい」

「……でも」

「ユウヤはいつからそんなにゆうことの利かない子供になったのかな。雪とはいつでも会えるじゃないか。だけど〝異能者〟の行動は刻一刻と変わるんだ。今狙っているは特にね。こんな時に、雪に構っている時間は今のオレ達にはないんだよ」

 兄は冷たい目でユウヤを見ていた。言葉は突き放すようなもので、そこに情など微塵も込められていない。ただ、〝異能者〟を殺すことを目的としている彼にとっての家族とは、一体何なのだろうか。

 ユウヤはそんな兄のことを理解できなかった。理解、したくなかった。

 妹が会いたいといっているときに会いに行けなくって、何が兄弟だ。家族だ。

 恐らく兄は、妹が敵になった時、迷わず殺すだろう。仲間のことを同士だとか謳っていても、少なくとも兄にとっての仲間とは〝異能者〟を殺す道具に過ぎない。それを身近で感じているユウヤは、どうしても兄のことを好きにはなれなかった。


 そんな兄が死んだのは、現在いまから約二年前のことだった。

 兄とユウヤとヤスユキとサイヤ、それからアユや他の仲間の数人と共にと相対したときに、兄は無残にも白い獣に殺されてしまったのだ。凶暴な、白と黒の斑の獣。獣は、咆哮を上げながら兄に牙をむいた。こちらも拳銃キバを構えていたので当然の結果ともいえるだろうか。

 その日ボスを失った《現実主義リアリズム》は、新たにユウヤをボスに始動することに決まった。兄の後を継いでボスになったユウヤは、この日決めた筈だった。

 仲間は誰も死なせない。皆で力を合わせて、〝異能者〟を倒すんだ。

 その筈だったのに――

 仲間は、ボスだった自分に牙を向けてきた。

 どうしてこうなってしまったのか。自分が何を間違えてしまったのか。

 後から考えていると、あの時こうしていればという後悔ばかりが湧き上がる。

 ――オレは、いったい何をしているんだ。

「ユウヤさん」

「……あ、アユ、か?」

 後ろから掛けられた声に、ユウヤは振り返る。そこで初めて、自分の後をついて来てくれた女性がいることに気づいた。

 地面を打ち鳴らす大雨の中、傘もささずに立っている女性の姿は、ユウヤと同様に髪の毛も服もべたべたに濡れている。いつもしっかりとした女性の焦っている顔をみて、ユウヤは思わず彼女の顔に手を伸ばした。ひんやりと冷たい感触がする。



「どうしてここにいる。風邪ひくぞ。仲間のもとに戻れ」

「あの人たちは……いいえ、私たちはもう仲間ではありません。《現実主義リアリズム》から追い出されたんですよ」

「……そうだったな」

「これからどうするんですか?」

「……どうするんだろうな」

 うわの空で返すユウヤの言葉を、アユはじっと待つ。

 彼の熱は、こんな雨如きで覚めてしまったのだろうか。願っていたことの筈なのに、彼が何一つ成し遂げることなく、覚めてしまってもいいのだろうか。

「雪姫さん」

 その名前に、ユウヤの眉がぴくっと動く。

「雪姫さんを取り戻しに行きましょう」

 彼の目が大きく見開かれていき、アユの頬から手が離れて行く。それを名残惜しくも思いながら、アユはじっとユウヤの瞳を見つめ続けた。

 歯を打ち鳴らし、ユウヤは握り拳を固めると自分の足に打ちつける。

「当たり前だ」


 雨は、夜中を過ぎても振り続いていた。



● ● ●



 遠くで雨の音がする。ざあ、ざあ、とまるで小豆洗いが豆を洗っているかのようだ。

 ここではないどこか遠く、そこで雨はぴちゃんと地面を濡らしていく。

 乾いた地面が中心から湿って行く光景を目の裏で想像しながら、ヤスユキは重たい目を開けた。

「雨。まだ降ってるんだ」

 雨が降っている日は、どうしてか頭が重い。いつもより寝る時間が長かったはずなのに、悪夢も見ることなく、なにも見ることなく朝を迎えた筈なのに――どうしてか、いつもよりも体が重く感じる。

 ふわああと欠伸をすると、ヤスユキは体を起こした。ソファーに座り直して辺りを見渡すと、定位置になっている事務机で神宮寺がジッとこちらを眺めていた。

「神宮寺さん。おはようございます」

「おはよう」

 そっけなく挨拶は返され、神宮寺は視線を逸らすと開いている新聞紙に目を落とす。

 ヤスユキは前の机の上に置いてある本に手を伸ばし読み始めた。

 暫くして、アケミの部屋の扉が開き、中からトコトコと雪姫が現れた。後ろからは、大きな欠伸をしたアケミがついてくる。雪姫は、ソファーに座っているヤスユキを見つけると、満面の笑顔で飛びついてきた。

