Ⅳ 森の中の決闘
日が落ちはじめ、視界も悪い中の狩猟、控えめに言えば自殺行為である。ヘレンでなければ、と言うかヘレンであっても出来るならしたくない。なのだが、言い出してしまった以上、やっぱり別日にしましょうとも言えなかった。のだが。
「いや……、イズルさん、様?は止めた方がいいと思う……危ないし」
「わかっている。だが、あの熊、人間を全く恐れる様子が無かった。このまま放置はできないし、君が危険を冒してくれているのに、自分だけ屋敷で優雅に食事ともいかないだろう。後、イズルでいいよ」
この真面目石頭は、一歩も譲りそうになかった。護衛を何人か付けるということで、押し切られてしまった。元々ヘレンは口が上手い方ではなく、どちらかというと言いくるめられてしまう側なのだが。大抵の場合、それは自分が損するだけの話だったのでそこまで気にしたことは無かった。
だが、今回の場合、イズルが危険な目に遭うかもしれない。それはヘレンにとっては不本意ではあった。表情がほぼ動かないので、誰も察することはなかったが。
僅かな日の光も草木生い茂る森の中では殆ど届かない。熊の血痕は獣道の中だ。手斧で木を伐採しながら、慎重に進んでいく。ヘレンは背中に大斧ハルバートを背負い、全神経を集中して気配を探る。山の中には様々な生き物がいる。ここにいる人間にとっては殆ど無害な者ばかりだが、毒を持った蛇、危険な病気を持った蝙蝠、触れただけで皮膚が爛れる植物。それに多くはないが、魔物モンスターの気配もある。モンスターは魔王タナトスやその配下の魔人ファントムによって生み出された怪物である。
その数はおびただしいもので、主に彼らの支配下にいるのだが、支配外にもその魔の手を伸ばして活動しており、人間の生存圏を脅かしている。
「生き物は刺激しないで……変な植物は触らずに」とヘレンは注意を促すのだが、それは少し変な感じがした。
「この山ってイズルの所有する領土の一部なんだよね?」
「正確には国王様から任された領土だね」
「その土地で私が先導して狩猟って変な感じ」
ファントムやモンスター討伐の依頼はこれまでも多くあったが、獣の駆除は大概地元の住民が行うので、あまり回ってくることはなかった。今回は「熊」なので、話は違うかもしれないが。
「元々は地元の猟師ハンターがいたんだけどね。ここ一年、国の戦いで兵が不足して徴兵されていって、人手不足なんだ」
アリエスの国は、長らく繁栄を続けてきた国だが、魔王タナトスの魔の手が伸びてきたことにより、他の多くの国と同じように戦いに参加することになった。その戦いは熾烈を極め、多くの兵士が失われた。
「やっぱり、どこも大変なんだよね……」
他人事のようにも聞こえる口ぶりだが、ヘレンは彼女なりに責任を感じてはいた。もしあそこで、魔王タナトスを倒せていればと。そうでなくても、呪いを受けるヘマをしなければ、まだまだ戦えた。勿論、自分一人で戦いの趨勢を変えられるとまでは思っていないけれども。
いよいよ闇も深くなってきた頃合い、血痕も途絶え、流石のヘレンも引き返すことを提案しようとした時だった。
「あそこ……、熊の寝床じゃないか?」
イズルが指さしたのは山腹の岩に覆われた洞穴。ここまで熊の残した痕跡を元に追ってきたのだから、ここにいる可能性は無いとは言えないが。
「じゃあ、ここを動かず……私が見てくるのでー」とヘレンは言い置いて、イズル達を洞窟の外で待機させ、ずんずんと洞窟の中に進んでいく。いつでも戦えるよう手斧を手に持つ。大斧ハルバートは幅を取り、天井や壁に当たってしまう為、使えない。
しばらく進むと、魚の骨、果樹園で獲ったであろう木の実等が散乱している『部屋』を見つけた。ここがあの熊の寝床でほぼ間違いないだろう。だが、熊自体は不在だった。熊は大概が夜行性だから、これは不思議ではない。不思議なのは、あの熊が何故、果樹園を襲うようになったのかだ。山の食べ物が不足して人里に降りてくる話はある。山には幾つか怪しいモンスターの気配もあった。そこに原因があるかもしれないとヘレンは眠たい頭で考察していると。
「ぎゃっ」
短い悲鳴が聞こえ、にわかに外が騒がしくなる。熊の咆哮も聞こえ、ヘレンは思考するよりも早く、その場を後にする。洞窟を出ると、イズルの護衛の一人が頭から血を流して座り込み、その前をイズルが守るように立っていた。
巨大な熊だ。故郷の森でも中々見かけない大きさ。顔面にはヘレンが投げつけた戦斧が刺さったままだった。
荒々しく咆哮を上げた熊は腕を振り降ろし、イズルは両手をかざし防御魔法の盾で防ぐも、そのあまりの腕力に弾かれてしまう。続く連撃がイズルの頭を捉えようとした刹那、血の尾を引いて熊の腕が宙を舞う。振り降ろした勢いのまま、熊はバランスを崩して倒れ、もんどりを打って、倒れる。
大斧ハルバートの一撃。眼で追えた者はいなかったのだろう。イズル達が何が起きたのかを把握するのに、数秒掛かった。
「ごめん……護衛の人に怪我させちゃった」
「いや、君のせいでは」とまたもや真面目に返すイズルの言葉を待たず、ヘレンは動いた。手負いの獣には理性というタガは無い。なりふり構わない体当たりに対して、ヘレンは横に回って躱すのと同時に反撃の一振りをその太い首へと叩きつける。
凄まじい血飛沫と共に首が落ち、遅れて地響きを伴って熊の巨体は倒れた。
「……安らかに眠ってね」
熊の頭を優しく撫でてから、戦斧を抜いた。
怪我をした護衛とイズルへと駆け寄る。どちらも命に別状は無いようで、無事な方の護衛が、二人に手当を施していた。
「俺はいい。それよりフレッドの怪我を見てやれ」とイズルが指示を飛ばしていた。実際イズルはほぼ無傷だった。あの熊の一撃ならば並みの防御魔法を貫通していてもおかしくは無さそうだったが、完全に防ぎきっていたらしい。騎士に鍛錬を付けてもらった実力は伊達ではないようだ。実戦を積めば相当の強さになるだろう。
「ありがとうございます、イズル様、それと」とフレッドと呼ばれた護衛は手当をされながら、ヘレンへと視線を向ける。
「ありがとな、嬢ちゃん、あんたがあんなに強いとは思いもしなかった。おかげでイズル様も無事だ」
ヘレンはふふっと「当然のことをしたまでだよ」と、得意げな笑みを浮かべた。
「……今夜はぐっすり眠れそう」
「この場で寝ないでくれよ、頼むから」
ヘレンが気の抜けるような笑みを浮かべる中、イズルは怪我をした護衛に肩を貸しつつ、苦笑した。
これにて依頼完了――。
だが、危機はまだ去っていない。深い森の中から、赤い6つの瞳がヘレンを見つめていた。これ以上は気づかれてしまう。捕食者は獲物への欲望を抑え、夜の闇へと溶け込んでいった。
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