3章「運命共同体」
3章1話 見舞い客
消毒薬の匂いがした。
シーツがひんやり、手に冷たい。
顔を横にかたむけて、うつ伏せに寝ているようだった。
柔らかく大きな羽枕。糊のきいた真っ白なシーツ。適度な固さの快適な寝台。
いくえにも重なるレースが見えた。
出所をたどって見あげれば、高い天井の天蓋だ。
採光に配慮し、窓が大きくとられた室内。灯りに照らされたきらびやかな部屋。
このところ、ようやく見慣れた居室だった。今の自分の正式な居場所。
部屋の中には、誰もいない。
どれくらい眠っていたのだろうか。頭がぼんやり、かすんでいる。
背中が焼け付くように痛かった。
包帯できつく固められている──その理由を、思い出した。
「……なんで、あたしばっかり、こんな目に」
枕に顔をこすりつけ、エレーンは唇をかみしめた。
迫りくる白刃の恐怖が、今更ながら背にせまる。
口元を覆う指先が、止めようもなく震えていた。自分はなぜ、こんな恐ろしい場所にいるのだろう。
「……ダド」
すべてを拒絶して目を瞑り、エレーンは凍えた息を吐いた。
壁にかけられた大時計は、十一時をさしている。
微動だにしない黒い二針は、まるで静止しているようだ。
このまま闇に埋もれてしまって、二度と浮かび上がれなくなるのではないか、朝など、もう、こないんじゃないか、そんな風に勘ぐってしまう。
カーテンの裾が、夜風になびいた。窓はずっと、開けてある。
「助けて、ダド──」
なぜ、彼がいないのだろう。
ここにいるべき、あの彼が。
あの屈託のない笑みが蘇り、みるみる涙が込みあげる。
こんな部屋は場違いだ。
この部屋は広すぎる。こんなちっぽけな身の上には。
薄闇に置かれた名匠手になる装飾品が、夜のしじまに銀光を放つ。
高い天井から吊られた照明。
豪華なつくりの硝子灯。誰もがうらやむ豪華な部屋だ。
だが、ここには、パーティーが終った後のような、白々とした寂寥感があるだけだ。
装飾が華美であるほどに、室内の照明が明るいほどに"誰もいない"現実を、殊更に思い知らされる。
「……帰り、たい」
噛みしめた奥歯から、弱音がこぼれた。
この忌まわしい呪縛を断ち切りたかった。
故郷の商都に帰りたかった。
喧嘩しては笑いあった気心しれた仲間の元に。ラトキエ邸の狭い寮に。
住み慣れた部屋にいるならば、少しは心も休まったろうに。こんな怪我をしていても。
けれど、ここには誰もいない。
心許せる友など、誰ひとり。
海鳴りが、聞こえていた。
海風が遠く鳴っている。
風がたえず窓枠をゆすり、闇が重くのしかかる。
領民の存在がひどく重くて、妾への羨望が絡みついて、もがいても、もがいても、身動きがとれない。
ここは色々なことがありすぎて、自分を保っていられない。
これまでつちかった価値観が、いともあっけなく壊れていく。せめて、あの時──
そう、せめて信じたい。
あの時、痛みと共に打ち砕かれたのは、己のやましい邪心だったと。
音が、した。
等間隔の。
あれは扉をたたく音?
誰かが扉をノックしている──。
はっ、とエレーンは目元をぬぐった。
あわてて戸口を振りかえる。
パタン、と扉がひらかれた。
面くらい、薄暗い廊下に目を凝らす。
今時分、誰だろう。
世話をしている老執事だろうか。いや、執事であれば、部屋に入る際、ノックなどしない。
暗がりにたたずむ相手を認め、あわてて夜着を掻き合わせた。
「──なっ、な、なによ、あんた!」
助けを求め、とっさに男の背後を見る。
だが、案内役の執事がいない。
階下で見張っていた護衛もいない。ならば、勝手に入ってきたのか?
つまり、その目的は……
(よ、夜這い……?)
ごくり、とエレーンは唾を飲む。
思わぬ相手が、そこにいた。
さらりと長い薄茶色の髪、三白眼気味の冷ややかな双眸、整った細面と、しなやかな痩身。
もしや、ケネルから事情を聞いて、あの時の仕返しにやってきたのか?
