ⅩⅧ ロキ、悪夢の語り手
ヘレン・ワーグナーはレムノスの森に生まれた。その集落は主に狩猟と炭売りを生業としており、並の大人を凌駕する程の体力と腕力を持っていたヘレンは大人に混じって狩りや薪割りに従事していた。
楽な生活ではなかったが、家族も友達もおり、ヘレンには何ら不満は無かった。偶に仕事をサボって昼寝をしていると、友達のリヒャルトが探しに来てくれた。
「おーい、ヘレン、また寝てんのか……親父さんにどやされるぞ」
「んぁ……? もうご飯?」
ヘレンは木の上で昼寝をするのが好きで、リヒャルトはいつも彼女が寝ている木を当てては、わざわざ登ってきてから起こしてくれた。
「ほんっと寝るの好きだよな、お前」
「うん、好きだよー……」
茶化しながら話すリヒャルトに素直にそう返すと、何故か咳き込まれ、顔を赤くされた。ヘレンが何かで困っていると呆れながらも助けてくれる。いつもいつもそうなので、流石の彼女も、もう少ししっかりしないといけないかなという自覚が出てきていた。
それでも昼寝だけは欠かせず、譲れないのだが。
リヒャルトは、ヘレンと違って力はあまり無かったが、足が速かったので、狩りの際は、先回りをしたり囮になったりと、危険な役割をよく担った。リヒャルトが逃げて、ヘレンが仕留めるというのが、二人の必勝法だった。
――あの日、森が焼かれるまでは。
無数の魔狼(マーナガルム)が男共を喰らい、それを率いる魔人(ファントム)が放った魔法が木々を焼き払い、生き残りを炙りだしていく。
その時の光景は精彩を欠き、断片的なことしか思い出せない。数の暴力による、一方的な蹂躙の最中、叔父が自分を庇って目の前で喰い殺された事だけは覚えている。恐慌状態に陥った彼女を連れてリヒャルトが、まだ焼かれていない大木の根っこの下に隠してくれた。ヘレンは手斧を握りしめたまま、震えていた。
いつも助けてくれた少年は、自分も恐ろしくて仕方ないだろうに、ヘレンの事を気遣ってくれた。
「ヘレン……、心配しなくていい」
「待って……リヒャルト、私戦える――」
自分も戦わなければいけないのに、誰かの死に様が頭に浮かんで離れない。足が地面に縫い付けられたように動かない。ヘレンの頬をそっと撫で――、
「俺が囮になるから、その隙に」
言葉が途切れたると共に、リヒャルトは目の前で引き裂かれた。ついさっきまで話していた少年の上半身が、鋭い爪と牙でズタズタにされ、ヘレンの視界は真っ赤に染まる。
「ふむ、中々美味」
リヒャルトを八つ裂きにした巨大な魔狼――灰色の毛並みを持つ――が獣の咆哮の混じった笑い声を上げた。その隣に立った灰色の魔狼よりも一回り小さい金色と銀色の魔狼が、たった今肉塊となった友人を喰らう。
――ほんっと寝るの好きだよな、お前。
凍り付いたヘレンの頭の中でリヒャルトの言葉が響く。周囲の音が無くなり、自分の存在すらも分からなくなる。リヒャルトの笑顔が薄っすらと浮かび、目の前の変わり果てた肉塊と重なり、胃から酸っぱい物が込み上げる。
友を喰らう金色の魔狼に、銀色の魔狼がまるで楽しい食事会でもしているかのような気さくさで話しかける。
「ねぇねぇスコール。何匹喰った?」
「20匹。もうこの辺りの男は全部喰っちまったよ。ゲヒャヒャヒャ!!」
耳が痛くなる甲高く不快な声が森中に響く。
「はあーぁ、なんで女は喰っちゃいけないんだろ? ロキ様の言ってる事、ホント理解できないんだけど――おやぁ?」
銀色の魔狼の瞳が目ざとく、隠れているヘレンを捉える。眼を見開いたまま固まっている彼女を嘲るように、友人の血に塗れた口が耳元まで裂けた。
「ねぇ、アンタだって自分だけ生き延びるのはイヤだよねぇ?」
魔狼が一歩踏み出す。こいつが。
「今喰った奴、なんか喋りかけてたけど、アンタの番(つがい)だったりするぅ?」
いつの間にか震えは止まっていた。怒りと憎しみで叫び出しそうなのに、頭の中は驚く程に鮮明だった。
「あぁ、心配しなくてもアンタも時期にアタシの腹のなかさ――?」
歪んだ笑みを浮かべた魔狼の頭に手斧の分厚い刃が突き立っていた。だらりと血が流れ、一拍遅れて銀色の毛並みを持った魔狼――ハティが痛みで仰け反る。
