第五章 焔と過去と今と自分 

●36.忘れられない記憶。

 隣の家に、美しい黒髪の少女がいた。

 彼女の髪の毛は、どんな黒髪にも負けないほど黒く、艶があり、風で動く度に優しい香りを周囲に広めていた。

 その黒髪に負けない意思のある瞳も黒く、真ん丸だったのを覚えている。

 身長は少年と比べて同じくらいか、当時は彼女のほうが少し高かっただろう。

 彼女は、少年の幼馴染だった。

 十歳のあの日、彼女が変わるまでは。


 この世界には、〝異能者〟と呼ばれる者がいる。彼らは、〝使い魔〟と契約して、異能と共に生きていた。

 それから〝異端者〟と呼ばれる者もいる。異能を持たないものの蔑称であるそれは、十二歳までの子供に適応されることはなかった。

 十二歳までの子供は、まだただの子供で、異能を得るための体のつくりをしていないものが多かったからだ。中には、物心つく前に契約しているものもいたが、それは本当に一握りだ。

 彼らは、十二歳になるまでに、〝使い魔〟と契約することになる。

 

 その日は、彼女の番だった。

 彼女の両親も、少年の両親も、〝異能者〟だ。

 〝使い魔〟と契約することを当然として生きてきた、〝異能者〟だ。


 彼女の契約した〝使い魔〟は、元々炎の精霊として恐れられて、数々の事件を起こしてきた幻獣でもあった。だけど、所詮は在り来りの〝使い魔〟だ。契約することは容易かった。

 彼女の両親も、彼女と同様に、その炎の〝使い魔〟と契約していたのだから。


 その日、家は炎に包まれていた。

 彼女は契約すると同時に、周囲一帯を火の海に変えてしまった。


 突然だった。

 突然、隣の家が燃えている。

 そして、少年の家も燃えていた。


 真っ赤な炎が、そこにある。


 叫び声が聞こえた気がした。

 それは隣の家か、それとも家の中からか。

 熱い炎の中、服の裾が少し焼け焦げているのに恐怖を感じながら、少年は部屋から出ると、玄関から外に出た。


 くすっ。

 笑い声を聞いた。


 あははっ。

 それはよく知る声で、一緒に遊ぶたびに彼女が漏らしていた笑い声。


 あははははははははははッ!

 張り裂けそうなほどの哄笑。


 自らの家を炎で包み込みながら、立ち上る火の粉の上で、少女が笑っていた。


 あの美しい黒髪はチリヂリに焼け焦げて、着ている服は纏っているだけで意味をなしていない。口を三日月形に開き、目から炎よりも濃い赤を滴らせた少女は、ふと、少年を見た。

