1章2話 青天の霹靂・使者来訪

 ドレスの襟元から取り出した"それ"を、エレーンはむっつりと眺めやった。


「……ざまあみなさい」


 二指でつまんだ石のかけらは、きらきら緑色に輝いている。

 いわゆる俗に言う「夢の石」

 領主の執務室の片隅で、厳重に保管されていた珍宝だ。

「人の世の望み、ことごとく叶えます」

 という世にもありがたい稀代の秘宝。そんなたいそうな代物が、なぜに首飾りなどにくっ付いているかといえば、むろん理由は他でもない。


 こっそり持ち出してやったからだ。


 ダドリーとは絶交し、あれから口もきいていない。

 むしろ、顔も合わせていない。

 なにせ、奴がいないから。


 人伝ひとづてに聞いた話では「領地を視察中」というのが名目で──だが、それだって、どうだか怪しいものだ。

 そうよ、とっ捕まえたあの秘書官、途端に目を泳がせて、おどおどそわそわしてたもの。どう見たってあの顔は、嘘をついていた顔だもの。

 どうせなら、もっと、ましな嘘をつけばいいのに。


 石ころ一つ隠したからとて、どうなるものでもないけれど、石の紛失にダドリーが気づけば、少しは身にしみてこたえるだろう。

 つまりは腹いせ、ささやかな嫌がらせ。


 もっとも、これは偽物にせものだ。

 現に妾も子供も健在で、商都を見捨てたダドリーだって、ついに翻意などしなかった。

 どんなにがんばって願をかけても、この石は何一つ叶えない。

 でも、せいぜい青くなればいい。

 こんな辺鄙へんぴな片田舎まで、はるばる嫁いでやったのに。


「……こんなはずじゃ、なかったのにな」


 エレーンは小さく溜息をついた。


 何もかも、手に入れるはずだった。

 そうよ。せっかく玉の輿にのったのに。

 クレスト領家の正夫人。身分でいえば公爵夫人。


 誰もがうらやむ輝かしい未来が、待ち受けているはずだった。

 これまでの冴えない人生を挽回してあまりある──。

 確かに、商都の領邸で働きながら、ダドリーと付き合っていたあの頃は、そんなこと夢にも思わなかった。

 二つ年下のあの彼が、まさか領主に化けるとは。


 むろん、彼の身分は知っていた。

 この国の三大公家クレスト領家の三男坊──だが、統領息子というならともかく三男坊などという半端な立場は、跡目とは無関係な「ごくつぶし」の方をたいてい意味する。

 だから住み慣れた商都の街で、両親の店を買い戻し、二人で店をやるつもりでいた。

 ささやかでも幸福な家庭を夢みて。


 なのに、


「……なによ。もう、女がいるとか」


 いや、それどころか子供までいるとかっ!


 開け放した窓の向こうに、純白の雲が浮いていた。

 うっすら青い北方の空。天井の高い広い居間。一人きりの退屈な午後──。


「……あの頃は、楽しかったな」


 くすり、と笑って、目を閉じた。



 気だるく茶碗をとりあげた耳に、遠い笑いがよみがえる。せみの声、陽の輝き、コップについた丸い水滴。海に沈む大きな夕陽──


 の逗留先に、みんなで押しかけたものだった。

 そして、日がなたむろしていた。

 毎日、暇を持てあましていた。

 散歩をし、昼寝をし、カードをし、長椅子でだべり──


 カウンターの向こうの壁の酒瓶。

 西日のあたる裏口の戸。ひっくり返ったままのサンダル──なんという名前だったか、あの夏、仲間と居座った、崩壊寸前のあの宿は。

 なにか変った、変てこりんな屋号だったが。

 

 森と牧場と農地しかない、地味でひなびた片田舎だった。

 ノースカレリアのような街ではなく。そして、外海にほど近い──


 ひなびた避暑地の気だるい午後。

 皆、何をするでもなくそこにいて、当たり前のようにじゃれていた。

 そこが自分の居場所だった。

 それがどれほど特別だったか、どれほどかけがえのない日々だったのか、過ぎてしまった今なら、わかる。


 ひなびた何もない田舎でも、気のおけない友さえいれば、極上の避暑地になるのだと、あの夏の日に、初めて知った。


 時は過ぎ、あっという間に夏は去り、


 そして、友が、ひとり死んだ──。




「お、奥様! 大変でございます!」


 ふと、エレーンは扉を見た。


 あわただしく転がりこんできたのは、黒い燕尾えんび服の老執事。小柄で、すでに頭髪が寂しい。

 この土地に転居してから、何かと世話を焼いてくれる、いわば世話係という役どころ。

 ちなみに、あの妾宅の場所を、あっさり白状したばらした張本人でもある。


 そして、ちなみに、あんなにあわてた様子も珍しい。

 ちょっと廊下を走っただけで、この世の終わりかってくらいの勢いで、ガミガミ雷落とすくせに。


 かがんだ膝に手をおいて、執事は息を整えている。

 せっぱつまったように、顔をあげた。


「旦那様の姿が見あたりません!」


「──だからあー。視察でしょ? シ・サ・ツ」

 むっ、とエレーンは顔をしかめて、げんなり白けて、片手を振る。


「たく。なにを今更そんなこと。まー、視察してるかは、だいたい見当つくけどね」


 不覚にも片頬ヒクつくが、ほほ、と笑って、香茶をすする。

 そんなもの、妾の所に決まっているではないか。

 どうせ、すねて、ヘソ曲げて、羽を伸ばしているに違いないのだ。

 こっちと顔を合わせるのが嫌なもんだから!


