4章3話 身支度
あの奇妙な体験は、なんだったのだろう。
あの騒乱の
あんなに不安だったのに。
不可解なことが多すぎる。
ダドリーは何故、トラビアになど行ったのか。
何故ディールに捕まったのか。
サビーネが賊に襲われた晩、ケネルは何故、狙いすましたかのように訪れたのか。
ディールの使者がやって来て、助けを乞いに行った時もそうだ。
傭兵たちは何故、既にあの部屋に詰めていたのか。
使者のことなど、誰も知らないはずなのに。
彼らは何故、早馬を所持する領邸よりも、情報を速く入手できる?
そして何より夢の石は、あの時、本当に
──発動したのか。
「まさか、ね」
エレーンは苦笑いして、首を振った。
そんなことがあるはずない。
あの後こっそり別の願掛けを試したが、石は反応しなかった。
あの時は運が良かっただけ、単なる幸運な偶然だ。
「これでよし、と」
最後の一字をしたためて、エレーンは便箋にペンを置いた。
書きあげた文面を一読し、風で飛ばぬよう重しを置いて、床の手荷物を眺めやる。
必要な物はほぼ揃えた。
書き置きも脇机に用意した。
部屋をつっきり、テラスに出、朝の冷気を吸いこんだ。
冷えた手すりに手をついて、寝静まった街を眺めやる。
三階のテラスから見下ろす眼下に、北方の家々のくすんだ屋根が朝日を弾いて広がっていた。
家も道も街路樹も、薄もやをまとってまどろんでいる。
通りを歩く人影はまばらで、煉瓦の街路もひっそりと静かだ。
色々あったが、なんとかなった。
発端は、ディールの使者が屋敷に現れたことだった。
孤立無援でケネル達に泣きつき、坂を転がり落ちるようにして戦が始まり、賊に背中を斬りつけられて、混乱の戦渦で
そういえば、と笑みが零れる。
あの光景を思い出したのだ。
ディールに勝利し、歓喜に沸く街角に、あのサビーネが立っていた。
小さなクリードの手を引いて。
何事か言いたげに、おどおどしながら見つめていた。
心がざわめき、戸惑った。
なぜ、わざわざ出向いてきたのか。
街を恐れて妾宅を出ないサビーネが。もしや、媚びでも売りにきた?
本当は知っていた。
賊に斬られて横たわった背に、すがって泣いていたのも知っている。
惨事の現場に駆けつけたケネルに、突き飛ばされたのも知っている。
寝ついた居室に入ることができず、いつまでもうろついていたのも知っている。
かたく閉ざされた扉の向こうで。
夕日の壁で膝を抱えて、泣いていたのも知っている。
本当は、とうに知っていた。
あの彼女の純粋さを。
この身を案じてくれたことを。
だから、彼女は勇気を出して、様子を見にきてくれたのだ。
おずおずこちらに差し出した、サビーネの白い手をとった。
だって、この足で乗り越えなければ、決して前へは進めない。
向かい風が前髪を揺らし、エレーンは腕を抱いて身震いする。
夏でも、北方の朝風は冷たい。
掃き出し窓を手前に引いて、今日はきちんと施錠した。
窓を閉めたのは久しぶりだ。
あの晩、彼と喧嘩して以来、必ず細く、昼夜を問わず開けていた。
部屋から締め出したあの彼が、こっそり戻るかもしれないから。
居室は今日も、ひっそりと静かだ。
厚く敷きつめられた絨毯が、朝の光に満たされている。
唇を軽く引き結び、エレーンはテラスから踵を返した。
荷造りを終えた旅行鞄をもちあげる。
この先はあのケネルと、二人きりの道中だ。
『 但し、言っておくことがある 』
昨夜、知らせを持ってきたケネルは、あの後、言って聞かせるように釘を刺した。
『 トラビアはこの土地の逆端、この大陸を南下した先の、はるか西の国境だ。今から出て駆けつけたところで、間に合うかどうかは分からない。物見遊山の旅じゃない。終日、炎天下の強行軍だ。しかも、あんたはその怪我だ── 』
──命の保証はできかねる。
冷たい響きが突き刺さり、ぎくり、と背中が居竦んだ。
あの淡々とした物言いは、冗談や脅しではないだろう。いく度も死線を潜りぬけた、確度の高い傭兵の言葉だ。
怖気づいた唇を噛み、でも、とエレーンは首を振る。
──会いに行くのだ。ダドリーに。
そして、ラトキエに一報を入れないと。
ディールの侵攻を斥けて、クレストは独立を守ったと。
だが、ケネルは信用できるだろうか。
彼の稼業の傭兵は、平気で他人を殺せる人種だ。
けれど、今は行くしかない。
今は彼を頼る他に、トラビアに行く手立てはないのだから。
姿身に写った己に気づいて、にいっ、と笑顔の点検をし、日よけの帽子を軽く直した。
見慣れた広い室内を突っ切り、厚い扉を押しあける。
ちり、と胸が焦げついた。
扉の向こうに締め出した、彼への仕打ちがよみがえる。
ダドリーと酷い別れ方をした。
彼の言い分を聞くことなく、部屋から締め出し、背を向けた。
そして、最後に投げつけた言葉は──
『 大嫌い 』
トラビアの状況はわからない。
現地に行ってみるしかない。
旅に出よう。
ケネルとふたり、旅に出よう。
あの無口な傭兵と。
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