第十七話

 田ノ原駅の北東部に位置する御蔵入おくらいり交流館。


 多目的ホール、公民館、図書館の機能を備えた町の中でも特に新しい建物で、非常に近代的なデザインが目を引く。

 一方で町を東西に貫くバイパス沿いには祇園祭を観光客に伝える祇園会館や、祭りを主催する宇迦神社が並び、さらに大型店舗や商業施設もある。

 過去と現在、伝統とモダンが融合する、町の歴史を凝縮した時間軸のような道路までやってきた二人は、自転車で走る間に旺盛な太陽に灼かれてすっかり蒸されていたが、エアコンの効いた館内に入ると、ようやくひと心地ついた。


 恵達は天井の高い廊下を通り、館内の一角に設けられた図書館に入る。


「あれ? 確かここにあったんだけど……」

「恵がコピーした昔話のやつか」

「誰かが借りてるのかな?」


 民俗、寓話ジャンルの書架の前で、恵は首を捻っていた。

 お目当ての本が一向に見つからないからだ。


「どんなタイトルの本で、何色のカバーで、何ページくらいの厚さなんだよ」

「それがあたしがひとりで来た時は、その本が気になってスッと手に取ったから、よく憶えてないんだよね……」

「しっかりコピーまで取ったのに、全然意識してなかったって言うのかよ」


 やむなくカウンターの司書に確認する恵。

 だが館内の蔵書検索をしてみても、それらしい文庫は見当たらない。


「おかしいな……どうしたんだろ?」


 ぶつぶつと小声で呟きながら恵は書架を端から何度も見直してみるが、やはり記憶の中に残る例の本はみつからなかった。

 一方の悠亮は、適当な伝承本や民話集を手にとってパラパラと頁をめくるが、索引や目次に掲載された『岩魚の怪』は彼がよく知る話で、恵が写した物語ではない。


「いったい恵は何の本を持ったっつーんだよ。幻覚だったんじゃ……ないよな。だって実際にここに本のコピーがあるんだもんな」


 恵は麻織りのトートバッグから例のコピーを取り出した。

 微かに読み取れるのは、物語の隅に印刷された頁番号。そして見開き一枚で完結する千文字程度の民話を扱った書籍という事しかわからない。


「このページ数から目星をつけるしかないね」

「おいおい、ここだけで何万冊あると思ってるんだよ。情報が足りねぇよ」

「とにかく探すしかないでしょ」

「はいはい。わかったよ」



 悠亮は腐りながらも先程手に取ったものの隣の本を開く。

恵も同様に自分の目の前にある書架の本を片っ端から目を通すが、やはり岩魚の怪談と言えば悠亮が披露した物語ばかりであった。


 しばらくは無言で本を探す二人だったが、しばらくすると悠亮はポケットに入れたスマートフォンを起動させて時間を確認した。


「悪りぃ、俺もう塾いかなきゃ。あとは恵ひとりでやってくれよ」

「いいよ、別に」


 何とも味気ない返答に、悠亮は心の内に秘めたわだかまりを隠し切れなかった。

 彼は若干の切なさを表情に浮かべたが、その気持ちを向けられた当の本人は捜索にかかりきりになっている。



 その瞬間。

 彼の心臓はどくんと大きく脈打つ。

 まるで胸の中で『ここにいる』と主張しているかのように。


 微かに息が乱れる。

 額には脂汗が滲む。

 霞む視界の先に立つ幼馴染に助けを求めるべきかと迷う程であった。

 僅かに視線を床に落とした悠亮は、すぐさま恵の顔を見た。

 だがそれは、もはやよく知る彼女ではない。


 そう、隣に居るのはまるで岩魚の姫。


 姿を見ようと覗き込めば岩陰に身を潜め、掴もうとすればするりと逃げられる。

 探し物に夢中になる余り、ほんの少し口元を開いた恵を見れば浅紅色の可憐な唇が咲き誇り、華奢な首から背中にかけて白い肌が見える。それは悠亮が握り締めれば、ぽきりと折れてしまいそうなくらいに細い。


