2章1話4 救いの手・黒髪の傭兵
その声は、不思議なほどによく通った。
決して荒げた声ではない。
むしろ、落ち着いた物言いだ。
だが、いかにも短い一言は、罵声と物音が混在する殺伐とした喧騒の中、くっきり明瞭に耳に届いた。
それまで平然としていた統領代理が、驚いたように呟いた。
「……ケネル」
それが彼の名前であるらしかった。
黒い頭髪の青年が、窓辺でこちらを眺めていた。
年齢は二十代後半といったところか。
癖のない涼しげな相貌、嫌みのない落ち着いた面ざし、だが、頬が引き締まっているためか、弱々しい印象はない。
目がかち合ったその刹那、ぎくり、と肩が居竦んだ。
ざわり、と全身総毛立つ。
(……な、なに。あの人は)
エレーンはどぎまぎ目をそらした。
どくん、どくん、と胸が異様に乱れていた。
息苦しいほど、鼓動が速い。この戸惑いは、馴染みのない感情は何だろう。
そう、これは、
──嫌悪?
そう、不愉快なのだ。
無遠慮なほどまっすぐに、彼が見つめていたからだ。
すべてを見透かしてしまいそうな、あの誤魔化しのない目で、まっすぐに。
あんなふうに凝視する、不躾な相手を、これまで知らない。
誰もが動きを止めていた。
ケネルのただの一声で。
女将が憤然と腕を払い、毒づきながら目を向ける。
ぎくり、と横顔が凍りついた。
「ガ、ガーディアン?──どうして、ここに」
人垣の向こうで、亭主も拘束を振り払い、怪訝そうに目を向ける。
「……ビビ? あいつらを知っているのか」
「──あ、いや。知り合いってわけじゃないんだけど、その、」
女将はあわてて首を振り、言いにくそうに口ごもる。
窓辺のケネルを、四人の男が取り巻いていた。
短髪の中年の男、熊を連想させる蓬髪の男──その太い二の腕には、青い入れ墨が見てとれる。
初対面で亭主の腕をひねりあげた乱暴な長髪の後ろには、窓枠に腰かけて窓の外を眺めている我関せずの者もいる。
「事情はわかった」
ケネルが落ち着いた口ぶりで事もなげに言った。
「ちょっと行って、始末してくりゃいいんだろう」
「──隊長が行くなら、俺も行くぜ!」
卓で見ていた後列の男が、たまりかねたように立ちあがった。
次々、同調者が椅子を蹴る。
勢いこんで引かれた椅子が、ガタガタ騒がしく音を立てる。
にわかに部屋は騒然とした。
彼らはいずれも同じ方向を見つめている。
注視を向けたその先にいるのは、統領代理その人だ。
今や半数が席を立ち、ケネルの言葉に同調していた。
着席している者たちも、真摯な視線を向けている。
呆気にとられてそれを見まわし、統領代理は嘆息した。
「いいでしょう」
穏やかに、エレーンに視線を向ける。
「仰せに従いましょう、奥方様」
ぽかん、とエレーンは口をあけた。事態がうまく飲みこめない。
「見ての通り、いわゆる兵はないんだが、あなたにはこの、とっておきのボディーガードをお貸ししよう」
統領代理は苦笑いし、周囲をとりかこむ人垣に手を振る。
取り巻いた男たちが離れ、速やかに卓へ散っていく。
いともあっさり拘束を解かれて、エレーンは戸惑って見まわした。
「あ、あの、なんでいきなり、そんなふうに……?」
狐につままれた心境だ。今の今まで、つまみ出されそうになっていたのに。
統領代理が笑みをたたえて両手を広げた。
「あなたは我々を仲間だと言ってくださった。あなたの家族だと言ってくださった。ごらんなさい、彼らの顔を。止めたところで結果は同じだ。あなたに付いていくでしょう」
「……は、はあ」
エレーンはたじろぎ笑いで小首を傾げた。
まったく訳がわからない。
とってつけたような大仰な台詞。芝居がかったあの身振り。手の平返したようなこの態度。
だが、統領代理は澄ました顔だ。
「あなたが我々の仲間というなら、同胞の危機を黙って見過ごすわけにはいきませんからね。正直、彼らまで取り上げられると、こっちは丸腰同然なんだが──」
諦めたように微笑んで、しなやかな手をさし出した。
「まあ、いい。我らが命運、あなたの手に委ねましょう」
「あ、あのっ!」
窓辺へ駆け寄り、呼びかけると、ケネルが無造作に目を向けた。