 その眼が、口が、一瞬、無感情に閉じられる。


 短い静寂の後、少女はまた笑い出した。


 目の前で、炎が躍っている。

 少女も踊っている。

 彼女の後ろから、火の手が上がった。

 少女の家が燃えている。少年の家も、近隣の家も。

 どこからともなく現れた炎に抗うことができずに、家ごと人々は燃えて、一欠けらも残さず、姿は燃え尽きた。



● ● ●



 懐かしい夢を見た。

 ほんと数年前の、忘れられない記憶。

 この記憶は、自分のキーでもあった。

 これがないと、〝異能者〟を殺せない。


 ヤスユキは目を開けると、部屋の中を見渡した。

 彼はベッドでもソファーでもない、ただの冷たいコンクリートの上に眠っていた。

 懐かしい部屋だ。

 まだ組織にいた頃、サイヤとやんちゃをしては閉じ込められた、反省の間みたいなところ。

 ひんやりとするコンクリートに、ヤスユキは触れた。


「僕はどうすれば」


 〝異能者〟は嫌いだ。すべて、殺し尽くさないといけない。

 それなのに、記憶を失くしていたからと言って、自分は〝異能者〟と一緒に暮らしていた。

 組織を裏切ってしまった。

 記憶を失くしていたからと言って、ボスに銃口を向けた。

 同じ〝異端者〟に、仲間に。

 冷たい感触を思い出す。

 自分はそれ以外にも、やってはいけないことをやらかしている。

 それから、雪姫のこと。

 ユウヤが大切にしている妹は、この組織にヤスユキがやってきてから、なぜか付きまとってくる、よくわからない存在だった。

 だけど、ここ数日で、彼女の狂気的なまでの愛情を、感じ取っていた。

 彼女は、なぜそこまで自分のことを。

 考えるが分からない。


 扉が開いた。


「おはよう」


 懐かしい顔が姿を見せた。

 いつもユウヤの傍に付き従っている、ユウヤよりも年上の女性――アユだ。


「良い夢は見れた?」

「……そ、そ、そんなわけ、ない」


 弱々しく、ヤスユキは応える。

 今、記憶が戻っていることを悟られるのはまずい。

 記憶を失くしていた時の自分を思いだしながら、平常心を欠いた挙動でかつての仲間を欺くことにした。


「そう」

 アユはそれっきり黙る。

 妙な静寂だ。

 もしかしたら記憶を失くしていないことを、悟られてしまったのかもしれない。


 そういえば、ユウヤはどこにいるのだろう。

 他の仲間もいない。

 何故、アユは一人でここに?


「あなたは――」


 口を開き、本当に疑問そうに、彼女は訊いてきた。


「本当に、記憶を失くしているの?」


 バレた、と思った。

 ヤスユキは、思わず拳を構える。

 彼女一人だけであれば、倒して逃げられるかもしれない。

 その先は、無理だろう。ここはアジトの一番最下層にある。

 上の階に行けば行くほど、仲間はたくさんいる。

 武器の持たないヤスユキは、今は無力だ。

 答えがないのを何と思ったのか、ゆっくりと瞬きをするとアユはヤスユキから視線を逸らした。


「雪姫さんが言っていたことを、思い出したの。それが本当なら、あなたは裏切っていないってことになるから。本当に記憶を失くしているのであれば、ユウヤさんも悪いようにしないと思うわ。けど、もしそれが嘘なら」


 ――嘘なら?


「あなたは、本当の裏切り者として、処刑されるのを覚悟することね」


 ごくりとつばを飲み下す。

 記憶を失くしていたのは本当だ。

 けれどその記憶はもう戻っている。

 記憶を失くしていない状態だったら救いに思えたかもしれないが、今のアユの言葉は、ヤスユキにもう戻れない道にいることを教えるのに、十分だった。

 牢獄のような部屋から、アユが出て行く。

 重たい扉が、目の前で閉じた。


 ――これからどうやって欺くのか、そればかり考えていた。



● ● ●



 雪姫が虚ろな目で、トランプをテーブルの上に置く。

 その向かいに座っているアケミは、彼女の顔を眺めながら、迷いつつも、クローバーのエースを机の上に置いた。


「ない」

「あ、ああ、流すな」


 二人は、今大富豪をやっていた。

 今日は三戦目になるが、全部アケミの勝利だ。

 ちっとも嬉しくない。戦意の感じられない相手と戦って勝っても、少し虚しくなるだけだ。

 雪姫に勝たせてあげたら元気になるだろうか、と昨日まで試してきたものの、彼女は喜ぶことなく、まるでわざと負けにきてるかのように、適当なカードを置くだけで勝負にもならなかった。


 もうやめだッ!

