3章11話 意外な協力者
エレーンは飛びあがって振りかえる。
いや、その前に、すっぽり背後から抱えこまれた。
顎の下に腕をまわされ、右の肩をつかまれていた。
頭上にかぶさる長い髪が、凍りついた鼻先をくすぐる。
脇から伸びた節くれ立った手が、握りしめたままの右手をつかむ。
肩を揺らして振りほどき、エレーンはあわてて振り向いた。
「あ、あなたは……」
呆気にとられて口を開け、予期せぬ相手をまじまじ見返す。
つややかなウェーブの背までの髪、
端正な顔にしなやかな長身。
そして、相も変わらぬ高価そうな服。そう、この美麗な青年は──
「デジデリオさん?」
いや待て。
なんだって統領代理が、突然ここに出没するのだ?
大勢の護衛に守られて、石壁の建物の奥深く押し隠されていた人が。
供は連れていなかった、彼一人だ。
さっきの妙なチョビひげといい、この場違いな彼といい、今日はなんだか奇妙な日だ。
統領代理デジデリオは目を細めてエレーンを見下ろし、魅惑的な笑みを浮かべた。
「大した度胸だな、奥方様。こんな場所にのこのこ一人で出てくるなんて」
「──あ、あなただって」
むっと顔を強ばらせ、エレーンは口を尖らせて言い返す。
珍しいものでも見るように、デジデリオはまじまじ顔を見た。
「わかっているか? 下手したらあんた、流れ矢に当たって、おっ死ぬぜ」
「なに。連れ戻しにきたってわけ? 無駄よ。あたし、絶~っ対ここから降りないんだから!」
つん、とエレーンは横を向く。デジデリオは小さく笑った。
「──実は、いいものを持っている」
どこかなげやりに肩をすくめる。
「なんでも叶う夢の石。その想いが強いほど、発揮される効果は大きい」
あんぐりエレーンは口を開けた。
口を尖らせ、ねめつける。
「からかいに来たわけ? 質悪いわね」
今の惨敗を見ていたくせに。
「そう言うなよ。あんたの手助けに来たんだからさ」
「──手助け、に?」
エレーンは面食らって見返した。
石を握った右の手を、デジデリオはすくい上げるようにしてとりあげる。
「ほら、もう一度」
壇の眼下に向けて顎をしゃくった。
「だから、やるんだろ、はったり。一緒に笑い者になってやる」
「……笑い者って、あんたね」
エレーンは拳固を震わせる。言うに事欠き、なんたる暴言!
構わず、デジデリオは空をさした。
「ちょっと見てみな。雨雲がそこまできている」
「だからなに」
「どうにかなるかも知れないぜ。あんたの頑張りを神様が認めて、ご褒美を下さるかも知れないし」
「……はあ?」
エレーンは胡散臭げに男を見た。
さし示された西の空を見てみると、確かに、立て込んだ街並みの地平の上に、くっきりした輪郭の雲が、純白に輝いて浮いている。
巨大で立体的な入道雲だ。
上空は風が強いらしく、それは急速に空を移動している。
入道雲は突風を呼び、時に激しい雷雨を呼ぶ。
そう、確かに、これならば、いつ雷が落ちてもおかしくはない状況だ。
いや、確かにおかしくはないけれど、彼が勧める本企画には、致命的な欠陥がある。
――そんなに都合よくいくものか?
雲の流れは速かった。
それを眺めて、デジデリオは風に吹かれている。
目を細めた堀の深い横顔、長くつややかなその髪が、ゆるく風になびいている。
ただそれだけのことなのに、何をしても絵になる男だ。
そうして静かに眺めていると、あたかもこの彼こそが、雲を呼んだように錯覚してしまいそうになる。
神々しいほどの美麗な姿が、緑豊かな北カレリアの風景に溶けこんでいた。
ほけっと不覚にも見とれていると、彼が空から目を戻し、端整な顔でにっこり笑った。
「さ、一か八かだ。奥方様」
さては、統領代理ノリノリか?
エレーンはたじろいで見返した。思わぬものが釣れてしまった……。
デジデリオが瞳を覗きこんだ。
「"これは、伝説の夢の石だ"」
「……はい?」
ぽかん、とエレーンは口を開けた。
何を言い出すこの男?
デジデリオは凝視したまま、相手の不審に構わない。
「"これは伝説の夢の石だ。これには人の願いを叶える力がある。その想いが強いほど、発揮される効果は大きい。あんたがこれに願いをかければ、街はたちどころに救われる。これは伝説の……"」
吸い込まれそうな深い瞳。
深い、深い、深い声。
急かすことなく、穏やかな声で、繰り返し、繰り返し──
記憶の底から語りかけてくるような。
瞼が重く、気分がゆったり寛いだ。
ふわり、と体が浮きあがる。
どこか不思議な夢心地。
瞼が落ちてしまいそう。そう、このまま眠たく……なる……よう、な……
かくり、と頭が前に落ちた。
はっ、とエレーンは我にかえる。
(……今の、なに?)
うたた寝か?
こんな時に!?──あわててきょろきょろ、周囲を見まわす。
立ったまま眠りこけるなんて、そんな馬鹿なことがあるだろうか。
いや、それ以前に、とてつもなく奇妙な体験をしたような──?
にこりと、デジデリオが笑いかけた。
「さあ、奥方様。大丈夫、あんたならやれる」
ぽん、とエレーンの肩を叩く。
はたと現状を思い出し、エレーンはわたわた振り向いた。
そうだ、今は悠長に検討している場合ではない。
街に迫りくる侵攻を、なんとか阻止せにゃならんのだ。
拳を握り、混戦状態の南壁を見据える。
ふと、それに気がついた。
頭の中がすっきりしていた。
胸をふさぐ焦燥が、嘘のように晴れている。不安はない。
ひとかけらも。
全身、手足の隅々に至るまで、力と自信がみなぎっていた。
今なら、なんでもできそうな気がする。
彼の今の言葉の通りに。
「ほら、早く」
背後の声に促され、エレーンは青空を振り仰いだ。
手中の石を、胸で握る。
どくんどくんと音をたて、心臓が激しく脈打っていた。
全身の血がざわめいている。
石がじんわり、熱くなったように思うのは、この暑さのせいなのか。
それとも自身の昂ぶりゆえか──。
夏空目がけ、手中の石を振りあげた。
「風よ、吹けっ!」
さわり、とスカートの裾がそよいだ。
天空にわかに掻き曇り、遠い水面で兆したそれが、海を渡り、草原を走り、地表をさらって到達する。
壁にまたがる敵兵目がけて、だしぬけに突風が巻き起こった。
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