Ⅲ 森の狩猟者と若き領主
正式に依頼内容を聞いたヘレンは、件の熊が荒らしに来るという果樹園周りで準備を始めた。ロープに大きな鈴を括り付け、柵に括り付ける。他にもリンゴの木の足元に同じくロープを張ってその間に鈴を掛ける。
これは熊の狩猟に直接役立つわけではないが、ここで働く領民が熊の存在に一早く気づけるようにする為の物であり、同時に熊に「人間の存在を知らせる」為の処理でもあった。一般的な獣は人間……というより未知と相対する危険を冒さない。
それは森で生き抜く上での鉄則でもある。ヘレンはそれを熟知していた。どれ程強大な力を持っていても、ふとした隙が原因であっという間に死ぬことがある。生き物を殺すのに、相手より強くなる必要は無い。
自然の中にある毒は、巨大な獣を即死させる物もある。戦いに勝っても手負いになってしまえば、他の生き物に漁夫の利を狙われることもある。
ただ強いだけで生き残れる程、自然は甘くない。
とはいえ、これは相手が未知であった場合に限る。もしも、相手が絶対に勝てると確信できるほど弱いと分かっていれば……、相手の手の内を全て知っているのであれば、或いは、リスク以上のリターンがある場合はその限りではない。
「……気休め程度かもしれないけど、ここで働いてる人達が逃げたり、助けを求める時間稼ぎくらいにはなると思うよ」
果樹園に熊対策用の鐘や鈴を設置し終えて、ヘレンはイズルにとりあえず報告した。熊の目撃情報があったのはここ数日。領民に今のところ被害は出てないのだが、果樹園が荒らされてしまい、定期的に山から下りてくるようになってしまったとのこと。
‥‥…となると、熊はここの人間を舐め切ってる可能性もあった。
「俺も剣術や魔法の覚えはあるから、討伐しに行ってやろうと思ったんだけどさ……周りに止められるんだよね」
「けんめいってやつだねー……」
正直なとこ、イズルが領主だと聞いた時、ヘレンは内心では「めっちゃわかーい」等と思ったのだが(かくいうヘレンはまだ十代であり、この上なく失礼なのだが)、領主としての彼の評判はとてもいい。まだ被害が出てない時点で討伐依頼が出たところからしても、彼が領民想いな事が分かる。また、自ら討伐に行きたいというのも本心だろう。
聞けば、彼は騎士から直接指導を受けており、剣術や攻撃魔法も使えるのだとか。それがどの程度の物かはわからないが、一般的な魔人ファントムや魔物モンスター――闇から生み出された殺戮と破壊が本能の化け物共――を倒せる程のものならば、熊を相手にすることもできるかもしれない。
が、状況次第で熊はそこらのモンスターよりも余程恐ろしい怪物になることがある。ヘレンの故郷のレムノスの森には実際、ヌシと呼ばれる危険な獣が多くいた。モンスターを倒す感覚で、それらに挑んで返り討ちにあった人間も多くいるということをヘレンは父から言い聞かされてきた。
「獣はモンスターと違って危険を顧みずに突っ込んで来たりしないし、ファントムみたいに、無駄にお喋りでもない……から、殺すにはコツがいる……んだよねぇ」
またうつらうつらとなってきながら、ヘレンはイズルに言った。その説明よりもヘレンの様子が心配になっているようで、イズルの顔に戸惑いが浮かんでいる。眠りの呪いについて説明しておくべきだろうかと、ヘレンは思ったが、ここまできて依頼を無かったことにされても困る。これまでにも何度かあった。呪いのことを教えたせいで、依頼を破棄されてしまったことが。
今回は領主からの依頼。報酬もそれ相応に高いので、絶対に不意にしたくなかった。ブルブルと顔を振って、眠気を払う……つもりだったが、あまり効果は無い。
「ちょっと疲れただろう? 休憩しよう」と依頼主イズルからのありがたいお言葉。
「じゃあ……ちょっとだけ、ちょっとだけ」
大義名分を得たヘレンは丁度いい位置にあった木の根元を枕に、何かイズルが声を掛ける間もなく、微睡の中に意識が溶けて行った。
――太陽も沈みかけた黄昏時、重く腹の底から響く獣の声が果樹園に渡った。からんからんからんと鈴が激しく鳴るが、獣が歩みを止める事も無ければ、気にも留めなかった。そこで働いていた領民が慌ててその場を離れる。本能的な恐怖から噴き出す冷や汗の匂い。
自然の中で培った繊細な聴覚と嗅覚、そしてヘレンの生来の本能が危険を察知した。意識が戻るよりも先に体が動いた。傍に置いておいた戦斧を手に取るや否や、熊の荒々しい気配目掛けて、投げつける。
熊が驚きと恐怖の咆哮を上げる。果樹園にいたイズルや兵士が一手遅れて囲おうとしたが、熊は顔面に戦斧を突き立てたまま、脇目も振らずに元来た山へと全力疾走していく。
「ヘレン! 奴が逃げる!! ヘレン……?」
イズルは今にも熊を追おうとしたが、ヘレンが動く気配はない。何か彼女なりの考えがあるのかと、彼が振り向くと――、
「すぴっ、はへ、な、なに?」
ヘレンは戦斧を投げつけた姿勢のまま、寝惚けていた。イズルはずかずかとヘレンの方に歩み寄ると、その肩を容赦なく揺さぶった。
「起ーきーろー!!」
「やめて、脳震盪起きちゃう……謝るから」
頭をがくがく揺らし目をぐるぐる回しながらヘレンが懇願して、ようやくイズルは手を止めた。
「あいつに一撃加えたから起きたのかと……」
「私は寝てても戦う術を身に着けてるからね」
ふふんと、ヘレンは得意げにする。果たしてそれが自慢になるのかどうか、呪いを知らないイズルからすれば「そもそも寝なければよいのでは?」と至極真っ当なツッコミを心の中でされてしまう。
それはそれとして、意識の戻ったヘレンは熊のいた場所へとトコトコ歩き、その足跡や、山へと続く血痕に目を向ける。
「山に入られちゃったね」
「やっぱり、あいつのテリトリーで戦うのは悪手か?」
それはそう、とヘレンは返しつつも腕を組み、思考する。あいつの倒し方――とかではなく、あの熊に突き刺さった戦斧のことだ。
(あれお気に入りだったから、どっかに落としたりしてないといいけど)
あんまり長いこと放置したら、紛失する可能性が高まる。
「いや、なんとかはなるかなー……」
まぁ危険ではあるけど、行くのは自分だけだし等と、考えていると、
「よし、俺も行こう。なんかヘレンだけだと心配だし」
「………………ぇ?」
ついてくる流れになってしまった。
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