 とヤスユキとの対戦で自分が負けたときに、カードをばら撒いたことを思い出す。

 勝っているこちらがやるのはおかしいかもしれないが、それで彼女が感情を表に出してくれるのならやらない手はないだろう。

 だけどそれで、彼女が怒るようなことも、笑うことも、泣くこともない気がした。

 

 まるで魂の抜けた人形だ。

 ヤスユキが傍にいないだけで、どうしてそこまで虚ろになってしまうのか、彼女と親しいわけでもないアケミには分からなかった。

 ――――泣かなくなっただけ、マシなのか。


「アケミ君」


 新事務所件住居に、新しく持ち込んだ事務机の椅子に腰掛けた神宮寺が、新聞から顔を上げて、死んだ魚のように感情のない瞳を向けてくる。


「お客さんが来るよ」

「あ、そうか。じゃあ、片付けないとな。雪姫、漫画読むか?」


 旧事務所から持ち出してきた漫画が自室にあった筈なので、雪姫に勧める。

 首を振られてしまった。

 手持ちのカードを机の上に置き、彼女はソファーの上で蹲り、横になって目を閉じた。


 どうしていいのか分からずに、机の上のカードをまとめてケースに入れると、アケミはため息をついた。

 神宮寺に助けを求めてみるが、彼も首を振るだけなので、為す術がないということなのかもしれない。

 幼い少女のお守は大変だ。

 それが、あの《現実主義リアリズム》のボスの妹で、尚且つヤスユキを恋い慕う者で、アケミと違って〝使い魔〟と契約していない〝異端者〟ならなおさらだ。

 アケミは、懐からメモ帳を取り出すと、パラパラと捲り始めた。


 アケミは、【ユメクイ】という〝使い魔〟と、記憶を〝犠牲〟にして契約している〝異能者〟だ。

 寝ている間、世界中の人々の夢をランダムで見てしまう異能は、膨大な記憶をアケミに与えていた。

 そのため、アケミは〝使い魔〟に言われるがまま、記憶を〝犠牲〟にして、契約していた。

 記憶は、日々、消えて行く。

 何が消えるのかはわからない。大事なものから、とくに足らないものまで、彼女の記憶は少しずつ、喪われていく。

 何が消えるのかわからないと怖い。

 わかったところで、それすら消えるのだから、怖いと思うのも無意味だ。

 一度〝異能者〟になったら、死ぬまでその運命から逃れられないのだから。


 最近のページを開いてみる。


 ヤスユキが倒れていた。

 記憶を失くしているらしい。

 〝異端者〟だ。

 アタシらを恨んでいるんだろうか?

 記憶を失くしている。

 今日は神経衰弱をした。途中でジンに邪魔された。

 今日は七並べをした。あのやろう、スペードの5を止めてやがった。カンコがやってきたから、蹴り飛ばしてやった。

 双子の護衛をするからと、ヤスまで連れていかれた。一人になるのは久しぶりだから、少し、さびしいかも。

 ヤスに、大富豪で勝った。勝った方が言うこときく条件だったので、ヤスに買い物に行かせると、ジンに怒られた。コンビニに行くと、ヤスが襲われていた。雪姫に会った。

 雪姫を奪還するためか、ヤスを殺すためか、リアリズムが事務所を襲ってきた。ジンが撃退したが、事務所には住めなくなったので、新しい事務所にやってきた。

 ヤスが消えた。雪姫が泣き止まない。何か枷が外れたみたいだ。相手にするのがめんどいけど、小さい子はオトナが面倒見ないとな。脆いから、すぐに壊れる。

 ヤスユキは見つからない。

 探している途中に、怪盗の仲間とあった。

 それから師匠にもあった。

 ヤスユキは見つからない。

 どこにいるんだよ、あいつ。早く帰って来い。

 いや、元々ここはあいつの家じゃないんだから、帰って来いってもおかしいか。

 戻って来い。雪姫が、待ってるぞ。

 なんか、おかしいかも。


 日々、記憶は喪われている。

 だけど、彼のことは、どうしてだか忘れられなかった。

 神宮寺との出会いが忘れられないのと同じだろう。


 そんなことを考えていると事務所のインターホンが鳴り、神宮寺が来客を連れてくるために部屋から出て行った。

 暫くして神宮寺が連れてきたのは、美しく長い黒髪の、赤い瞳の少女だった。

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