あの街道で、ぶったから。
そうだ。あの時、奴はものすごく怒っていた。
(……どうしよう)
動けない。
背中の怪我で、身動きがとれない。
寝台に這いつくばったまま、手近な枕にしがみつく。
「お、お、女男! あんたね、いったい何時だと思って──!」
「ファレス」
ぶっきらぼうに訂正し、長髪が部屋に踏みこんだ。
「俺の名前は"女男"じゃねえ。──たく、失敬なアマだな。わざわざ出向いてやったってのに」
敵兵を爆死させて平然としていた、あの悪魔のような冷血漢だ。
ズボンの隠しに手を突っこみ、値踏みするよう視線を巡らせ、足を投げ出すようにして歩いてくる。
広くきらびやかな居室を前に、特に臆した風もない。
長髪は入室の許可も求めず、足を止める様子さえない。
女性ひとりの寝所というのに、頓着するふうもない。
当然のごとき足どりで、ずかずか中に踏みこんでくる。
エレーンは気圧され、広い天蓋の寝台を、あたふた隅まで後ずさった。「な、な、なんの用よっ!」
「泣きべそかいてんじゃねえかと思ってよ」
「──だ、誰がっ!」
顎先でさされて、エレーンはあわてて頬をぬぐう。
長髪が怪訝そうに覗きこんだ。「なんだ。本当に泣いてたか」
「──な、な、泣いてなんかっ!」
「いい様だな」
むっ、とエレーンはねめつけた。
長髪は冷やかに眺めおろす。
「まったく、馬鹿な真似をしたもんだ」
「なによ。冷やかしに来たわけ? あたしのこと」
「だから言ってんだろ、見舞いだって」
「──その図々しい態度の、どこが見舞いよ!」
この長髪、めったに見ないほどの美丈夫だが、中身はつくづく最悪だ。
長髪が拍子抜けしたような顔をした。
「たく。脅かしやがって。大したこた、ねえじゃねえかよ」
「これだって、そうとう痛いわよっ!」
「それだけ喋れりゃ上等だ」
どこか確認するような口ぶりで言い、呆れた顔で視線をよこした。
「重傷だったら、そんなもんじゃ済まねえよ。口もきけずにうなっているか、気絶したまま目ぇ覚まさねえか。いずれにせよ、そんなにくっ喋ってて平気でいられるわけがねえだろ」
エレーンは不審もあらわにねめつけた。
「あんたも知ってたの? 今日のこと」
「いいや」
片足に重心を預けて腕をくみ、長髪はつくづくというようにながめやった。
「どうした。あの小生意気な面はどこへ行った。まあ、びびっちまうのも無理ねえか。軍刀で斬られるなんざ、さすがに初めてだろうしな」
「あ、当たり前でしょ!」
エレーンはわなないて言い返し、枕を強く抱きしめた。
その指が細かく震える。
白刃きらめくあの恐怖が背に迫り、かたくかたく目をつぶる。
不意に、枕元が大きく沈んだ。
肩を震わせて顔をあげ、一拍遅れて理由を知る。
寝台の端に、長髪が腰をかけている。
見舞いと言いつつ、なんたる無礼。無作法にもほどがある。
だが、今は正直、それどころではない。
抱きしめた枕に、エレーンは顔をすりつける。
こみあげた弱音が、思わずこぼれた。
「……こ、恐かった」
「だろうな。よく生きてたもんだ。あんた、運がいい」
あっさり、長髪は相槌をうつ。
エレーンは怪訝に盗み見た。
意外だった。嫌みの一つも言わないとは。この野蛮で口の悪い冷血漢が。
天井の暗がりを背景に、白く端整な顔があった。
寝台の枕元に手をついて、長髪は無造作に眺めている。
おろしたままの長い髪が、肩から滑り落ちていた。静かだ。とても。
あの恐ろしい事件が嘘のように──。
たまらずエレーンは瞼を閉じた。
「……で、でも、信じられない」
無言の視線で、長髪は促す。
「ケネルが、あんなこと、するなんて」
「──大方そんなこったろうと思ったぜ」
長髪が辟易としたように顔をしかめた。
「奴は、何も知らねえよ」
唖然と、エレーンは長髪を見る。「……ケネルは、知らない?」
「もっとも、妙な気配があることくらいは、察していたかも知れねえが」
但し書きを付け足して、長髪は真顔で目を据えた。
「奴の名誉のためにも言っておく。あれは奴の差し金じゃない。あの連中がぼたされて、勝手に行動を起こしたんだ」
唖然とエレーンは絶句した。
ケネルの指示というならまだしも、屋敷に押し入った三人とは、口もろくにきいたことはないのに。
「知ってるか。奴がなぜ、協力する気になったのか。どうして、この話を受けたのか」
「ど、どうしてって──」
エレーンは詰まり、口ごもった。
知るわけがない。
ケネルは元々知り合いではなく、日頃の態度も友好的とは言いがたい。むしろ、怒ってばかりいる。
あの無愛想な仏頂面は、いっそ"迷惑そうだ"と形容した方が早かろう。
大して興味もなさそうに、長髪は軽く肩をすくめた。
「あんた、気づきもしなかったろう。あの時、通りかかった俺たちに」
エレーンは頬をこわばらせた。
