Ⅱ 寝坊助姫久々の朝
窓から吹き抜ける爽やかな風、ふわりとした布生地に身を委ねる。鳥の囀りが耳をくすぐり、瞼が自然と上がる。もそもそと起きると毛布がハラリと落ちた。若草色の豊満な毛量の髪がぴんぴんと自由自在に跳ね回る。
ヘレンワーグナー起床。
目覚めて最初に目に入ったのはヴォルゴール家の侍女。だらしないヘレンとは対照的にサイドテールに纏められ整えられた栗色の髪は寝癖一つ無く、丈の長いエプロンドレスは皴一つ見当たらない。
「おはよー……気持ちのいい朝……朝でいいんだよね?」
目を擦りながら窓の外を見る。日は低い位置にあり、風は涼やかだ。以前ここで寝かせて貰った時は、昼や夜に起きる羽目になった。不可抗力な部分はあるとはいえ、流石のヘレンもちょっとだけ人の目を気にしていた。
(朝起きれない人だと思われてるとやだなー)
侍女に言ったら、何を今更と返しただろう。
「えぇ、朝です」と侍女の言葉は淡白だった。ヘレンの目が一瞬輝く。やっと朝に起きれたと。
「貴女様がここに戻って三日目の朝です」
「え……うそー……寝すぎ?」
「一般的には寝過ぎと言いますか……昏睡に近いですね」
ぽかんとするヘレンに対し、侍女はあくまでも冷静に答える。すっと自然な動きでヘレンの腕を取り、脈を確認、「失礼します」と額をくっつけて体温を確認する。その間、ヘレンは、ぽけーっとされるがままにしていた。
「私は医者ではないので、気になるのでしたら診てもらうのがいいでしょうが……って、聞いてます?」
あまりに無反応なヘレンに、侍女は初めて怪訝と心配の入り混じった表情になった。眠ってしまう前の記憶が曖昧であり、ヘレンには頭の整理をする時間が必要だった。
ソル王子の暴走を止める一撃を放ち、その直後に魔狼(マーナガルム)に襲われ……意識を失う直前、何かを投げつけた。
「斧……」
自分の手を見つめてヘレンは呟く。ふと寝床の隣を見ると大斧(ハルバード)と戦斧(サマリー)が立てかけてあった。だが、手斧は見当たらない。
「失くしちゃった」
「斧ならここに……」
侍女が戸惑うのも無理はない。ここにある斧はどれもヘレンがこれまでの戦いを共にした戦友であり、強力な武器であり続けた。失くしたのがどこの武器屋にもあるような下手をしたらそこらへんの日用品店にあるような手斧だ。
だが、ヘレンにとってあの手斧は父から旅立ちの日に貰った物であり、一番思入れの深い代物だった。
「侍女が大変失礼を。――大事な物だったのでしょうな」
そう言って入ってきたのは、壮年の執事だった。侍女が皴一つ無い服だとすれば、執事の黒いスーツは輝いて見えた。服をただ着るのではなくそれを着こなし、自身が執事たることの証としていた。
侍女はそこを行くとまだまだ未熟であり、それまで無表情だった顔が「意味わかんない」といった不機嫌そうな見た目――15、6くらいだろうか。ヘレンよりも少し年下に見える――年相応の反応を示した。ヘレン自身は別に不快に思ったりなどはしていないのだが。
「うぅん、そうだよね、斧沢山あるし……」と言ったものの、思った以上に落胆する。
執事は「食事はここに置いていきますので」と納得のいっていない侍女を連れて――半ば引きずるように――出ていった。
三日は寝ていたとのことだが、あまり腹は空いていなかった。窓の外でふとイズルの姿が見えて、ヘレンは靴を履いて、窓から出る。誰かに見られていたらはしたないと窘められていただろう。
イズルは屋敷の近くで養殖されている林檎の木に手を掛け、何かを囁きかけていた。後ろ姿だった為、その表情を伺うことはできなかったが――。
「……やっぱまだ無理か。いい線行ってると思ったんだけど」
聞こえる溜息。何のことを言っているのだろうと、ぼんやりと疑念を抱きながら近づくと、気配に気が付いたのかイズルが素早く振り返った。一瞬、血の気の引いたような顔だったのが、ヘレンの顔を見て安堵と困惑の入り混じったようなぐちゃぐちゃな感情に表情が引き攣っていた。
「誰かと話してた?」
「へ、ヘレン、起きたのか!? 身体におかしなとこない? 念のために医者に診てもらった方が――」
「おぉ……イズルが慌ててるのレアかも」
あたふたとするイズルがなんだかおかしくて、ヘレンはくすくすと笑った。おかしなのはどちらかといえば自分であることに気が付いてイズルは咳払いをし、それから辺りを見回した。
「他に誰も見てないよな?」
「ごめん、なんか見られちゃいけなかったことだったら」
イズルの慌て方は奇妙だった。何か恥ずかしい事をしでかしたようにも見えないし、後ろめたい事――ヘレンが想像するのは摘まみ食いだとか子どもがするような程度の悪事――をしているようにも見えない。
「いや、そんなことはない――そんなことよりヘレンホントにどこも悪くないか? 無事に目覚めて良かったよ……」
「うん、この通り元気。イズルはー……大丈夫? その……」とヘレンがどことなく気まずそうに聞くとイズルは後頭部を手で摩る。
「俺はたんこぶができたくらいかな。ヘレンと再会する前にさ……コレットの魔法が直撃したらしくてね? けど、それ以外は大丈夫だ」
イズルの言葉にヘレンは身構えていたが、「あれ?」と思わず声に出して言ってしまい、「ん?」とイズルに怪訝な顔をされてしまう。「あ……」と声を漏らして目を逸らすと、さしものイズルも何かを察してしまった。
