第二十九話
高地にある田ノ原では、周囲の山並みに一足早く沈んだ太陽が、山の
季節は夏至をとうに終えて小暑となっている。
祭りのさなかには大暑にもなる。
しかし梅雨らしき降雨もなく知らぬ間に夏に突入したかのような不快さばかりで、作業を終えた二人は汗を何度も拭う。
それでも夏の平均気温は二十八度前後。
浜通りや中通りと比べればもちろん快適だが、田ノ原に暮らす者としては充分な夏の知らせでもあった。
宇迦神社での濁酒の櫂入れを終えた悠亮は、袖で汗を拭いながらぼやく。
「なんか俺、あれこれ考え過ぎて疲れたし、腹減ったよ」
「いいね。じゃあコンビニに行こうよ。あたしも少し食べて帰りたい」
恵の提案に賛同した悠亮は手を打つが、こうした時間のせいで帰宅がより遅くなるという事実を忘れていた訳ではない。
「そうだな。コンビニに行こうぜ。そのあと俺んちまで送ってくれよ」
「何言ってるの? 普通は女の子を送るもんでしょ? それに悠亮んちはあたしんちより手前にあるじゃない」
「そしたら一緒のルートだし構わないだろ」
宇迦神社の参道前を横切るバイパス沿いに西に進み、コンビニエンスストアに向かう二人。
付近には街路灯も無く、行き交う車のヘッドライトも少ないせいか、辺りは徐々に闇へと包まれていくが、視界の先で煌々と灯るガソリンスタンドの照明は、向かいにコンビニエンスストアがある目印にもなった。
レジ脇のホットスナックやスイーツなどをそれぞれに購入した二人は、店先の駐車場の一角で間食を始めた。
神社で見舞われた奇妙な幻覚から来る恐怖はどこへ行ったか、背後から漏れる店内の照明と隣に居る恵の存在のおかげで、徐々に平静を取り戻した悠亮は口の中に残るアメリカンドッグをエナジードリンクで流し込む。
それでも背中は店内の照明に頼るようにぴったりとガラス窓につけて、もたれかかる。
恵は甘いミルクティーのペットボトルを片手にホイップクリームが挟まれた、たい焼き型の冷製スイーツを嬉しそうに頬張っていた。
甘味に甘味を重ねる行為という女子の思考は理解しかねる悠亮だったが、その幼馴染の素直な笑顔は、彼にはどんな労働の対価よりも得難いものであった。
何よりも幼い頃から見慣れたはずのものだし、これからは一切見られない可能性もある。
もし彼女が希望通り県外の大学に進学できたのなら、だが。
だからこそ、この晩は敢えて彼女に語り掛けずにはいられない悠亮であった。
「なぁ、改めて聞きたいんだけどさ。なんで恵が県外の大学に行きたいのか俺はちゃんと知りたいんだよ」
「えっ? 別に大した理由はないよ」
「進路は決めてるのか? 行きたい学部とか将来やりたい職業とか」
「そんなの後から決まるよ、きっと」
「その程度の理由で進路を決めていいのか? 全然関係ない勉強したり大学を無駄に過ごすことになるかもしれないのには後悔は無いのかよ?」
「それはその時のあたしが決めてくれるよ。今のあたしはとにかく、よそに出たいなっていうだけのことだもん」
やはり彼女の発言が腑に落ちない悠亮はさらに詰め寄る。
「やりたいことを卒業してから見つけたいなら、若松市内の大学じゃダメなのかよ。せっかく親父さんやおばさんが居る家を出て、何も見つからなかったらどうするんだ?」
「悠亮はおうちの蔵があるからそう言うだけでしょ? 普通の子なら進路なんて徐々に決めていくのが当たり前だってば」
「いや、俺はそうは思わない。ぼんやりとでも自分が目指したいものがあるなら、そこに少しずつでも近寄っておくべきだと思う」
「それは悠亮が恵まれているだけなんだよ。その歳で進路があるのって普通じゃないよ」
「だとしても就職なり、手に職を持つために専門学校に行く先輩もいただろ?」
「最初に選んだ道が一生続くなんて今の時代はほとんど有り得ないよ。転職したりフリーターやアルバイトで暮らす人だってたくさん居るじゃない。あたしのお父さんだってこっちに来るために転職したんだし。そのうちにやりたいことが見つかるのが自然だよ?」
二人の議論は平行線を辿る。
悠亮はなんとか彼女に田ノ原に残る道を模索できないかと願っていた。
対する恵はこの無駄な彼との会話を終えるために持論を繰り出す。
それはいつもの幼馴染どうしの丁々発止の会話ではない。
片方が挑発して着火させれば、もう一方が迎え撃ち騒々しい会話となるのに――と言ってもだいたいやり込められるのは悠亮の方だが――今日の彼らは非常に穏やか、かつ、淡々と話を続けていた。しかし互いの想いを相手に伝えるべく、言葉尻も選んで語尾は慎重に置くように対話をする。
