2章3話 2 夜更けの来訪者
テラスの暗がりで、カーテンがゆれた。
さわりと夜風が、窓から吹きこむ。
扉の横で腕をくみ、彼は壁で押し黙っている。
長椅子の端に腰をかけ、エレーンはそわそわ盗み見る。
(……ど、ど、どういうつもりよ、こんな夜更けに)
部屋で夕食をとり終えて、長椅子に移って少しした頃、突然、彼がやってきたのだ。
── 黒い髪の、傭兵ケネルが。
読みかけの本をあわてて閉じ、何の用かと身構えたが、彼は何を話すでもなく、あの壁に居座ってしまった。
以来、じっと動かない。
だが、用がないなら、どうして、わざわざ──
はた、と気づいて、おろおろ見まわす。
もしや、自分に会いにきた?
だって、気づけば二人きり。
そもそも、夜更けに訪ねた理由わけなど アレ 一つしかないではないか。
── 夜這い。
そう、思えば、予兆はあった。
だって、ケネルはあの時も……
顔をゆがめて「……うっ」と硬直、かあっとのぼせて、赤面でうつむく。
(きっ、きっ、キスされるかと、思ったじゃないのよ……)
夕陽を浴びた街道の、間近に迫った彼の顔──。
気持ちが妙に浮わついて、そわそわ、もじもじ、指をいじくる。
(そっ、そういうの、平気なのかな、ケネルって……)
腰を浮かせて、背もたれをつかみ、壁の彼を盗み見る。
好意を寄せられて、悪い気はしない。なにせケネルは見た目もいいし、むしろ好みどんぴしゃり。
初めて彼を見た時なんか、ビビッと何かが走ったくらいだ。
でも、あたしにはダドリーが……
はた、と気づいて、首を振った。
(──いや! そもそも、あれは違うからっ!)
そう、あの後ケネルから、とんでもない話を持ちかけられたではないか。
『 あの女とガキ、始末してやろうか 』
灯火が闇でゆらめいた。
飴色にかがやく大時計が、コチコチ時を刻んでいる。
当のケネルが、そこにいる。話を持ちかけた傭兵が。
『 あの女とガキ、始末してやろうか 』
あのサビーネと、クリードを。
このところの波風の、記憶の糸を思わずたぐり、エレーンは苦々しく眉をひそめる。
(──あんなもの、見なけりゃよかった)
午後の陽につつまれた、緑あふれる昼さがりの庭。
美しい母親、いとけない男児、そして、二人を見やったダドリーの笑み。
緑あふれる光の庭が、悪夢のように渦巻いた。
あの彼の見知らぬ一面。あのダドリーの、父親としての顔──。
心がざわざわ、落ち着かない。
ただ、一言、告げればいいのだ。
あの彼に、一言 「頼む」と。
それで、すべてが手に入る。渇望していた望みのすべてが。
いかにも、サビーネが邪魔だった。
あの時ケネルに言われた通りに。
あの母子さえいなければ、夫のダドリーと二人きり、幸せな家庭を築くことができたのに。
都会暮らしを捨ててまで、辺鄙な地方に嫁いできたのも、幸福な見返りがあればこそ。
味方が誰一人いなくても、それなら、がんばれる自信もある。
── あの親子さえ、いなければ。
だって、そんなの、おかしいではないか。
正式な妻のこの自分が、なぜ、蚊帳の外なのか。
なぜ、そんな惨めな境遇に、妾なんかの次の位に甘んじなければならないのか。
なぜ、自分が諦めねばならない?
夫と子らと幸せに暮らす、至極ふつうの慎ましい夢を。
それに引きかえ、あの女はどうだ。
仕える主が不在と知るや、別の男と浮気して。
壁の暗がりで腕をくむ、傭兵の様子が気にかかる。
罪だろうか、望むのは。
── あの女さえ、いなければ、と。
ふと、エレーンは目をあげた。
どこか遠くで、何かの物音……?
椅子を引きずるような音。
そして、物が倒れるような。誰かが階下を駆けている──?
いや、領邸の上階は、当主の家族の居住階。
今は主が不在だから、人の出入りも皆無だし、基本的には客もない。
階段下の守衛を残して、夜間は使用人も引きあげる。
いるとすれば、サビーネたちだが、あの大人しいサビーネが、部屋で騒ぐとも思えない。
壁から、ケネルが背を起こした。
出口に歩いて、扉をあけ、廊下の先をうかがっている。
戸を閉め、部屋を突っ切って、奥の腰窓のカーテンから、外の様子をながめている。
「な、なに? ケネル。どうかした?」
「別に」
「──でも、変な音がして。この屋敷の上の階には、人はいないはずなんだけど」
「ディールの兵が入りこんだらしい」
「──え?」
面食らって見返した。
ケネルが窓から目を向ける。
「今は危ない。外に出るな。すべてが済むまで、部屋にいろ。いいな」
「……う、うん」
けれど、やはり、気にかかる。
ケネルを見れば、目を閉じてしまっている。すべての問いを拒むように。そして、耳を澄ますように。
窓辺で腕を組んだきり、帰るでもなければ、話すでもない。
喩えは悪いが、見張られてでもいるような──
はっとして、顔をあげた。
狼狽して椅子を立ち、出口の扉に、とっさに駆け寄る。
「どこへ行く」
間髪いれずに、ケネルが動いた。
息を飲んで、唇をかみ、エレーンはしどもど振りかえる。「……あ、あの、ちょっと」
「あんたは、本当に落ち着きがないな」
窓辺を離れて、ケネルが踏み出す。
「言ったばかりだろう、外に出るなと」
見据えた瞳が、その足が近づく。
手は取っ手にかけたまま、エレーンは唾を飲みこんだ。
強行しても、たぶん無駄。
ケネルに勝てるわけがない。取り押さえられたら、一巻の終わりだ。
嫌な緊張を密かにはらんで、徐々に空気が張りつめる──。
「まっ! 野暮なこと訊かないでよ!」
ケネルがいぶかしげに足を止めた。
「んもー。ケネルってば無神経。そんなこと、女性に言わせる気ぃ?」
怪訝そうにしかめた顔が、ふと気づいて、目をそらす。
「──あ、ああ。すまん」
ケネルの気まずげな横顔をしり目に、そろりと暗い廊下に出た。
思い立って、扉を覗く。
「……あー、ケネル?」
ケネルは舌打ち、わずらわしげに片手を振る。
「──なんだ。さっさと行ってこい」
「覗きに来んじゃないわよ?」
「──誰が行くかっ!」
ばたん──! と扉で怒声をさえぎり、エレーンは廊下を駆け出した。
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