「ハティっ!? てめぇ、人間の分際で――」
金色の魔狼――スコールと呼ばれていた――がヘレンを押し倒そうと飛び掛かるも、身を翻して躱した。そのまま、銀狼(ハティ)へと忍び寄り、顔面に投擲した手斧の柄に手を掛ける。力任せに引き抜くと、魔狼の血が大地に飛び散る。
「ぎひぃっ! 殺さなければいいんだったよねぇ」
片方の瞳は潰れていた。無造作に繰り出される爪。間一髪で体を逸らすも躱しきれずに脇腹を掠めた。噴き出す血、ヘレンは苦悶に表情を歪めながら、腕を捻り――銀狼(ハティ)の体に隠れ、後ろから更に迫ってきた金狼(スコール)の脳天に叩きつける。
喉の奥から迸る叫び声と共に、金狼(スコール)を大地に叩きつける。
「なんだっ……コイツ!?」
動揺の声は乱雑に振り下された斧に断ち切られる。更に追撃しようと放った一撃が地面に火花を残す。手斧による攻撃は、この魔狼達の命にはまだ届かないらしい。金狼は身を翻して、警戒するように灰色の魔狼の横に付いた。
だが、ヘレンが引くことは無い。この魔狼達を殺したかった。たとえ叶わなくとも――。
「面白い娘だねぇ」
灰色の魔狼は、金と銀の魔狼達が傷を負ってもまるで気にも留めずに、ヘレンをそう称した。
「ロキ様も大変気に入るだろう。雌は一人も殺すなと言われた時は、その趣向に呆れたものだが――中々どうして」
ヘレンは斧を構えたまま動かない。金と銀の魔狼はまだ動きが読める。だが、この灰色の魔狼は底が知れない。恐らくは魔狼達の群れの長であり、ヘレンが適う相手ではないだろう。
「……なんで」
どうにか絞り出した声は掠れていた。魔物に初めて遭遇し、その行動を目の当りにし、そして頭が理解を拒んだ。
「あぁ、死に行く人間は何故皆同じ事を聞くんだろうねぇ?」
魔狼の長は心底くだらないと吐き捨てるようにヘレンの言葉を握りつぶした。賢い者であれば、更に会話を続けて、活路を見出すのだろうが、ヘレンの頭の中は様々な感情が嵐のように吹き荒れていた。
しばし沈黙が流れた。そして、血の匂いと殺意に塗れたこの場で、不意にこつんとブーツが固い物に当たる音が響く。
「その質問にはボクが答えよう」
声は空から聞こえた。宙に男が浮かんでいる。色鮮やかな赤と橙色を基調とした服、先の分かれた奇妙な帽子、その顔は何か染料でも塗っているのか真っ白だった。立てられた人差し指の色は薄い灰色。
この場であまりに浮いた存在の唐突な登場に、ヘレンは思考が追いつかず、ただただ視線を釘付けにされる。直感的にその男が人間でないことを悟った。そして、自分の命がこの男の気分次第であることも。
ふとその姿が消えていた。
「イイね! その顔! 無防備さ!」
顎に手を当てられ、喉を詰まらせたような声をヘレンは上げた。悪寒が虫のように体中を這いずり回る。男はとんと手で首の後ろを叩く振りをした。
「今の表情ほんと良かったよ。殺して保存しておきたいくらいには」
弄ばれている。恐怖を払うように、手斧を振り回したが、既に背後にその姿は無い。
「そうだ、自己紹介まだだったね」
「くっ……」
頭より拳一個分上に気配を感じ、後ろに下がる。男は上下逆さまに立ち、気味が悪いくらいに優しい笑みでヘレンを見つめていた。
「ボクの名はロキ! この子――フェンリルの父親さ」
灰色の魔狼が傍らに座りその喉をロキは撫で、その牙に溜まっている血を指で掬って舐めとる。その血がリヒャルトの物だ。ヘレンが反射的に手斧を投げつけるも、ロキの目の前で見えない壁に弾かれ、地面に落ちた。
「それで何だったっけ? あぁ、ボクら魔人や魔物が『なんで』人間を襲うかだったね!」
攻撃されたことにすら気にも留めていないようにロキはヘレンの方にゆっくりと歩いてくる。進行上に地面に突き立った手斧は足で無造作に蹴り飛ばしてどかした。思わず後ずさると、またしてもロキの姿は目の前から消え、ヘレンの背後に立っていた。
「それはね! ボクみたいな魔人(ファントム)やフェンリルみたいな魔物(モンスター)にとって人間の恐怖、怒り、憎しみ――マイナスな感情は極上の逸品だからさ!」
