2章3話 3 凶行
あの物音は、おそらく階下、客間がならぶ一角だ。
階段を駆け降り、あわてて飛びこむ。
「──サビーネ!」
月あかりだけが射していた。
母子が滞在する部屋は、がらんと暗く静まっている。
寝台を使った形跡もない。
すぐに飛び出し、左右を見た。
壁にかかった灯りがともる、廊下の先まで、人けがない。
一体どちらへ行けばいい。
じりじり辺りを見まわすが、尋ねようにも人がいない──!
あたりをつけて、右へと走った。
息が切れる。喉が焼ける。なんだって無駄に広いのだ!
前を見据えて走る胸に、じわじわ暗雲が立ちこめる。
……どうしよう。
あたしのせいだ。
エレーンはじりじり、ほぞを噛む。
なぜ、さっさと断らなかった。
なぜ、いつまでも、ぐずぐずしていた! そんな馬鹿げた話に興味はないと。
廊下を見れば、案の定、人っ子一人いない暗がりだった。
なぜ、ケネルには分かったのだ。侵入したのがディールの兵と。
なぜ、あんなことを言ったのだ。
『 今は危ない。外に出るな。すべてが済むまで、部屋にいろ 』
──すべてが、済むまで。
ケネルは初めから知っていたのだ。
だから、自分を足止めした。仕事の邪魔をせぬように。
まだ、何も頼んでないのに。
廊下の先を一心に見据え、エレーンは苦く眉をひそめる。
──同じだ。
あの悲惨な戦の時と。
勝手に事を進めている。自分たちの都合だけで。
声を嗄らして叫んでも、何も聞いてもらえない。
彼らはみるみる増長し、乖離はどんどん加速して、あの彼らは彼らだけで、手の届かないところへ行ってしまう。
どうしよう。
──止められない。
一体、どこで間違えた?
致命的な過ちを、犯してしまったのではあるまいか。
解いてしまったのではあるまいか。あけてはならない封印を。
彼らのあの破壊力は、素人が持つには強すぎる力だ。
取っ手に手をかけ、次々扉を開け放つ。
どこの部屋か分からないなら、片っ端から見てまわるしかない。
夜更けの廊下をしゃにむに走り、五番目の扉を引きあける。
(──いた!)
息を呑んで、硬直した。
あけかけていた扉の陰で、エレーンは愕然と目をみはる。
月あかりの絨毯の床。
がらんと暗い大広間。会食用の大テーブルも、椅子も調度も片づいている。
右の壁に、人影があった。
怯えた様子で抱き合っている。
月あかりの輪郭は、やはり、あのサビーネとクリード。
その向かいに、軍服が三人。
闇の暗がりに、佇んでいた。
思い思いの場所に立ち、壁の母子をながめている。
あけ放たれたテラスから、密やかに夜風が舞いこんだ。
すでに侵入されている。
一番前に立っていた、ひげ面の男が踏み出した。
壁の母子が後ずさるが、もう、すでに後がない。
ひげ面との間には、大人の背丈程度の距離しかない。
品定めするように首を傾げて、ひげ面は軍刀を抜き払う。
ギラリ、と刀身が月光をはじいた。
見据えた視界のすべてを圧して、純白の光が一閃する。
背に、焼けつくような灼熱が走った。
今まで体験したことのない、圧倒的な熱量の。
刹那、視界をよぎったのは、かたく目を閉じたサビーネの顔──?
床に、膝をついていた。
歯を食いしばって目を開ければ、床に転げたサビーネの顔。なぜ、彼女が倒れているのか──。
分厚い絨毯を掻きむしり、どうにか無理やり膝を立てる。
顔をあげ、前を見据えた。
そうだ、まだ、倒れるわけにはいかない。敵は、まだ、
目の前にいる。
「──手ぇ出すんじゃないわよっ!」
遠のく意識を必死でつかみ、ふらつきながらも立ちあがった。
「帰って」
片方の足に重心を預けて、三人は怪訝そうに眺めている。
「この
背にかばった壁の母子が、おどおど見ている気配がした。
こんなことに巻き込まれて、いきなり、こんな目に遭わされて、どれだけ恐い思いをしたか──。
ぬるつく肩を右手でつかみ、引きずるようにして足を踏み出す。
「……簡単に手なんか、出してんじゃないわよ。この
軍服が怯んで目配せする。
「この
「──人の命ってか。ずい分重みが違うものだな」
ひげ面が苦笑いし、軍刀の背で肩を叩く。
「だったら、いいことを教えてやる。──いいか、ねーちゃん、命の値段は、どれも同じじゃねえんだよ。ここで俺らがぶっ殺されても、泣く奴なんざいねえやな」
「あんたが死んだら、あたしが泣くわ! それじゃ駄目なのっ!」
苦笑いしていた三人が、呆気にとられて黙りこむ。
「……帰りなさい」
先頭にいるひげ面を見据えて、ふらつく足を踏み出した。
「帰れって言ってんのよ、聞こえないの──さあ、人がくる前に!」
静かな夜の暗がりに、軍服たちは突っ立っている。
この先の振る舞いを決めかねたような面持ちで。
ふと、ひげ面が顔をあげた。
耳をそばだて、目をすがめる。
仲間に手を振り、肩を返した。
「おう、引くぞ。時間切れだ」
奥のテラス戸を押しあけて、夜闇に身をひるがえす。
後の二人も速やかに続き、最後のその背が、夜闇に消えた。
力が抜け落ち、視界がゆがむ。
「──エレーンさんっ!」
どこかで、サビーネの声がした。
だが、焼けつくように呼気が熱くて、息をつくのも厄介だ。
体中の血液が、ひとつ呼吸をする度に、ごっそり抜け落ちていくような、嫌な感覚に囚われる。
鉛のように手足が重くて、暗く深い地の底に、引きずり込まれるようだった。
右の手には、何かの感触。ぬめぬめとした、嫌な感じの──
「だ、誰か──誰か! 誰か来てえっ!」
か細い悲鳴が、遠くで聞こえた。
閉じゆく世界の真ん中で、アディーが振り向いて、笑った気がした。
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