3章16話 通りすがり

 硬い地面が、視界に迫った。


 まっさかさまに転落していた。

 すがれる物は何もない。


(──もう、だめっ!)


 もはやこれまで、と覚悟した。


 エレーンは固く目をつぶる。


 間をおかず、顔が叩きつけられた。

 続いて、右肩、脇腹に衝撃。


 背中の傷に激痛が走り、体が強張り、息が止まる。──いや、何か様子がおかしい。

 高所から落下して、この程度の痛みで済むだろうか。


 エレーンは全身に意識を凝らす。

 爪先が、宙に浮いていた。

 何かに顔を押しつけられている。

 おそるおそる目をあける。

 

 目の前に、何かがあった。


 誰かの肩だ、と認識するのに少しかかる。


 しっかりと抱きかかえられていた。

 硬い腕、襟から覗くなめらかな首筋。厚みのある人のぬくもり──。


「──どうも俺は、上から降ってくるものを見ると」


 男の声が、辟易としたようにつぶやいた。

 浮いた体が大きくゆれて、硬い地面に爪先がつく。


「……あ、あの」


 その腕にすがりついて地面に降り立ち、エレーンはあわてて振り仰いだ。

 だが、相手の顔が判然としない。


 視界が霞んでいる上に、夕陽の逆光になっている。

 辛うじて分かるのは、相手が長身の男性で、旅装のマント《サージェ》をまとっている、ということだ。

 目深に被ったフードの端から、髪が一房こぼれ落ちている。

 あまり見かけない銀灰色の──


「いい演説だった、オカッパ」

「……え?」


 返事につまり、エレーンは内心うろたえた。

 誰だろう、この人は。

 いや、まるで知らない人のはずだ。

 なのに、なぜ「オカッパ」などと呼んだのか。


 このあだ名には覚えがあった。

 婚礼で結いあげるため、今は髪を伸ばしているが、商都でメイドをしていた頃は、髪を肩で切りそろえていた。

 だから、そう呼ぶ人も確かにいたが──。


 ともあれ、今は、詮索をしている場合じゃない。

 ぺこり、と男に頭をさげた。


「あ、ありがと。あなたのお陰で助かったわ」


 目線の先で"それ"を見つけて、あわてて労わりの笑顔を作る。

「あ、あなたもがんばってくれたんだ」


 この戦の参加者らしい。

 旅装の前立てから、長刀らしき鞘が垣間見える。


「あ、体の方は大丈夫? どこも怪我とかしていない? 今日は、本当にお疲れさまで──」

「ここで、クレストに消えられては困る」


 え? と面食らって口をつぐんだ。


 男は構わず肩を返す。

 旅装 サージェ の長い裾がひるがえった。


「え?──あ、あの? ちょっと待って!」


 あわてて男を呼び止めた。

 だが、旅装の男は足も止めない。


「まだ、お礼もしてないし──あの──」


 立ち去るその背を、なすすべもなく見送る。

 エレーンは呆然と立ち尽くした。


 胸に不思議な思いが込みあげる。

「なんで、あの人、あたしのあだ名なんか──」


「クロイツ?」


 男の声がどこかでした。

 

 切迫した声色だ。

 振り向けば、人だかりを掻きわける者がいる。


「と、通してくれ! クロイツ──クロイツっ!」


 思わぬ顔をそこに見つけて、え? とエレーンはまたたいた。


「……セヴィランさん?」


 せっぱつまった様子でやってきたのは、あの宿の主だった。

 協力要請をあっさり拒まれ、街で途方に暮れていたあの時、統領代理と引き合わせてくれた。

 そういえば顔を見なかったが。


 あの男と知り合いなのか、亭主は後を追いかけて、しきりに彼を呼び止めている。

 だが、その声が聞こえているであろう旅装の男は、振り向きもしなければ、足も止めない。


 前からやってきた衣装の一座に、旅装の背がまぎれこむ。

 落下騒ぎが落着し、街路は再び、穏やかなざわめきに戻っている。


 フードをかぶった旅装のその背は、やがて夕陽の赤に溶けこみ、町角の向こうに消えていった。

 

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