ⅩⅨ 星の光、出ずる目覚め

 2年前の、あの日の出来事が、光景が、頭の中で急速に流れ込んできて蘇える。同胞の仇を眼前にして、意識はかつてない程にはっきりとしている。一方で、どこか自分が悪夢の中にいて、魘されているかのような奇妙な感覚がヘレンを襲っていた。


「もう黙れ――その臭い口で二度と喋るな」


 獲物を前にした捕食者のような恐ろしい声が自分の喉から発せられる。元の自分がどんな声だったのかもあやふやになっていく。それでもいいとさえヘレンは思った。自我と引き換えにこの化け物を殺せるのであればと。


 それなのに。


――ヘレン。


 最早、眼前の敵しか見えず、滾る血に任せるままだったヘレンの動きが止まる。つい最近、自分を信じてくれた人の声が、彼女の中の人間性を呼び戻そうとしていた。


「おやおや、興ざめだの」


 冷たい嘲りと失望を交えてフェンリルは呟く。2年前、ロキがヘレンに求めていた本能の赴くままに戦う、獣の如き闘志は、またしても閉ざされる。


「“今回”は生かせとも殺せとも仰せつかってない。全ては私の匙加減に任されておるでな。死ね」 


 無防備に立ち尽くすヘレンにフェンリルは爪を振り上げる。


「させませんっ」


 両者の間に割って入ったコレットがヘレンを抱きしめた。周囲を無数の光剣(Fierbois)が囲み、フェンリルの殺意に満ちた爪とぶつかり合う。


「児戯だな――この程度で聖女等と名乗るとは」


 言葉通り、戯れるように光剣を一本ずつ、爪と牙でへし折っていく。コレットは己の無力さを思い知りつつも、ヘレンの方に向き直る。


「ヘレン――、大丈夫ですか?」


「……コレッ……ト」


 虚ろにヘレンは返した。フェンリルを前にして、自分が自分で無くなるかのような感覚を久しく思い出して、体が震えた。


 故郷を蹂躙された怒りも憎しみも収まらない。燃えるようなこの感情に身を焦がされるような感覚。復讐を果たしたいと――それは、渇きにも似た願いをも超えた、衝動。それに全てを委ねた時、元の自分には戻れないと、本能的に悟ってしまい、どうしたらいいのか、ヘレンにはもう分からなかった。


 そんなヘレンをコレットは抱き寄せて、耳打ちする。光剣を魔法で密集させ、迫りくるフェンリルを必死に防ぎながらも、優しく語り掛ける。


「大丈夫――じゃないですよね。あなたに何があったのかは、私にはわかりません。きっと酷い事があったのでしょう……私は自分の事ばかりで、あなたの過去なんて想像することさえしなかった」


 それはそうだろう。ヘレンがコレットと話した時、故郷のことは殆ど話さなかったのだから。それは無意識からくる防衛反応だったのかもしれない。だから、そのことをコレットが気に病む必要などこれっぽちもないと、ヘレンは言いたかったが、上手く言葉が出てこなかった。


「また、話をしましょう。楽しい話を――戦いも、陰謀も、全て忘れられるような楽しい話を」


――だから、起きてください、とコレットは祈った。


 仄暗い感情の中に少しだけ光が灯る。それは夜の森の中、心細い時に見える一番星のような輝きだった。


「絶対に死なせません。絶望も。あなたに希望(ESPOIR)の星の加護があらんことを」


 額にそっと口づけが為される。途端に、一抹の微小な光が温かく広がる心臓が脈々と打ち、手足に力が戻っていく。コレットを後ろにやり、ヘレンは再び武器を手に取っていた。


 これぞ星乙女の真の力、『星の加護』


 光剣の守りを突破したフェンリルの突進を大斧(ハルバード)が受け止める。大地に根を張るように足を踏む。ずっしりと、一歩を踏むと魔狼の巨体が後退する。フェンリルの嗜虐的な笑みが一瞬にして驚愕に変わる。


「ありがと、コレット……楽しいお話……、またしようね」


 ヘレンにはコレットがくれた星の加護がある。大斧(ハルバード)の一振りに圧されて、フェンリルの体が後方に飛ぶ。全身に力が満ちるような感覚、心の中にあるコレットの想いが、ヘレンを護ってくれている。


「そのためにも全部、終わらせなきゃ」


 フェンリルは更に飛び掛かろうとしたが、何かに気を取られたように視線を別の方へと向けた。焦燥は再び恐ろしい笑みに代わり、ヘレンは全身の毛が逆立つような怖気に再び襲われる。隣ではコレットが茫然と剣と聖旗を構えていた。


 こつんと、ブーツを鳴らして、男が空中から降りてくる。


 レムノスの森、ヘレンの故郷を地獄に変えるよう命じた張本人が、この状況に娯楽を感じて、2年ぶりに目の前に現れたのだった。


「やぁ、ヘレン」


 混乱と血の匂いを魚に、戦いを娯楽の酒と愉しむ者、ロキはまるで旧友に相対したかのような気さくな物腰で、話しかけた。ヘレンはその一言で虫唾が走り、今すぐにでも切り伏せたい衝動に駆られる。だが、ロキは得たいが知れない危険な相手だ。きっと何か企んでいるに違いないと彼女は思った。


「実に」と彼はあざけるように、両手を広げ、辺りを見回した。


「楽しいことになってるみたいじゃないか――人間同士の殺し合いなんてね」


 ヘレンの脳裏にちらついたのは、ソル王子の事だった。だが、ロキの言葉は更にその先を行く。


「行かなくていいのかな? 君を拾ったあの男――名はイズルと言ったっけ?」


 配下の魔狼達から得た情報を繋ぎ合わせて知ったのだろうか。ヘレンが目を見開くと、ロキは自分の知っている情報で相手を驚かせられたのが楽しくて仕方ない様子で、続ける。



「このままだと、同じ国、同じ種族である筈のー、人間に殺されちゃうけど」

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