1章5話 交渉決裂
「心はお決まりになりましたかな」
再訪したディールの使者は、いそいそ上機嫌で覗きこんだ。
「もはや一刻の猶予もございませんのでな。本日は、しかとお返事いただきたく」
相手が承諾することを、露ほども疑わない顔つきだ。
「さあ、どうなさいました。色良いご返答を頂けるのでしょう」
エレーンは顔をしかめて唇を噛み、自分の膝に目を落とした。
指の震えが止まらない。
ドレスの膝を握りしめているのは、なんの変哲もない見慣れた手。
まったく悪い冗談だった。
こんな小さな自分のこの手が、領家の命運を握っているというのだ。
幾千幾万もの領民たちの運命を。
それぞれが築く未来のすべてを。ほんのついこの前まで、領邸の使用人をしていたこの手が。
──逃げたい。
壮絶な恐怖が込みあげた。
こんな場からはすぐにも逃げ出し、誰も自分を知らない所で、無関係な顔を決めこみたい。
自分は
領邸で寝起きはしていても、中身は
英気が。器量が。才腕が。
決断なんか、できるわけがない。
何も知らない領民を、売り渡すことなど、断じてできない。
けれど、要請を蹴ったりしたら、切り捨てられたダドリーはどうなる?
暗い牢獄につながれて、背中を鞭で打たれるかもしれない。
二度と外には出られないかもしれない。悪くすれば死ぬかもしれない。
遠いトラビアの獄中で、誰にも看取られることもなく──。
椅子にもたれて聞いていた彼の姿が脳裏をよぎり、はっ、とエレーンは息を呑んだ。
そう、こんな午後だった。
あの時も。
西日を浴びた書斎の机。ラトキエへの援軍を促し、彼に詰め寄ったあの午後の──
「さあ、奥方様。ご返答を」
「……お引き取りを」
使者が、いぶかしげに動きを止めた。
「いや、申し訳ない。よく聞こえなかったのですがね」
膝に置いた手のひらを強く強く握りしめ、エレーンは顔を振りあげた。
「領主不在のこの折に、私の一存で兵を動かすことはできません。お引き取りを」
珍しいものでも見るように、まじまじと使者は見た。
その顔に戸惑いがにじむ。
「ほう。
エレーンは無言で睨めつけた。
断じて、ここで屈してはならない。
「──強情な方だ」
使者は忌々しげに顔をゆがめ、乗り出した背を椅子に投げた。
「そうですか。それは誠に残念だ。ご当主様はこちらには、二度とお戻りにならぬやも知れませんな。まったく民も災難ですな。主に見捨てられようとは!」
人さし指で、苛立たしげに卓を叩く。
「本当に宜しいのですな。この
「──で、ですから、それは!」
さすがにエレーンは口ごもった。
それを持ち出されてしまっては、うなずけるはずがない。
「そうですか! ならば──」
使者が痺れを切らして席を立った。
憎々しげに吐き捨てる。
「ならば、首を洗って待っているがいい」
靴の
「──ちょっと、あんた待ちなさいよ」
立ち去りかけた足を止め、使者が肩越しに振り向いた。
エレーンはゆっくり席を立つ。
「あたしの夫に妙な真似をしてみなさい。あんた、ただじゃ済まさないわよ」
使者が鼻じらんだように眉をひそめた。
取りつくろうように鼻を鳴らして、そそくさ扉に歩み寄る。
重厚な扉が叩き付けられ、すさまじい音が客間に響いた。
窓で、
がらんと白けた空間に、静寂が重く淀んでいる。
鳥が鳴き、誰かの声が風で届く。まだ、指先が震えている──。
エレーンはへなへな、椅子の座面にへたりこんだ。
まだ、胸が高鳴っている。
まだ、頭が
追いつめられたあの時に、あの日の書斎が去来した。
西日を浴びた書斎の机。ラトキエへの援軍を促し、彼に詰め寄ったあの日の午後。あくまで懇願を突っぱねた、ダドリーの、あのかたくなな顔が。
ふと、それについて考えた。