ちくり、と胸に、鋭いトゲが引っかかった。
長髪はじっと、冷ややかに目を据えている。
「泣いてたろ。あいつらを見て」
とっさに、エレーンは目をそらした。
「か、関係ないでしょ、あんたには!」
心当たりがあった。
の日の、別宅の裏庭──妾宅に忍んで行ったダドリーを、光の庭で見つけたあの時。
蚊帳の外の鉄格子の向こうで、みじめに彼らを見つめていた──
「そっ、そんなことより、なんで知ってんのよ、あたしのことなんか」
「あァ? なんで知ってるか、だ?」
長髪は白けたようにすがめ見た。
「自覚がねえのか? あんたは今や、クレスト領家の奥方だ。そのあんたの顔なんざ、街中の者が知ってるだろうぜ。そりゃ、評判にもなるだろうぜ。庶民のメイドを正妻に据えたってんだから」
「……そ、そう」
エレーンはばつ悪い思いでうつむいた。
メイドあがり──事あるごとに投げつけられた揶揄だ。事実だが。
「鉄格子を握って、めそめそしてたろ。親に見捨てられたガキみてえに、庭ん中を見つめてよ。俺らにも気がつかねえくらい熱心に」
エレーンは顔を強張らせた。
心が未知の害意を警戒する。
「何を見ているのかと思いきや、中にいたのは当主と妾、それに妾が産んだガキ。それで、ほっとけなかったんだろ。ケネルは女に甘いからな。まあ、上の意向を無視するなんざ、滅多なことじゃねえんだが」
「……同情?」
ふと、エレーンは顔をあげる。
「ああ」
きっぱり長髪は肯定した。
誤魔化しもしなければ、取りつくろいもしない。
エレーンは唇を噛んで、くすりと笑った。
「……同情、してくれたんだ、あたしに」
「みじめか?」
間髪容れずに、長髪は尋ねる。
エレーンは眉をひそめて目をそらした。なんて不躾な男なのだ。
だが、なぜだろう。
それでも不思議と、素直になれる。そう、彼はすべてを知っている。
とりつくろうのも今更か、と小さく息をはきだして、ゆるりと首を横に振る。
「同情が、こんなにありがたいものだなんて、あたし、今まで知らなかった。今は、差し伸べてくれるなら、どんな手だって嬉しいもの」
「──たく。どこまで馬鹿正直なんだか」
エレーンは面食らって、相手を見た。
長髪はいぶかしげに見つめている。なにか珍しい物でも見るように。
「あんたはここの領主じゃない。右も左も分からねえ、嫁いだばかりの新米だ。街の連中に付き合って、律儀に玉砕しなくても、故郷の商都に避難すりゃ、それで済んだ話だろ。どうせ、あんたの働きになんざ、誰も期待しちゃいねえんだからよ。もっとも今は、ディールが商都を囲んでて、そう簡単には入れねえがな」
エレーンは愕然と目をみはった。
「……そっか」
思わず、苦い笑いが浮かぶ。
「そっか。その手があったんだ。あたし、思いつきもしなかった」
顔を歪めて、くすくす笑う。
そう、それで良かったんだ。奥方さまの身の振り方は。
それこそが、望んだことではなかったか。
誰も手出しできない安全な場所に避難して、ひたすら隠れ、ひたすら、じっと息を潜める。この騒動が収まるまで。
安全な場所、安全な時間。
手にあまる厄介事が、無事、頭上を通過するまで。
「──逃げられるわけが、ないじゃない」
目の前の枕を凝視して、エレーンは声を押し殺した。
「あたしは、ここの人達のこと、ダドリーから任されているのよ」
領家の人間が逃げたりしたら、残された領民はどうなるのだ。
長髪は呆れた顔をした。
「たくましいな。恐くねえのか。のこのこ前線に出てきた時にも、そりゃあ度肝を抜かれたけどよ」
柳眉をひそめ、まじまじと顔を見つめてくる。
「あんた、本当にわかっているか。運が悪けりゃ、ここで死ぬかも知れないぜ」
びくり、と肩が震えあがった。
「じょ、冗談じゃないわよ! なんで、あたしが死ななくちゃなんないわけ? なんにも悪いことしてないのに!」
エレーンはうろたえ、抗議する。
「あ、あたしはただ、お嫁にきただけなのに──こいって言うから、くっついて──ダドにくっついて来ただけなのに──」
あの光景が脳裏をかすめた。
一瞬にして立ち昇る炎。
逃げ場を探して右往左往する黒い影。
喧騒にまぎれた苦しげな悲鳴──あの時焼かれた人達は、さぞ熱かったことだろう。さぞ苦しかったことだろう。
即死というなら話はまだしも、炎に体を取り巻かれ、延々全身を焼かれたら、それこそ地獄の苦しみだ。
そう、生きながらにして焼かれた人間を見たのは、遠い昔の話じゃない。
もしも、あの光景が、わが身に降りかかったら──いや、はたして対岸の火事だろうか。
自分は領家に属する者だ。
ディールの兵に捕まれば、何をされるかわからない。
カレリアは平和な国で、前例がないから確かなことは知らないが、勝利した側の敵対者は、ひどい目にあわされるのではないか?
