●3.喪われていく記憶。
朝起きると、いつも頭の中のどこかが欠けているように感じる。
それを思い出そうとしても無理で、まるでそこだけ食べられてしまったかのように、すべてを忘れてしまっている。
昨日何を食べたのだろうか? ……ああ、ダメだ。思い出せない。
昨日会った人の名前は何だっただろうか? ……ダメだ思い出せない。
この目の前にいる人の名は? この植物の名は?
この服を買った所は? このグラスを割ったのは?
この本、どこまで読んだんだっけ……?
ああ、ダメだ。何も思い出せない。
あの時何をやったのかも。あの日会った人のことも。
パズルのピースが一個足りないかのように欠けてしまい、重要なことから特に足らないことまで、ほんの一欠けら忘れてしまっている。
怖い。怖い怖い怖い怖い。
いや、やめて。それは食べないで……。
――けど、自分が契約した使い魔と共に歩むには、これを我慢して生きて行くしかないのだった。
● ● ●
ヤスユキは目を覚まし、ソファーの上に寝そべっていた状態から身体を起こすと座り直した
大きく一回、欠伸をする。目に溜まった涙を拭うと、ヤスユキは向かいのソファーに座っているアケミに目をやった。
彼女は真剣な目で手帳らしきものを睨みつけている。
「おはようございます、アケミさん」
そんな彼女に、ヤスユキは躊躇うことなく挨拶をした。
「んっ? ……ああ、もう起きたんだ、ヤス。早ぇな。いつもいつも」
「そっちの方が早いですよ」
手帳から顔を上げないで面倒そうに答えるアケミに、ヤスユキは呆れた声を出す。
――いつも、僕が目を覚ました時には起きているけど、この人はいつ起きているのだろうか?
その疑問はいつも持っているが、聞いたことはない。それによく考えれば、神宮寺も起きた時にはもう出掛けていることもある。昨日もそうだった。もしかしたら自分が起きるのが遅いだけかもしれない。時計を見る。午前の七時だった。
ヤスユキは机の上に置いてある、『〝世界〟の非常識』という本を手に取った。
「で、どこまで記憶は戻っているんだ?」
というアケミの声で、その手を止める。
目を上げると、彼女は無表情な顔でこちらを見ていた。
「ぜんぜん、ですよ。何も思い出せません」
何度目になるかわからない問いに、ヤスユキは昨日と同じ返答をする。
「ふ~ん」とアケミは唸ると、頭に手を当てながらまた難しそうな顔で手帳を眺め始めた。
その姿は何かを思い出そうとしているかのように見える。
彼女は手帳から顔を上げると、いつもの鋭い瞳をむけてきた。
「なァ、昨日誰か来なかったっけ?」
「え?」
その顔はとても真剣だった。本当に忘れてしまったかのようにアケミは言っていた。
――いや、本当に〝忘れている〟のだ。
彼女は、己が契約した〝使い魔〟のせいで、酷く記憶が曖昧になっているのだから。
この〝世界〟には、〝使い魔〟と呼ばれる異能を司る生き物がいる。
契約した人間は〝使い魔〟を使役することができる。
――だが、〝使い魔〟と契約をするのには代価があり、人間は己の一部を犠牲にしなければならない。
例えば身体の一部だったり、己の感情だったり、そして――己の記憶だったり。
犠牲にする〝モノ〟は己で決めることができるのがほとんどだが、中には〝使い魔〟が勝手に決めてしまう場合も存在している。
アケミがそうだった。
彼女は、己が契約した〝使い魔〟である【ユメクイ】により、勝手に〝記憶〟を代償にされてしまっているのだ。
その〝犠牲〟は彼女自身を守る為でもあった。
【ユメクイ】とは、その名のとおり、夢を食う――つまり、悪夢をはじめとする人の見るすべての〝夢〟を食べることができるのだ。また額を合わせることによってその人の夢を盗み見ることもできる。
そしてもう一つ、能力があった。
