2章2話 3 血塗られた手
鼓動が速い。
唇が震える。
何が──何が起きたのだ?
話し声が、遠く聞こえた。
視界には、炎に焼かれ、悶え、のたうち、苦しむ人影。
轟音が聞こえた。
地獄絵図のような光景だった。だが、無感慨に眺める彼らには、動揺のかけらも見当たらない。
その冷徹な横顔は、こちらの常識を超えていた。
こんな人たちは、見たことがない。多数の兵を手にかけた、あの長髪も同様だ。
「……そ、んな」
愕然と、エレーンは立ちつくした。
膝は震え、頭の中は真っ白だ。
わずかにも指を動かせば、叫び出してしまいそうだ。
朦朧とした意識の中で、音の全てがざわめきと化し、周囲でかわされる言葉の意味が、虚ろな体を素通りする。
耳に、誰かの濁声が飛びこんだ。
「──しかし、三百を一度に消し去るとはな」
声は、蓬髪の男だ。
長髪に話しかけている。
戦禍に目をやったまま、事もなげに長髪は言う。
「どうでもいいような雑魚どもだが、あんな
「なんてことするのっ!」
「──痛って」
長髪が顔をしかめて頬をさすった。
周囲が弾かれたように振りかえる。
平手を張られた長髪が、剣呑に顔を見おろした。
「何しやがる! このアマ!」
ぐっ、と胸倉をつかまれた。
強い力で吊るしあげられ、エレーンは顔をゆがめて爪先立った。
喉がのけぞって息苦しい。だが、負けじと長髪をねめつける。
「わかっているの? 自分が今、何をしたのか」
「あァ?」
長髪はうるさそうに舌打ちする。
「あんたは人を殺したのよ! 生きてる人に火を点けたのよ!」
そう、そうなのだ。
思考が、ようやく現実に追いつく。多くの命が、たった今、断たれた──。
「それが、どうした!」
喉元の拳を両手でつかんで、エレーンは顔を振りあげた。
「人が死ぬのがどういうことか、あんた、ちっともわかってない! どんなに泣いてわめいても、二度と戻ってこないのよ!」
「──何を勘違いしていやがんだ」
長髪が舌打ちで突き離した。
投げ出された地面で、エレーンは咳きこむ。長髪の腕をかたわらのケネルがつかんでいるから、どうやら制止されたらしい。
長髪が苦々しげに一瞥をくれた。
「てめえが言ったんだろうが。"戦え"と」
鋭くエレーンは息をのむ。
爆風巻きおこる街道の向かいを、長髪は顎の先でさす。
「戦うってのは、ああいうことだ」
「──ち、違う──違うっ! あたし、あんなこと頼んでない! 殺してなんて言ってない! 」
首を強く横に振り、目をみはって長髪を見つめた。
「だって、あの人達にだって家族がいたのよ? 家で待っている家族がいたの!」
「──知ったことかよ」
「人でなし! あんなの卑怯よ! いくら戦争だからって、あんな不意打ち許されない。やっていいことと悪いことが──」
「きれい事ぬかしてんじゃねえよ、ねえちゃん」
ぞっとするほど冷ややかな目で、あの長髪が見おろした。
「こっちはこんな劣勢で、軍隊相手に楯突こうってんだぞ。卑怯? 人でなし? 結構だね! 中には、使えねえ素人しかいねえってのに、形振り構ってられっかよ」
「殺さないで!」
とっさにエレーンは足にすがった。
「あの人達を殺さないで! もう誰も殺さないで! なにも殺さなくたっていいはずよ。捕まえれば済むことじゃない。──ね、お願い。殺さないで!」
必死に言い募るその脳裏で、一つの想いが渦まいた。
(……あたしの、せい?)
これは、全部、自分のせい?
自分が彼らを殺めてしまった?
この人達に頼んだから?
(──どうしよう)
鼓動が苦しいほどに速かった。
動転した胸中で、誤魔化しようのない自覚がせりあがる。
──取り返しのつかないことを、した。
ほんの一瞬、長髪の顔に戸惑いがよぎった。
口をつぐんで眉をひそめ、ばつが悪そうに目をそらす。
「──こっちの何十倍の敵だと思っていやがる。甘ったれたこと、ほざいてんじゃねえよ。向こうは
鬱陶しげな横顔には、忌々しさが入り混じっている。
はっ、としてエレーンは息をのんだ。
けんもほろろなこれまでの勢いが削がれたような。あの無慈悲な長髪が、
── 気圧されている?
かすかな光明に、飛びついた。
「なんでもするっ! ねっ、あたし、なんでもするから! みんなをここで応援する! あんたのことを、みんなのことを、あたしがここで支えるから! だから──」
「いい加減にしろ」
長髪にすがりついた手首をつかまれ、腕を後ろに強く引かれた。
はっ、とエレーンは振りかえる。
「これは戦だ。敵を殺らなきゃ、こっちが殺られる」
見下ろすケネルに、あわてて首を横に振った。「で、でも違う。あたしが頼んだのは、あんな──」
「戦になれば、人は死ぬ。当たり前の話だ。あんたも啖呵を切って戦端を開いたんなら、少しは心得ておくことだ」
にべもなく言い捨てて、ケネルは先の沿道を見る。
「おい! 何をしている。さっさと屋敷に連れていけ」
呆気にとられて見ていた二人が、我に返って駆けてきた。
エレーンはあわててケネルにすがる。「で、でも違う! あたしはあんな──!」
「邪魔臭いから引っこんでいろ。それと、そこの執事!」
「──は、はいぃっ!」
ケネルが睨んだ茂みから、何かが弾かれたように飛び出した。
ご機嫌伺いのへらへら揉み手で、そろりそろりと寄ってくる。
「……お、お呼びで?」
こっそり茂みに隠れていたのは、件の世話係の老執事だった。
ケネルがぎろりと目を向けた。
「こいつをしっかり見張っておけ。部屋から二度と外に出すな。うるさくてかなわん」
「ケネル!」
たまりかねて、エレーンは叫んだ。
だが、ケネルは目もくれない。
つかまれた腕を振り解こうにも、力が強くて動けない。
ケネルに指名された先の二人が、素早く両側から腕をとった。
「さ、奥方様。参りましょう」
あわてて暴れるも、振りほどくことはできなかった。
みるみる遠ざかる視界の先で、街道にたむろす彼らが、苦笑いして動き出したのが見えた。
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