「ヤスユキ、おはようなのじゃ」

「おはよう。雪姫ちゃん」

「雪姫でよいのじゃぞ。いつも、ヤスユキはそう呼んでいたではないか」

「そうだったの?」

 首を傾げる雪姫。

「どうしたのじゃ。まるで、妾のことを忘れたみたいじゃのぅ」

「……そう、なんだ」

 痛む頭を押さえながら、ヤスユキは雪姫のグレーの瞳を眺めながら答える。

 ――この子は、僕が記憶を無くす前のことを知っている。だったら、記憶喪失のこと話した方がいいだろう。

 昨日の男が言っていた、「裏切り者」という言葉は何を指すのかが分からないが、ヤスユキは彼女に記憶喪失だってことを伝えることに決めた。

「どうやら僕は記憶喪失らしい」

「記憶喪失?」

 雪姫は頭の周りに疑問符を浮かべる。

 ヤスユキはどうしたら伝わるのか考えながら、記憶を失くした日のことを思いだし、短くまとめて告げる。

「あの日、僕は記憶を失くして、ここ――≪神宮寺探偵事務所≫の前に倒れていたんだ。それをアケミさんが拾ってくれて、それからここに厄介になっている」

「そう。なのか。記憶。妾のことを、忘れている……」

 肩を落として、どこかシュンとした犬のような雰囲気を漂わせる雪姫は、考え事をするかのように顎に手を当てる。

 そして、花が開いたような満面な笑みを浮かべて言うのだった。

「よし! それじゃあ、妾が、お主が記憶を無くす前のことを教えてあげるぞ!」

 にししと笑う雪姫の顔を見て、ヤスユキは心配になった。嬉しくないといったら嘘になる。だけど、自分が記憶を無くす前にしてきたことを知るのは、どこか怖かった。自分が自分じゃない気がするし、致命的に今のアケミや神宮寺との関係が壊れるようで……とても恐ろしい。今の自分が消えてなくなってしまうのではないか、とヤスユキは不安だった。

 それでも聞かなければいけないのだろう。自分が記憶を無くす前にしてきたこと、それは紛れもなく自分であるのだから。記憶を取り戻さないと、今ここにいるのが本当に自分なのかわからなくなるのだから。

 ヤスユキの隣に座りながら、雪姫はヤスユキの膝に手を置くと、グレーの瞳をキラキラさせる。その口が徐々に開いていき、彼女はにっこりと元気に叫ぶのだった。

「妾は、ヤスユキのお嫁さんじゃ!」

「――――は?」

 短い沈黙の後、口を開いたのはアケミだった。まんまるに開いた口を隠そうとせず、アケミは呆けた顔で雪姫ではなくヤスユキをガン見すると、

「はぁ?」

 かくっと首を傾げた。

 アケミにつられてヤスユキを思わず首を傾げる。

 雪姫は、今なんて?

「だから、妾はヤスユキと将来を誓いあった仲なのじゃ……。ヤスユキは、忘れてしまったのか」

 頬を染めて、ちらっと上目遣いで見てくる雪姫。どこか色っぽく見えるその仕草に、だけど自分より少し年下の少女の行動に、ヤスユキは状況の整理をするのに必死だった。

 ――この子が僕のお嫁さん? いや、将来を誓いあった仲……?

 意味が分からない。

 どういうことなのか、聞きかえそうとすると、その前に青ざめた顔をしたアケミの囁きが耳をついた。

「ロリコン?」

 断じて違う!

 叫びそうになった口を慌てて塞ぎ、ヤスユキは抗議の言葉を飲み込む。今そんなことを叫んでしまったら、雪姫を傷つけてしまうかもしれない。

「ゆ、雪姫、ちゃん? 雪姫? あの、どういうこと?」

「むぅ。本当に覚えておらぬのか。妾にあんなことやこんなことをしておいて……忘れたとは言わせぬぞ、旦那様」

 つんつんと雪姫に脇腹をつっつかれる。

 ヤスユキの背筋を、ぞぞと這いあがってくるものがあった。

 殺気を感じる。前を向くと、アケミが冷酷な目でヤスユキを見ていた。明らかなる殺意に、ヤスユキは唇を震わせる。

「わ、ちが、そんなこと、おぼえ、いや、ない……」

「てめぇ、小さな子供になんてことをしたんだぁッ、ぼけええええええええ!!」

 アケミの飛び膝蹴りが、ヤスユキの鳩尾にクリーンヒット。

 「ぐはっ」とヤスユキは息を吐き出す。

 ――く、苦しい……。誤解なのに……そんなこと見に覚えは……。

 だけどヤスユキは記憶を失くしているのだ。もしも雪姫がヤスユキの記憶がないことを良いことに言いたい放題言っていたところで、証明できる人がいないのだからアケミの誤解を解くことは難しい。ヤスユキはとにかく誤解だ、と信じたかった。

 雪姫は満足したような顔で、えへんと腰に手を当ててヤスユキに甘い視線を向けてきた。

「ヤスユキは妾のじゃ!」

 ――ああ、もしかして、さっきの彼女の言葉は本当だったんじゃ……。

 アケミの冷たい視線を感じる。ソファーの定位置に戻ったアケミは、ヤスユキに殺意にこもる視線を投げ続けていた。

 ――どうしたらいいのだろうか。もしかして、僕ピンチ?

 ピンチはチャンスだ、とかいうけれど、このピンチをどうやってチャンスにかえればいいのか。そんなことヤスユキにはわからなかった。

 椅子を引く音が鳴る。神宮寺が立ち上がり、こちらを向いていた。

 死んだ魚のような感情のこもってない目でこちらを一瞥していた神宮寺は、視線を逸らすと事務所の入り口に目を向ける。

「お客さんだよ」

 その声と共に、ドアをノックするかのような音が響いた。

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