「悠亮みたいに目指してる将来を決めてるのはエラいと思う。でもずっと遠くの目標ばっかり見てるから、近くにある物に焦点が合ってないんだよ。せっかく目の前にいろんな可能性があるのに、それを選ばないのはもったいないし、何が自分の未来に役立つか決めるのは自分なんだからさ」
「違うな。俺からしたら恵は結論を先延ばしする言い訳をしてるだけだ。しかもそれが田ノ原を出る理由になると思ってるとしたら、やっぱそれは違うと思う」
「だったら芸能人やスポーツ選手になりたいって頑張ってた子が、なれなかったのもフラフラしてただけだって言えるの?」
「そういうやつらは打ち込んでるものがあるだろ。夢中になれる何かがあるし、そのスキルを伸ばそうって必死なんだよ。でも恵はたぶんそうじゃない。きっと大学に入ったら『やっぱ違う』って言い出すに決まってる。その後もずっと『違うな』って言うに決まってるんだ」
「結果が伴わなければぜんぶ一緒だよ」
そこで恵はミルクティーのペットボトルを傾ける。
なので悠亮もそれに追随する。
一旦のブレイクタイム。
互いに一服したらまた滔々と語りだす。
「別に悠亮だっておうちの蔵を継がなくてもいいんじゃないの? お笑い芸人とか動画配信で食べていくとか考えた事無いの?」
「俺んちが商売やってる以上は、そんな訳にもいかないよ。うまくいかないかもしれないことをやるのは挑戦じゃない、ただの無謀だ」
「それこそさっきのスポーツや芸能レッスンに頑張ってる子の話と矛盾してない? 単にやりたいことがあるからエラいの? だから悠亮は自分もエラいって言いたいだけ?」
「そうじゃない。俺の目標だから目指してるだけだ」
「つまんないやつ」
これまでの他愛ない付き合いのように、盛り上げるでも言葉のプロレスを仕掛けるでもなく、単に彼を腐して紅茶を飲む恵。
自身が退屈か否かは自分や周囲が決めることだし、恵の意見は一方的であると思うものの、悠亮は彼女に反論もできずにいた。
恵が会話に飽きて終わったら単なる悠亮の悪口だけで終わってしまう。
しかし肝心の彼女はそれを全て認めるように遮断してきた。
そして続けざまに次の言葉を放つ。
「あたし、やっぱ田ノ原が好きになれないな」
「……なんでだよ? もう横浜に居た時の倍の時間をここで過ごしてるんだぞ。もう充分に恵は田ノ原の人間だろ?」
「そういうとこ。お節介で噂好きで、勝手に人のプライバシーに土足で入って来るとこ」
祇園祭は全てお党屋当番という隣近所の有志で運営される。
言い換えれば地元のコミュニティが強固という点だ。
しかし横浜から越してきた『よその子』の恵には、退屈で憂鬱で仕方なかった。
何をしててもご近所に知られ、何を志向するにもご意見番が進言する。
「お前、だって小学校に入ったばっかの頃はずいぶん大人しかっただろ? 今はもう立派に俺達の中に馴染んでるじゃん。もう仲間だと思ったからだろ?」
「そりゃあんなグイグイ来られたら静かになっちゃうよ。周りの空気読むのは横浜で慣れてるから。だんだん慣れていっただけ。それに震災とか余計なこと言えない空気だったでしょ?」
都会の生活は価値観を押し付け合わない空気の読み合い。
田ノ原での暮らしはパーソナルスペースに踏み込まれないように遮断する、距離感の読み合い。
そこで過ごしてきた恵も幼いなりに徐々に学んでいったことだが、ここで生まれ育った悠亮には衝撃にも似た言葉であった。
恵自身は知る由も無い事だが、『よその子』の彼女を田ノ原に受け入れるために、自分や莉緒達がどれだけの苦労を重ねてきたのかを理解されない不満もある。
それをただ空気を読むと断じられたのであれば、彼女の田ノ原での振る舞いは全て芝居であったのかと聞くこともできない。
「それでも俺は恵のことを諦めきれねぇ」
ともすれば男女の告白に近い表現であったが、今の彼は単に時間に流されていくだけの恵を許せなかった。
無論それは彼女も悠亮の真意を理解していた。
「別にあたしのことなんか気にしないで、お酒造りに打ち込めばいいじゃない。実家がここなんだから田ノ原には帰ってくるし、つまづいてもまた、ここからやり直せるもん。悠亮んちにも遊びに行くから」
追えば追う程に、嘲笑うかのように優雅に逃げる渓流の王。
そんな岩魚の姫は更に悠亮を幻惑する。
「ねぇ、あれ見てよ。夏の大三角形じゃないかな?」
恵はすっかりと日没を迎えた田ノ原の空を指差した。
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