殺される――ヘレンは体を強張らせたが、ロキはただただヘレンの表情を楽しむばかりだった。
「けどね、ボクは他の無能、無教養な連中と違ってね! 人間の死とは芸術的であるべきと思うんだ」
何を言っているのかヘレンには全く理解が出来なかった。だが、ロキは「芸術家とは凡人には理解されないものでね」と続ける。
「男は盛大かつあっさりと! 女はドラマチックかつ表情豊かに死すべきである! うん!」
「ロキ様――、この前は確か、男は情けなく命乞い、女は助かったと思った瞬間に殺すのが美しいとか言ってなかったっけ?」
「その前はもっと違うこと言ってたと思う」
深く頷くロキに対し、離れたところで金と銀の魔狼達が顔を見合わせて口々に言う。どちらにしても、ヘレンには一生理解できない高説だった。ロキは周囲の反応等まるで意に介してないようだった。
「ここの女達は今のところ誰一人として殺してない。すると人間はこう思うだろう――女であれば殺されないのには何か理由があるとか、慈悲を掛けてくれたのだとか、ね! 都合のいいことばかり考えてるに違いない!」
「そう考えたら――どうなるの」
ヘレンの声には生気が無かった。武器も失い、この魔人の男から逃れる術も無い。
死ねば、リヒャルトと同じ場所に行けるのだろうか……と脳裏にそんなことまで浮かんでしまう。ロキはそんなヘレンの状態に大層心を良くして答える。
「逃げなかったら命は取らないよーって言って安心させて、全員一か所に集めるのさ! それから誰か一人選んでー……皆の目の前でフェンリルに喰わせる!」
これ程までにおぞましい嘘つきがいただろうか。だが、魔人(ファントム)の狙いが人間の絶望なのだとしたら、その行動原理も理解ができる。できてしまう。
自分達はどうあがいても滅ぼされる。その絶望を見透かしてか、ロキが顔を覗き込んでくる。白く厚い化粧の匂いがむんと鼻孔を突いた。
「だ・け・ど、君はなんか特別感あるから、生かしておいてあげるよぉ」
「……どうせ嘘」
騙されてなるものかとヘレンはせめてもの抵抗として、ロキを睨んだが、力無い者のその表情は、嗜虐心を刺激し、彼をますます喜ばせるだけだった。
「えぇ? 嘘じゃないさ! ホントさ。君がスコールとハティと戦ってた時にビビッと来ちゃってさぁ」
ロキの瞳は灰色に爛々と輝いていた。何を考えているのか全く分からない。殺さないと言われた事が、むしろ不快にすらヘレンには思えた。
この男にとって命とは娯楽に過ぎない。
「闇が深ければ深い程! キミはその中で、輝くんだぁ――手始めに」
その瞳がどこか別の場所を見つめる。空を切って矢が飛び、ドスっとロキの額に矢が刺さった。あまりにあっさりとした魔人の死――、その正確無比かつ気配すら感じさせない射撃が可能なのはヘレンの知る限り一人しかいない。
「ヘレンっ!!」
翠の髪、逞しい腕に支えられた石弓から発せられた矢が雨となり魔狼達に降りかかる。ヘレンの父、アーサーは、娘を守らんと鬼の如き形相でフェンリルに向っていく。
「お……とうさん」
安堵と共に熱い物が瞳に込み上げ、ヘレンはその場に崩れ落ちそうになる。
「この森最後の男の生き残りが君の父とは――思わず、奇跡とやらを信じてしまいそうになるよ!」
その声は、再びヘレンの背後から聞こえてきた。ロキの腕が、細く白い肌の首を絞め上げる。自由を求めて手を伸ばし、腕に爪を立てようとしたが力が入らない。
赤くかすみ始める視界の向こうで父が、フェンリルに押し倒されているのが見えた。
「ヘレン――そうかぁ、君はヘレンって言うんだ」
ロキの声が薄れる意識の中で響く。
――やめて。
ヘレンは最早怒りも忘れて懇願したが、その言葉は声にすらならず、頭に閉じ込められる。目の前の赤い霞が黒くなっていく。涙が頬を伝うと、ロキは失望したように、ヘレンの頬を叩いた。
「あぁ、違う違う――そうじゃないだろぅ、ヘレェン? それじゃそこらへんの愚民と変わらない!」
ヘレンの反応はロキの望むところではなかったらしい。ひびが入ったように、心が崩れかける。煮えたぎる自身の感情の炎によって自壊を始めていた。