 腕を伸ばして手中に納めるのは容易い。

 今なら岩魚の姫も他に気を取られている。

 この隙を逃さぬ手は無い。

 あともう少しだけ伸ばせば――。


「……どうしたの、悠亮? 塾でしょ?」


 恵の声で我に返った彼は息を呑んだ。

 無意識のうちに彼女へと向かっていた自身の右手を見て驚いた悠亮は、額の汗をシャツの袖で拭うと、目も合わせず軽い挨拶をした。


「あぁ、そんじゃ」

 足早に館内を出た悠亮は自転車に跨ると、塾までの道程を立ち漕ぎで駆け出した。

『俺いったいどうしたっつーんだよ。恵のこと気にしてるのか?』


 そんな風に自分を言い聞かせようにも先程の湧き上がる衝動は、思春期の少年が抱く性への欲求とは程遠いものであることはよく理解していた。

 彼女を求める気持ちには違いない。

 しかし自分のそれは、どこか破壊にも似た感情であったから――。




 図書室に残っていた恵も、その後は収穫無し。

 もう諦めて交流館を出ようかと思っていた矢先、彼女のスマートフォンがメッセージを受信した音を鳴らす。

 肩に掛けたトートバッグに手を入れてさっそく確認すると、それは莉緒からだ。


『めぐを塾に誘いに行ったら悠亮と図書館だって聞いたよ。まだいる?』

『いるけど悠亮は帰っちゃった』

『めぐがいるなら、あたしもそっち行くよ』



 友を待つ間、恵は図書館の外に出てベンチに座る。

 ずっと立ちっぱなしだったので、足を延ばしたりぶらぶらと振り上げながらペットボトル飲料を飲んでいた。


「たぶん誰かが借りちゃったみたいだから、本が戻ってくるまでとりあえず何日かここに来ないとな」


 静粛、私語無用の図書館に長く居た反動であろうか、恵は声に出してぼやきながら建物の外を眺めた。

 天が近い高地の田ノ原でも、夏の空はやはりまだまだ高いと実感させる雲の帯が、のんびりと風に乗って流れてゆく様がガラス窓越しに見える。

 まだ世間は梅雨という時期なのに全く雨が降らず、カレンダーを見れば既に夏になったと錯覚する程だし、このまま酷暑になるのではと憂鬱な気持ちにもさせた。



 恵は先程までの探し物の目的でもあった、書籍のコピーを見る。

 川天狗に魅入られ、水無川に身を投じた女性は一匹の岩魚になった。

 これが悠亮の知る『岩魚の怪』とは全然別ものだというのは、彼女も蔵書を確認している。


「いったいあたしはどこで見たんだろ?」


 これ以上は考えても埒が明かないのは明白である。

 しかし考えずにはいられない。

 ベンチに座ったままじっと手元のコピーを眺めていた恵は、視界の中に二本の脚が見えるのも、級友が声を掛けているのにも気づかない。


「おーい、めぐってば。何してるのさ」

「ひぃっ!」


 両の掌で頬を挟まれた恵は情けない悲鳴を上げる。

 それは御蔵入交流館の中に木霊した。

 莉緒は単に恵を驚かせるだけでは飽き足らず、事前に購入していた、溶かして飲む冷凍タイプのペットボトルでしっかりと掌を冷やしていた。


「あたしの声にも気づかないで、なにを真剣に読んでたの?」

「うぅん、別になんでもないの」

 恵は莉緒が現れるまで読んでいたコピーを乱雑に畳んで、トートバッグに仕舞う。


「せっかくだからちょっと談話コーナーで予習してこうよ?」

「その前にあたし、トイレに行ってくるね」


 トートバッグをベンチに置いて恵はその場を離れる。

 その隙に些細な興味から莉緒は彼女が残した荷物に視線を向けた。

『めぐがあんなに真面目に読んでたの、どっかの大学の受験要綱かな?』


 友には悪いと思いつつも莉緒はそれを確認せずにはいられなかった。

 ついさっきやり取りをした悠亮にもしっかり彼女を監視するよう言われたから。

 畳まれたコピー用紙を慎重に開いた莉緒は我が目を疑い、何度も紙を裏返す。

 照明に透かせてみたり、めくりの頁があるのでは、と角を擦ったりしてみる。


「……なにこれ?」


 それは何も印刷されていない、ただの真っ白な紙であった。

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