●9.その日の朝。

 不意に鉄錆のような臭いが鼻腔をくすぐった。


 振り向くと、目の前に真っ赤な血の海が広がっている。


 ――は、大量の骸の中心に立っていた。



● ● ●



「うあッ」

 ヤスユキは慌てて身体を起こした。忙しなく動いている鼓動を落ち着かせようと、胸に手をあてながら呼吸を整える。

 ――今の夢、なんだ……?

 大きく一回深呼吸をして辺りを見渡す。

「あれ? 誰もいない」

 広いとは言えない事務所内には、いつも起きたときにいるはずの二人の姿はなかった。

 針は午前八時を指している。さすがに起きてないことはないだろう。

 出かけているのかもしれない。神宮寺はよく出かけているが、アケミが出かけるのは珍しい。少なくとも、ヤスユキがここに来てから、一回あったかどうかだろう。

 ヤスユキはまだボーとする頭を振り回し眠気を飛ばすと、机の上に開いて置きっぱなしになっていた『大怪盗!? ……趣味は盗撮です』というあまり売れてないだろうライトノベルを手に取る。

 栞の挟んであるところを開こうとしたとき――

「入るわよー」

 元気のいい高い声とともに閑古が事務所の中に入ってきた。寝ぼけていたから足音を聞きのがしていたみたいだ。

 ヤスユキは引きつった顔で閑古を見る。

「閑古さん」

 彼女はいつもと同じような、カジュアルな服の上に白衣を纏っているという、ミスマッチな服装をしている。

 閑古の瞳は何かを探すかのように事務所内を彷徨い、ヤスユキを見つけると、怪しい笑みを浮かべた。

「あらヤスユキくん、ひとり? 神宮寺とアケミちゃんは……いないみたいね」

 その満面の笑みはいつもと同じなのに、いつもよりも恐怖を感じるのはひとりだからだろうか。

 閑古は遠慮なくヤスユキの横に座る。ソファーが二つあるのにも関わらず、なぜか横に座った。

 身の危険を感じたので、ヤスユキはさっとソファーの左端ギリギリに移動するが、閑古は面白そうにそれを見て、徐々に間を詰めてきた。近づいてきた。というか顔が近い。

「ねぇ、ヤスユキくん。記憶は戻ってる?」

「……い、いえ、まだ何も」

「ふーん」

 間は数えるほどもない。体はくっつけられているし、顔は十センチほどはなれているかどうかだ。なにか良い香りもする。

 逃げなければと思っても、恐怖心からか体が動かない。

「ねえ、ヤスユキくん」

「……なんですか」

「どうして、こっちを見てくれないの? お姉さん悲しいなぁ」

 ――怖くって見れないんですよ。とは言えずにヤスユキはますます閑古を見ないように首を右に曲げる。

「こっちを見てくれないと、お姉さん何をするか分からないわよ」

 耳元に「ふぅ」と息を吹きかけられた。

「あひゃあ」

 間抜けな奇声を上げてしまう。左耳を押さえて左を見ると、

「うぉっ」

 閑古の顔が間近にあったため変な声を再び出す。

 ヤスユキは顔を赤くして、口をパクパクとさせた金魚みたいな形相をすると、閑古が噴出した。楽しそうな顔のまま、閑古が顔をもっと近づけてきた。少し動いたらキスをしてしまいそうなほど近い。

「ねぇ、ヤスユキくん。本当に何も覚えてないの? 記憶を、断片だけでも思い出していたら教えてほしいなぁ。お姉さんとても気になっちゃう」

 どうしてそんなこと言われるのかよくわからなかったが、ヤスユキは声を出すこともできなかった。緊張しすぎて体も動かない。

「本当に……ほんとーに、何も覚えてないの?」

 笑みを浮かべながら真剣な目で見られる。楽しそうにも、面白くなさそうにも見える茶色の瞳を見返していると――。

 事務所の扉がまた開いた。



● ● ●



 アケミと神宮時は、〝見捨てられた町フォーセイクンタウン〟にある道を事務所に帰るために辿っていた。

 アケミが「ん~~」と大きく伸びをして神宮寺を見上げる。

「まあ、なんてゆーか。師匠は相変わらずだったな」

「そうだね」

「ほんっとーに、正体が分からねぇ」

 師匠とは、行き場のなくなった〝異能者〟を育てている、年齢性別すべてに置いて不詳な人物だった。

 老婆の姿で現れたと思えば可愛らしい幼女の姿になっていたり、美少年の姿で現れたと思ったら一瞬目を離した隙に無精髭を生やした小太りの中年男性になっていたり、一日中同じ姿でいるところを見たことがない。

 噂では、まだ〝異能者〟が少数しかいなかった時代から生きているとかいないとか。不老不死の体を持っているとかなんとか。

 長い間一緒にすごしていたアケミや神宮寺にすら、正体は分からないままだった。

「今日は金髪の少女の姿のはずだったのに、いつの間にか老婆になってたしよ」

「気にしても仕方がないだろう」

「ふんッ。アタシも気にしてねぇ」

 ――本当の性別ぐらい知りたいけどな。

 アケミは表情の変わることのない神宮寺から顔を逸らすと、前を見る。

 事務所はもうそこだ。

 神宮寺が事務所へと続く階段のある扉に鍵を入れて回す。

「あれ? ……開いているね」

「はあ。またあけっぱなしにしたのか?」

「そうかもね」

「まあ、誰も勝手に入らないだろうからなぁ」

 二人は面倒そうに会話をしながら、扉を開けると階段を上って行く。



● ● ●



「よー、ヤスユキ。起きてるかあああぁぁあああぁあぁあ!?」

 アケミの声は瞬時に悲鳴に切り替わった。ドタドタとした足音のあと、パタンと扉が閉まる音が事務所内に響き渡る。

 ヤスユキはそれどころではなかった。迫ってくる閑古の顔をどうにかして押し返すと、逃げるようにソファーから滑り降りる。そしてアケミに続き部屋の中に入って来た神宮寺の後ろに隠れた。神宮寺が小さくため息をつく。

「どうしたんだい、ヤスユキくん。それと、また君は勝手に入って来て……」

「だって、せっかく合鍵作ったしー。使わないと損じゃない」

 ぐるぐるーと指で事務所の合鍵らしきものを振り回す閑古。

「……それ、返してくれないかい」

「ダメよ、ダーメ。これはあたしのモノだもの。壊すなんてありえないわ」

「合鍵をどうやって作ったのかは、気になるね」

「そんなことよりも、神宮寺遅いじゃない」

「約束の時間は九時のはずだろう。まだ八時過ぎだよ」

「何言ってんのー。あたしより遅いのがあり得ないのよ。待たせる男ってサイテーだわ」

 神宮寺が眉を潜める。何かを言おうと口を開いたが、すぐに閉じた。閑古から視線を逸らすと、ヤスユキを見る。

「行くよ」

 唐突な言葉に、ヤスユキは首を傾げる。

「どこにですか?」

「あれ、言ってなかったけ。今日からあの双子の護衛を開始するんだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る