「あの獣のような剥き出しの本能! それこそが君のあるべき姿であろうに!」
締め上げられ、強制的に視点が上を向く。黒く霞む空――天で何かが一つ輝いた。
手放しかけた意識の中でロキが怒りと驚きの混じった声で叫んでいた。ヘレンの体が地面に落ちる。空っぽになった肺に、突然空気が送り込まれて、彼女は思いっきり咳き込んだ。
「ボクが楽しんでいるところにいつもいつも水を差しやがってぇええ――」
一瞬、それがロキであることにヘレンは気が付かなかった。怒りのあまり顔を真っ赤にして喚き散らし、髪を振り乱している。――その腕は何か鋭利な刃物で切り落とされたようで、手の先が無かった。
取り乱す彼の傍で金狼(スコール)と銀狼(ハティ)が天から降り注いだ光によって跡形も無く浄化された。
「黙れ、腐れ外道。てめぇの気持ち悪い性癖なんざ知ったこちゃねぇんだよ」
黒く長いぼさぼさの髪、日焼けして浅黒い肌。真っ赤な瞳は生命力に溢れていた。粗暴な口調とは裏腹に、手に持ったその剣は汚れ一つ無い。
――聖剣。
何千何万の魔族を切り伏せて尚、輝きを失わなかったという、おとぎ話でしか聞いた事が無い伝説の剣。そしてそれを振るえるのは、この世界の神に選ばれた勇者だけ。
「おい、そこの娘っ――立てるか?」
唐突に声を掛けられてびくっとヘレンは震えた。言葉が上手く喉から出ない。そんな彼女の横にふわりと何者かが着地した。
「こらっ、ジェイソン、怖がってるじゃないの!」
勇者に怒声を浴びせた女に優しく抱きしめられる。魔法使い特有の長く黒いローブがヘレンの体を優しく包み、長い栗色の髪から漂うアロマな香りが鼻孔に広がる。
「僕が見るに、彼女は心的外傷を負っているように見えます。はっきり言って、無神経な声かけだったんじゃないですかね?」
勇者の背後を守るように、錫杖を持ち、真っ白な礼服に身を包んだ僧正――聖職者とも言う――が立った。
「あぁ、あぁー、ごちゃごちゃうっせぇな!――生易しい言葉が、何の慰めになるものかよっ!!」
聖剣を手に勇者――ジェイソンが、ロキへと斬りかかる。斬撃が届く寸前、魔人の姿が消える。ジェイソンは即座に身を捩り、何も無い空間を斬り付けると、同時に上がる悲鳴。
勇者のその力強い背中に、ヘレンの瞳は生気を取り戻していた。
「無駄だっ、この聖剣はお前ら魔人の気配を導きの光で暴き出す!」
ロキは胸に傷を受けていた。その血走った瞳は勇者ではなく、ヘレンに向けられていた。不意にその口が緩む。フェンリルがヘレンの父、アーサーの首に牙を立ててトドメを刺そうとしていた。
無意識のうちに体が動いていた。助けてくれた女の腕を抜け、目の前に刺さっていた斧を抜くと、ヘレンはフェンリルへと跳躍する。
「返せ――」
刃が二度煌めいた。十字の傷が開き、続いて鮮血が噴き出る。痛みと怒りで唸るフェンリルを浄化の光が貫いた。それは僧正が放った神聖の術――魔族とは相反する聖なる光の魔法――だった。
フェンリルが怯んだ隙を突いて、魔女が浮遊の魔法を放ち、アーサーを引き寄せて救い出した。父親をヘレンの目の前で殺すという悍ましいロキの企みは失敗に終わった。
「あぁ――白けちゃったなぁ」
またしても、その声がロキであることにヘレンは一瞬、気が付けなかった。話す時の感情の起伏によってあまりに声音が違うのだ。
「白けた」と告げていたその虚無の顔も唐突に満面の笑顔に変わる。ヘレンはその悍ましさに全身の毛が逆立つ思いがした。
「けど、ボクは決してあきらめないよ、ヘレン? また君が新しい希望を見つけた時、それを壊しにくるからね!」
その時以来、ロキは姿を現さなかった。まるで夢でも見ていたかのように、唐突にレムノスの森に平穏が訪れる。
だが、生き残った者達の心には、深い影を落とすことになった。
ヘレンは、亡き友の為に墓を作り――、その墓前に誓った。
「皆がまた平和に暮らせるように――、安心して昼寝ができる世界にしてみせるからー……今はゆっくり休んで」
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