それは、己が眠っている間、この〝世界〟にいる人すべての夢をランダムに見て記憶してしまう。というものである。
その夢を記憶するスペースを作るために、毎日起きると彼女は前日にあったことの一欠けらを忘れてしまっている。
それでアケミが苦しんでいることを、ヤスユキは知っていた。
もしかしたら記憶を〝犠牲〟にしているせいで、彼女は睡眠時間を削っているのかもしれない。夢は、楽しい夢ばかりではないのだから……。
アケミは記憶の無い自分を気遣ってくれている。だけど彼女のほうが辛いのではないか。ヤスユキはそう思っていた。
今思えば、ヤスユキはアケミに拾われたからこそ生きている。記憶の失くして死にそうになっていた彼を、アケミは救ってくれた。それは感謝してもしきれないことだった。
なぜならヤスユキは何の能力も持っていない〝異端者〟だからである。
〝異端者〟はこの〝世界〟では迫害を受け続けている。
彼女たちはそれを承知で受け入れてくれていたのだろう。〝異能者〟は同じ〝異能者〟を察知できるのだから。
ありがとうの言葉だけでは表せられない、多大な恩がある。
――まあ、これは記憶を失くして何も覚えていないヤスユキに、神宮寺やアケミが教えてくれたり、後は本とかから学んだ知識なのだけど。
ヤスユキが何も答えないで百面相をしていると、アケミがチッと舌打ちをした。そして、彼女は事務机でパソコンと向かい合っている神宮寺に声をかける。
「なァ、ジン……」
「昨日なら、『情報屋』がきたよ」
神宮寺はアケミが問うより早く答えた。
アケミの顔が蒼白に染まる。
「なっ……。だから、書いてなかったのか。くそっ。聞かなけりゃ良かったなァ。アイツ、またなんかやってきたのか……」
そしてブツクサと呟くと、彼女は手帳を閉じた。乱暴に机に叩きつける。
バンッ、という大きな音を聞くと、ヤスユキは無言のまま本を手に取った。栞の挟んであるページを開き、読み始める。
○ ○ ○
死にたい。何度そう思ったことだろう。
だけどこの〝使い魔〟と歩むと決めた九歳のあの日から、アタシはそう思わなくなった。
あの日、アタシは〝
傲慢な両親の許から逃げ、汚い町をどこに行くでもなく歩いていた。
歩き続けた足はついにおぼつかなくなり、もつれ動かなくなってしまった。アタシはその場で転んだ。まず膝が地面に擦れ、その後上半身を地面に打ちつけてしまった。至るところが傷つき、赤い血が流れ――アタシは動けなくなった。
それでも逃げたかった。逃げ続けたかった。
両親は自分よりも勝るアタシの能力に劣等感があるらしく、アタシは毎日虐げられていたのだから。
嫌だった。死にそうだった。死にたかった。死にたくなかった。
逃げたかった。そう、逃げたかった。逃げたかった。
とにかくアタシは逃げたかった。
だけどもう足は動かない。
アタシが悲しみに打ちひしがれたとき、それは差し出された。
自分より少し大きい手が――。
顔を上げると、そこには自分よりいくらか年上の少年がいた。
死んだ魚のような目をした彼は、無言でアタシに手を差し出していた。
多分気まぐれだったのだろう。
それでもアタシはとても嬉しかった。
震える手を差し出し、アタシは少年の手を握るとそれを頼りによろよろと立ち上がった。
この日、アタシは少年に拾われた。
すべてを失っていた少年により、アタシは〝師匠〟と呼ばれる人の下に身を寄せることになった。そして、いまの自分がある。
アタシはあの日の少年――いまではその面影も掠れている神宮寺に、会っていなかったらどうなっていたのだろうか。
何度も考える。
だけどもそれは、もう過ぎ去ってしまった過去のことで、
今考えたところで、どうでもいいことで……。
アタシは、もう吹っ切れていた。
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