2章3話 4 消えゆく光
夜闇に沈む領邸の廊下を、ケネルは苛立ちに任せて駆けていた。
用足しに出たまま、彼女が部屋に戻らない。
謀られたことにすぐに気づいて、連れ戻すべく飛び出した。
だが、公邸館内は殊のほか広く、居並ぶ扉を前にして、彼女の居場所が特定できない。
三階の廊下に、人けはない。
異変を察知すべく澄ました耳に、甲高い悲鳴が飛び込んだ。
続いて、半狂乱の女の泣き声──。
手近な階段を駆けおりた。
悲鳴を頼りに廊下を駆け、開いたままの扉に飛びこむ。
「──無事か!」
夜風に、カーテンがゆれていた。
テラスが開け放たれている。
閑散とひと気ない、二階の広間の一室だ。
暗がりの壁に、高価な絵画。右手の壁に、へたりこんだ男児の怯えた顔。
髪の長いドレスの女が、必死で何かに取りついていた。
クレスト公の愛妾サビーネ。
膝をついた血だまりに、何か黒い物体がある。
水気を含んで広がった布地、その先に伸びた白い足に、つま先の上向いた女物の靴──
すぐさま、ケネルは床を蹴った。
泣きじゃくるばかりの妾を押しのけ、横たわった体を抱きおこす。
「──あんた、なんて馬鹿な真似を!」
苛立ち紛れに舌打ちし、彼女に視線を走らせる。
それを認めて、顔をしかめた。
肩から背中へかけての凄まじい裂傷、かなりの深手だ。
腕に抱いたその顔を、苦々しく眺めおろす。
一目でわかった。長くはないと。
もって恐らく二、三時間。運が良くても、夜は越せまい──。
ぐったり
クレスト公の正夫人、監視対象エレーン=クレスト。
夜風にカーテンがひるがえっている。賊の姿は、既にない。
力なくもたれた彼女の服地が、大量の血液を吸いこんでいた。
体の下の絨毯も、すでに黒く変色している。
扉を開け放った廊下から、あわただしい足音が聞こえてきた。
この現場に到着してから、数分も経った頃だろうか。
戸惑い、ざわめき、怒鳴り声、見覚えのある制服から、一団は領邸の護衛と知れる。
「──お、奥方さまっ!」
どやどや一団が雪崩れこむ。
すぐに、その足を押し止めた。
「こ、これは、一体……」
戸口付近で立ち尽くし、愕然と室内を見まわしている。
驚くのも無理はなかった。
広間は見るも無残な惨状で、絨毯の血だまりで倒れているのは、彼らが一番に護衛すべき、この領邸の女
暗がりで、すすり泣く声がした。怯えきった子供の泣き声。
背後の壁際で母子が抱き合い、うずくまっている。
領主の愛妾サビーネと、彼女が産んだ嫡男クリード。
戸口で立ち尽くす一団は、言葉もなく母子を見て、未だ茫然と振りかえる。
彼女をかかえた肩越しに、ケネルはそちらに一瞥をくれた。
「この奥方は、俺がみる。あんたらは
だが、一団はまだ動けぬままだ。
ケネルは苛立ちまぎれに舌打ちする。
「何をしている! 早くしろ!」
はた、と一同、我に返った。
わらわら母子にあわてて駆けより、遅まきながら取り囲む。
一人が声高に指示をだし、一人が手近な扉へ走る。
にわかに広間は騒然とした。
夜の館内に、怒号が飛び交う。
扉という扉は開け放たれ、警戒態勢が即座に敷かれた。
入り乱れた足音が、血塗られた部屋に交錯する。
「……ケネ、ル?」
じっと扉に据えていた視線を、ケネルは腕の中の彼女に戻した。
うっすら彼女は目を開けて、不思議そうに首をかしげている。
すでに虫の息のその顔に、ケネルはゆっくりうなずいてやる。
「大丈夫だ。これくらいなら、死にはしない」
気休め以外の何者でもなかった。
彼女はじれったそうに首を振る。「あ、あの
「あの子たち?」
浅い呼吸に胸を震わせ、彼女はぎこちなく首を動かす。
もどかしげに目をすがめ、伸びあがって首を伸ばし、誰かを捜しているようだ。
血の気の失せた、白い頬を震わせた。「……サビーネと……クリード……」
「無事だ。護衛が保護して連れていった」
ほっと彼女が息をついた。
ぐったり、腕に重みがかかる。
「……そ……よかった、無事で……サビーネ、よかった……」
血でこすれた白い指が、シャツの胸を弱々しく引っ張る。「ケネル……ね、ケネル……」
「喋るな、傷に障る」
だが、すでに意識が混濁しているのか、熱にうなされたうわ言のように、彼女は名を呼び続ける。
「すぐに医者がくる。もう少しだけ辛抱しろ」
言い聞かせ、ケネルは扉の向こうに目を据える。
医師が遅い。
連絡がもたついているのか──
ぐい、と腕を引っ張られた。
顔をゆがめて、肩を起こし、彼女がすがりついている。
「ケネル、あの
必死で仰ぐ蒼白な唇がわなないた。
鬼気迫るその様に、ケネルは面くらって口をつぐむ。
「──わかった。もう喋るな」
尚も起きあがろうとする頭をなだめ、
ひっそり彼女が微笑んだ。
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