(ひきょう者っ!)


 敵の姑息なやり口に怒りの炎がぶり返し、内心はらわた煮えくり返るが、しかし、今は使用人の前。

 奥方さまの威厳を保ち、楚々と、優雅に、鷹揚に。

 そうだ。

 妾といちゃつく程度のことで大騒ぎなんぞしていたら、領家の奥方は務まらないのだっ!


 執事はもどかしげに首を振る。


「い、いえ、ご別宅の方ではございません」

「あん? だったら一体、どこだっていうのよ」

「ですから伺っておるのです! 私どもも、てーっきり、そう思っておりましたが、先ほど、お見えでないとの返答が」

「……はあ? つまり、なに? それって、つまり──」


 ひくり、とエレーンは絶句した。

 つまり、あのトウヘンボクは、今度はの女にまで、


 ちょっかいかけに行ったのか──!?


 ぐぐっ、と握った拳固げんこがわななく。

 妾だけでは飽きたらず!


 額の汗をハンカチで拭き拭き、老執事は報告を続ける。

「それだけではございません。ディールから使者が来邸しまして」


「ディ、ディールですってえ!」


 ぎょっ、とエレーンは見返した。


「な、なんで? なんでディールがウチなんかにくんのっ!」


 辺りをはばかるように執事は見まわし、頬の横に手を当てた。


(ですから、援軍の要請でございましょ?)


「……。わかってるわよ、そんなこた!」


 ぬう、とエレーンは睨めつけた。

 恐慌中の茶々は気にさわる。 


「して、どうなさいます?」


 ぐっ、とエレーンは言葉につまった。

 お伺いを立てるだけの奴は気楽でいいな!?


「どうなさいますぅって、どーすんのよ! あの人がどこ行ったかなんて、こっちがきたいくらいだわよっ!」


「とにかく」と、執事は仕切りなおす。


「使者が言うには、事は急を要するので、旦那様がご不在でも、書状だけでも、お納めいただきたい、と」


「は、はいっ? それってまさか」


 エレーンは愕然と己をさす。

 執事はにっこり、仰せの通り、と微笑んだ。


「はい。先方との釣り合いもございますし、ここはやはり、奥様にご対処いただくのが一番かと」


「そ、そうだっ! お義兄にい様がいるじゃない! 闊達かったつにして聡明な、ダドリーの二番目のお兄様がっ!」

「グレッグ様は、先ほど屋敷へお戻りになりました」

「……は?」

「なんでも、お加減がお悪いとか」


「いーわけ!? そういう見えすいた手で!」


 こほん、と執事は咳払い。


「グレッグ様より、ご伝言でございます。万事粗相そそうのないように、くれぐれも丁重にご対応になるように、と」


「なんで、あたしが!?」

 愕然と、エレーンは絶句した。もしや、まさか、と思っていたが、


 ──お義兄様に逃げられた……。


 どうも、彼には嫌われている気がする。

 心当たりがないでもないが。


 がっくり、うなだれ、首を振る。「……いや、そんなの無理だってぇ~。そんなことあたしに、できるわけないでしょ~」


 ほんのついこの前まで、しがないメイドだったんである。

 ほんのつい数日前に、着いたばっかりなんである。

 ぴらぴらドレスこそ着ちゃいるが、中身は庶民この上ないのだ。


 額をつかんで ぎりぎり歯ぎしり。

「──あんのバ力・ダドリ~っ! 一体どこほっつき歩いてんのよ! この一大事に!」


 きっ、と執事を振り向いた。


「帰っていただきなさい」


 きょとんと執事は、まなこを瞬く。


「では、居留守を使う、と仰せになるので?」

「だあって、勝手に面会なんか、できないでしょ」


 破れかぶれだ。腕をくんで宣言。


「領主は不在よ。いなけりゃいないで致し方なし!」


 そう、降りかかる火の粉は、断固速やかに振り払うべし。


 執事は明らかにうろたえた様子で、おろおろ扉に目をやった。


「し、しかし、使者はもう、すぐそこまで──」

「あー、具合悪るっ!」


「は?(=どこが?)」


 エレーンは腹を見おろして、ぱちくり瞬き、ぺちぺち叩く。


「あらやだ! そーいえば、おなかの調子も!──んまあ! あたしったらオナカが痛いわ? 今まですーっかり忘れてたけど、そういえば今朝から、ずーっとおなかが痛かったのよね~。──あら、やだ、た~いへん! もう今にも割れそうだわあ!」


「それはそれは(=割れる~? 腹が~?)」


 小指を立てて、ほほ、と笑い、ドレスの脇を引っつかむ。


「ささ。これにて、わたくしは休みます。気分が悪くて伏せっておりますゆえ、使者にはそうお伝えしてね。


「ほう? 良い根性でございますな。では、このじい一人に、ご自分だけお逃げになると?」


 尖らせた口で、執事が意訳。正確に理解したようだ。

 エレーンはそそくさ出口へ向かう。


「奥様っ!」

「んじゃ、後はよろしく頼んだわねん?」


 扉の取っ手をむんずとつかみ、力任せに押しあける。


 バン──と予定外の音がした。

 

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