エレーンはとっさに立ち止まる。
小柄な人かと思っていたが、近づくと案外、上背がある。
ふと、その理由に気がついた。
後ろの熊のような蓬髪の男が、いささか迫力がありすぎるのだ。
他の四人も身じろいで、おもむろに目を向けてくる。
無言の視線に注目され、エレーンは気まずくたじろいだ。
恐らくその気はないのだろうが、どうも雰囲気が威圧的だ。
「あ、あの、ありがとう。お陰で、とっても助かったわ。あ、あの、それで──」
言葉が先細り、ついに詰まった。
相手は五人もいるというのに、誰ひとり言葉を返さない。
見物されてでもいるようで、そこはかとなく、ばつが悪い。
だが、お礼半ばで引きあげることもできない。
なけなしの勇気を振り絞り、しどもどケネルに笑いかけた。
「あなたがいなかったら、どうなってたか。あたし、どうしていいのか、まるで見当もつかなくって──」
ケネルは無言だ。
応答どころか表情のひとつも崩さない。
愛想笑いも何もない。相槌さえも打ってくれない。もしや、彼は不機嫌なのだろうか。
仕方がないので、自分で続けた。
「あ、で、でもね? あなたのお陰で、なんとか乗り越えられそうな──」
「さっさと戻れ」
エレーンは面食らって口をつぐんだ。
「あんたの街にさっさと戻れ。いつまで油を売っているつもりだ。あんたには、すべきことがあるだろう」
「すべきこと? あたしに?」
ぽかん、とエレーンは首をかしげた。
そう言われても、とっさに何も思いつかない。
警邏には管轄外だと言われたし、義兄の協力も得られなかった。
ちなみに、ノースカレリアに軍はない。
ならば何があるというのだ。
今、自分がすべきこと──。
ケネルは落ち着いた声で淡々と言う。
「領主が不在というのなら、あんたがその代行だろう。あんたにはもう、往来で、泣いている暇はないはずだ。街の領民に知らせなくていいのか。ディールが攻めてくるんだぞ」
「あっ!──は、はいっ!」
エレーンは弾かれたように背筋を伸ばした。
いかにも、彼の言うとおりだ。
ぺこり、とケネルに頭を下げて、統領代理と話している夫妻の元へと取って返す。
「あのっ! すぐに戻らないと!」
「セヴィ、ちょっと残ってくれるか」
統領代理がやんわり割りこむ。
戸口に踏み出しかけたセヴィランが、肩越しに声を振りかえる。
「なんの用だよ、デジデリオ」
「話がある」
亭主と同じく帰りかけていた女将も、笑みを浮かべる統領代理と、怪訝そうな亭主の顔を、胡散臭げに見比べている。
「そうかい? じゃあ、あんたはゆっくりしておいでよ。あたし達はお先にね。さあ、帰ろう、エレーンちゃん。こうなったら、あたしも及ばずながら力を貸すよ」
「お前もだ、ビビ」
「……あたしも、かい?」
声を裏返して確認し、女将は腑に落ちない表情だ。
たまりかねたように周囲を見た。
「でも、この子を一人で歩かせるには、ここいら、ちょいと物騒だしさ。話があるなら、後で聞くよ。送り届けて戻ってくるから──」
「なら、護衛をつけよう」
統領代理はにこやかに、だが、にべもなく女将を退けた。
「心配いらない。責任をもって屋敷まで送る」
かたわらに軽く手をあげる。
近くにいた男二人が、機敏に立ちあがって近づいた。
ぽかんと見ていたエレーンの腕を、二人は左右から強引にとる。
「さ、参りましょうか、奥方様」
「──えっ? あ、ちょっと、あのっ?」
エレーンはあわてて亭主を見た。「お、おじさん?」
亭主は呆気にとられて見ていたが、軽く息をついて、気まずそうに笑った。
「悪い。その人たちと戻ってくれるか。なんだか用があるらしいからさ。後で、ビビと顔だすよ」
「……あ、はい。それじゃあ、後でまた」
さりげなく抗っていたエレーンは、やむなく、ぎこちなく頷いた。
正直言えば心細いが、本人に言われては仕方がない。
夫妻を肩越しに振りむき振りむき、追い出されるようにして部屋を出た。
その何気ない約束が、果たされない、とは思いもせずに。
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