交渉の席についたのが、ダドリー=クレストだったなら。
彼の代理を務める者の、交渉の席に就く者の、唯一にして重大なる役目、それは彼の意向を
たとえ、それが彼を窮地に追いこもうとも。
鋭く、胸に痛みが走った。
癖っ毛のあの彼の、屈託のない笑みがよみがえり、とっさにきつく瞼を閉じる。
浅く息をついてやり過ごし、室内に視線をめぐらせた。
少し
がらんと静まった広間の片隅、上半分が陰になった「それ」が、白壁に掲げられている。
金の房で縁取られた旗が、ひっそり西日を浴びていた。
その旗章は「天に昇る竜」ここクレスト領家が掲げる家紋だ。
ゆっくりと席を立ち、エレーンは旗に歩み寄る。
あの使者が言うように、自分は確かに何も知らない。こうした場の身の振り方や、まして貴族のしきたりや駆け引きも知らない無力な庶民だ
だが、だからといって、諾々として受け入れていいのか。
あの旗を引き降ろされ、他領に領土を
ダドリーが治領に帰ったその時、ディールの旗章がひるがえっていていいのか。
いいえ。断じて、あってはならない。
重厚な旗を凝視して、エレーンは奥歯を噛みしめる。
それでは彼に「帰る場所」がなくなってしまう。
あのダドリー=クレストに。
くっきり輪郭を伴った、明確な自覚が湧き起こった。
「……あたししか、いないんだ」
今、行動の選択権を持っているのは。
そう、他の誰でもない。
ダドリーでも、警邏長官でも、まして無責任な義兄でもない。
土地の命運を担るのは、ひとり自分だけなのだ。
分岐のどちらへ進むのか、この土地の未来をどうするのか、大勢の領民をどうするのか──
そう、大事なのは領民だ。
なんの選択権も持たない彼らを、むざむざ他領に引き渡していいのか。
今なら、わかる。
何をおいても領民を守ろうとしたダドリーが。
たとえ捨てがたいものを捨て去っても、
たとえそれが懐かしい商都であろうとも、
この土地に住まう人々を、敵に差し出すことなどできない。
選択は、常に一つだ。
同時に二つは選べない。だから彼は採ったのだ。
自分の領土と領民を。
大勢の日々の暮らしと、何よりその生命を守るために。
泣き言なんか言わなかったけれど、商都が大事でなかったはずがない。
考えなかったわけがないのだ。見捨てた商都の行く末を。
それでも彼は、一人で決めた。
どれほど文句を言わても、逃げ出そうとはしなかった。
一人でその場に踏み止まった。
荒れ狂う嵐のただ中に。
たとえ「人でなし」と
今、自分がすべきこと。
彼の留守を預かる者が、今、成すべき、ただ一つのこと。
他でもない。
この土地を死守することだ。
正統な主が戻るまで、断じて敵に明け渡してはならない。
彼が育ったこの家を。
壁で控えた老執事が、引きつり顔で駆けてくる。
がらんと静かな午後の広間に、西日がうららかに射している。
中央に描かれた「昇竜」が、雄々しく雄叫びをあげていた。
日ざしに温まった重厚な旗を、エレーンはそっと指先でなでる。
まだ、何もわからない。
戦がどんなものなのか、平和な街で育った者に、その正体など知る由もない。
今はただ、使者を追い返した高揚感と、とんでもないことをしでかした絶望的な自覚だけが、不気味にせめぎ合っている。
一つの考えが、胸にあった。いや、他に妙案など一つもない。
ぼんやり霞む、遠い
たぐれば、ふっつり消え入りそうな、ほのかで淡い、かすかな
もろくも小さな、ささくれのような、とっかかり。だが、これを逃せば、後はない。
足元が抜け落ちるような焦燥を噛みしめ、エレーンはひとり立ちすくんだ。
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