公衆の面前に引き出され、処刑されたりするのではないか?
その時、その場に引き出されるのは、他でもない
──自分ではないのか?
頭の後ろに、重みがかかった。
びくり、と肩がはねあがる。
長髪だった。
長髪が頭をなでている。
手を伸ばし、ぽんぽん、とぞんざいに。少し面倒くさそうに。
小さな子供をなだめるように。
無断で頭に触るなど、やはり、こいつは無礼な奴だ。けれど──。
両手で枕にしがみ付き、エレーンはそのまま泣きじゃくった。
意外にも大きな重たいこの手が、思いもよらず安心できた。
今まで、ちっとも知らなかった。
よく知りもしない他人の手が、こうも温かいものだとは。
胸のどす黒い諸々が、ゆるやかにほどけて、溶けていく。
この手で戦を起こした後悔
。失われた多くの人命。すぐそこにある死への恐怖。夫の愛妾への断ち切れぬ嫉妬──。
ふと、エレーンは顔をあげた。
「──ねえ」
長髪が手を止め、いぶかしげに目を向ける。とっさに、その腕にすがりついた。
「あ、あのね。もしも──もしもの話よ?」
長髪は促さなかった。
表情ひとつ変えるでもなく、無言で先を待っている。
「もしも、あの時頼んだら──あたしがケネルに頼んでいたら」
エレーンはためらい、目をそらす。
声の語尾がわずかに震える。
ためらいを振り切り、目を戻した。
「そうしたら本当に、その、──斬っていた、と思う?」
サビーネ達を──とは言えなかった。
「だろうな、あいつなら」
いともあっさり、長髪は応えた。
事情は了解しているらしく、そつなく不足を汲みとって。
「それも仕事の範疇だ」
エレーンは動揺して目をそらす。
「だが、あんたは頼んでねえだろうが」
ぶっきらぼうに、長髪は言った。
エレーンは唇を噛みしめ、首を振る。「──でも、あたしは、」
問題は、そこではない。
「だって、あたしは断らなかった。ケネルに断りもしなかったもん……」
そっちだ。
涙が頬を伝い落ち、白いシーツに染みを作った。
あれは本来、単なる冗談で終わった話だ。
そんな話はさっさと断り、釘の一つも刺しておけば、何事もなく済んだ話だ。
それを現実になるまで放置したのは、他でもない、この自分だ。
エレーンはかぶりを振って、つっ伏した。
「いなくなればいいと思ったの! 死んじゃえばいいって思ったの! サビーネは何も悪くないのに、自分の勝手な都合だけで! あたし──あたし、最低だわ!」
強く枕にしがみ付いた。
自責の海で溺れかけ、すがれる物は、それしかない。
頭のうしろに、押さえつけるような重みを感じた。
長髪が頭をなでていた。
無造作に。少し面倒くさそうに。
あの無慈悲な冷血漢が。
優しい言葉をかけるでもなく、慰めの言葉を口にするでもない。
それでも、ぶっきらぼうな温もりが、今は何より嬉しかった。
横顔は少しうとましそうだが、それでも去らずにいてくれる。そばにいてくれる存在に、心の底から安堵できる。
すがれるものが、二つになった。
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