「ヘレン?」
「事故だったし……」
「……俺はまだ何も言ってないが」
詰め寄られ、ついでに頬を左右に伸ばされて、全て白状することになった。
コレットの魔法でイズルのいる場所まで吹っ飛ばされた事、その際にイズルに激突して吹き飛ばしてしまったこと。イズルはそのことについては怒らなかったが、黙ったままにしようとしたヘレンの態度を問題視した。
「別に怒らないから――次から、次からはちゃんと正直に話すように」
「ふぁい」
次に全く同じ事が起きるとは思えないがと、イズルは付け加えた。伸ばされた頬をむにむにと抑えながらヘレンはふと先程の光景を思い出した。
「正直に―……って言うならさっきのイズルは何をしてたのー?」
「……うっ」
痛い所を突かれたような呻き声が聞こえた。今度はイズルが目を逸らす番だったが、若草色の瞳からは逃れられない。時折ヘレンはイズルが驚く程意固地になる。野性的な勘が働いているのかもしれない。ともかく、正直に話すよう伝えた手前、自分だけ話さないというのはフェアではない。筋を通すということに関してはイズルは異様な程石頭である。
「誰にも言わない?」
「言わないよー……」
イマイチ信用がないが、いいだろうとイズルは話し始めた。
「俺が神聖術系統の魔法が使えるのは知ってるよね?」
「うん……スゴい術沢山使ってたよねー」
温かな光が広がる感覚を思い出し、ヘレンは頷いた。星天より力を得る神聖術は魔法の中でも高度な物で生まれつきの才能に依る所が大きい……という説明をイズルはヘレンにする。
「俺はね……、生まれつき魔法の才があるらしいんだけど、それだけじゃないんだ。この世に既に無い霊だとか、精霊みたいな類のやつと交信する力があるみたいで」
おー……とその凄さを分かってるんだか、分かってないんだか、薄い反応だった。だが、微かに期待のこもった眼でヘレンはイズルに問う。
「死んだ人のゆーれいとかも見える?」
「常に使える能力じゃないんだ……ふとした拍子に声が聞こえて、いつの間にかそこにいる。そして、こちらからの声を伝えることもできる。最初に使ったのは5歳の頃だったかな。俺が生まれる前に死んだ爺様の姿を見てさ。その時は家族に大層気味悪がられたっけ」
それ以降、何かが聞こえようと、見えようと人に話したことは無いとイズルは話した。時として人ならざる者の姿も見えるらしく、その正体を知りたくて神聖術を学んだのだという。
「じゃあ、この前の戦いの時も何か見えたり聞いたりしたのー?」
戦いの序盤、他の貴族――エリュトロン伯爵と言ったか――の部隊を助けた際にイズルが、まるで死んだ兵士の声を聞いたかのような発言をしたのをヘレンは思い出していた。
――生きてくださいませ、死に旅立った者達もきっとそれを望んでいるでしょう
その時のイズルは確信を持っているかのようにヘレンの目には映っていた。が、イズルは首を振った。
「いや……、魔人(ファントム)や魔物(モンスター)は魂を喰らうからかな。その類との戦いで死んだ人間の魂は見た事が無い。それにこの力は死者が沢山出たからって発動するものでもないみたいでさ」
けれど、それを自分の意思で発動できるようになれば、とイズルは語る。
「その手の術はあるにはあるらしいんだ。『心霊術(シャーマニズム)』っていうらしいんだけど。かなり特殊な魔法らしくてさ、一般的には忌み嫌われてる術でもあるんだ――って」
知らず知らずのうちに口が回っていることに気づき、イズルは喋りすぎたかと口を噤む。当の聞き手たるヘレンは、今日はイズル滑舌だなーと何も考えずに話を聞いていた。イズルが話を切り上げた事も特に不審に思わなかった。
「じゃー……もしも、イズルが見た幽霊の中に私の知合いがいたら教えてもらおっかな……」
「縁起でもないなぁ……まぁいいけど」
ヘレンの言葉はいつも通りマイペースだったが、それだけに変に気を遣う様子も、忌むでもない純粋な気持ちがこもっていた。その事に長年堰き止めていた何かが噴き出しそうになり、イズルは顔を逸らし咳払いをする。
タイミング良く、ヘレンの腹の虫がぐきゅぅと鳴いた。「おー……私のお腹が」と照れるでもなく、独特の反応をするヘレンにイズルは思わず噴き出した。
「えっと、ご飯まだ食べてないの?」
「さっきまでお腹空いてなくて。黙って出てきてしまったので……」
屋敷の方が俄かに騒がしい。恐らくヘレンが部屋から抜け出したのがバレたのだろう。イズルは、あぁ……と頭を掻き、「早く帰ろうか」とヘレンの背中を押したところで、急に勘が働く。
「……もしかしてヘレン何か嫌な事でもあった?」
「うんまぁ……大したことじゃないんだけど」
「正直に」
ヘレンは手斧を失くした事を話した。それが特別大切な物であることも。イズルは腕を組み、どうしたものかと考える。
「流石にあの森に戻って探すわけにはいかないけど――、そうだ、ヘレン」
「なにー?」
いい事を思いついたと話すイズルにヘレンは首をかしげる。
「今回の報酬、まだ受け取ってないよね? 良ければ朝食の後、街に行かない?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます