第十八話

「ごめん、お待たせ」


 恵が戻って来たのを確認すると、莉緒は自分のショルダーバッグを叩く。

「オッケー。そしたら塾の前にテストの予習しとこ」

「あたし、何の教科書もノートも持ってきてないよ?」

「そうだよね……って、マジで!?」


 なるほど、先程のトートバッグの様子なら確かに、と頷く莉緒だったが、すぐに目を大きく見開くと恵の肩を小突いた。


「なによ、悠亮と図書館で勉強するっておばさん達に噓ついたの? めぐさぁ、受験前の大切なテストなんだから学校の内申もだいじなんだよ? あたしは先に塾の自習室で待ってるから取りに行きな。講義は三時からだよっ!」

「うん、ごめんね」

「ゼッタイ来ないとダメだかんね!」


 恵は莉緒に手を振ると交流館に隣接する駐輪場へと向かった。

 エアコンの効いた館内から外に出た途端、蒸した熱気に覆われた町との外気温差が一気に身体を襲い、眩しく輝く太陽は落ち着いた照明の館内に慣れて瞳孔の開いた恵の視界を奪う。

 右の掌を額に当てて目元を陽光から隠した恵は、それで例の彼女の事を想い出した。

 水無川のほとりに佇む日傘の彼女を。

 こんな日こそ日傘がよく似合う。


「あそこに行ってみよう……あっそうか、莉緒と塾があるんだっけ」


 こうなることを恵自身も完全に予見できなかったかと問われれば、噓になるかもしれないが、でも先程、莉緒には別の理由で謝罪したから、これで良いかと勝手に落着していた。

 恵は自転車の前籠にトートバッグを放り入れると、バイパス沿いを東へと向かう。



 祖母に説教されてからは、しばらくは素直に莉緒と塾に行っていたので、週末を迎えて数日ぶりの訪問となる。

 恵には、はたして智津子は今日も居るのだろうかという不安もあった。

 しかしそこにはいつもの通り、日傘の少女が腰をおろしている。

 また会えたという安堵の気持ちと、この数日間もここで独り自分を待っててくれたかもしれない詫びの気持ちが交錯しつつも、ほんの少しいたずら心が芽生えた恵は、莉緒にされた真似をしてみようと、息を殺して彼女の背後にそっと近づいた。



「久しぶりね、恵」

 彼女は振り返るでもなく穏やかに言う。

 しかし風に揺れる草葉の音に紛れることなく、恵の耳にも届く凛とした声で。


「なんだ、気づいてたのか」

 彼女の姿を発見する直前まで相当な物音を立てて雑草を薙ぎ払い、河川敷の石を踏みしめながら歩いていれば当然の帰結であろうことは恵にはわからずにいた。


 今日も智津子は白いワンピース姿で白の日傘を差す。

 しかし先日と完全に同じという具合ではなく、日傘もワンピースも若干デザインが異なる物であるのは恵もすぐにわかった。

 このコーディネートが好みなのだろうが、パンツとスニーカーで必死に草を漕いだ恵とは異なり、足元も露出しているのに全く虫に食われたり小枝に引っ掛けた様子もない。

 映えるお嬢様は自身の所作だけでなく、自分で選択した行為に対する顛末をも予想して先回りしているのだろう、と恵も素直に感心していた。



「ねぇ智津子ちゃん。あたしが前に話した岩魚の怪談の話って憶えてる?」

「もちろん憶えているわ。どんな話だったか調べてきたのね」

「それが不思議なことに、なんか民話がふたつ残ってるっぽいの。あたしが知ってるのとクラスメイトの男子が知ってる話が全然違くて」


 日傘越しに小さく頷いた智津子は、わずかに顔を恵に向けると微笑を浮かべる。


「どっちが気になるの?」

「えっ? やっぱそれはあたしが見つけてきた話だよ。だってさ、図書館でお話の載った本を見つけたからコピーしたのに、その男の子と一緒に探した時は急に本が消えちゃってたんだもん。そりゃ気になるよ」

「そうじゃなくて、岩魚の怪談とその男の子のことを比べてよ」


 しばらくは智津子の発言の意図がわからず何度も瞬きをする恵だったが、ようやく彼女の真意を理解した恵は、別段照れるでもなく苦笑しながら両手を振った。

 この手の質問は莉緒や他の女子からたくさん受けてきたから。


「悠亮って男子のこと? 別に無い無い。だってお父さん同士が一緒に仕事したり仲良しだからずっと一緒に居るけど、単なるご近所さんみたいなものだもん。ご近所って言っても、その子は上町であたしは西町だから、ホントにただのクラスメイトだってば」


 すると智津子にしてはこれまでとずいぶん異なる明快な笑顔とともに、やや呆れたような息を漏らした。


「でも彼の話をするときの恵は饒舌よね」

「まぁね。男子ってよくわからない生き物だけど、あいつは分かり易いの」

「それは残念な話ね」

「そうなんだよ。あいつは残念なやつなの」

「それだけじゃないけどね」


 言うなればこれも、町の他の人と繰り返すやり取りのひとつに過ぎない。

 なので話題が収束するまでは、他愛ない言葉で濁すだけ。

 しかし、恵の言葉を遮るように、智津子は日傘を握っていない左の掌を向けると、立ち上がって彼女の視界を奪うかのように瞼を隠す。


「えっ? ちょっ、智津子ちゃん……」

「さぁ、恵。もう一度、自分の心の声に耳を傾けてみて。今日その子と一緒に見た新聞記事と岩魚の怪談、それに祇園祭のことを。まだ何か自分自身に隠していることは無い?」

「隠していること?」


 たったいま、彼女に図書館の新聞記事の話をしたであろうか。

 疑問を浮かべつつも智津子に言われるまま素直に目を閉じた恵は、誘われるように自身の思索を心の奥底へと向かわせる。


「そもそも恵はなんでよその大学に行こうとしたの? なんでこの町を出ようと思ったの?」

「えっ? だって嫌なんだもん、こういうご近所のことまで何でも知りたいっていう空気が……あっ、もし智津子ちゃんが田ノ原を好きだったらゴメンね」


 慌てて取り繕おうとした恵を制止するように、変わらず智津子は相手の目を覆い隠した。


「それはなんで?」

「なんでって言われると……あたしやっぱ、よその子だもん。ここに馴染めない」

「それはどんな理由で?」

「別にあたし自身の理由じゃないんだけど……お母さんは女のひとりっ子で、結婚したお父さんが婿養子に入ってるなんて、子供のあたしが全然知るはずもないじゃん。あたしが幼稚園を卒園したタイミングで、急にお母さんの実家に引っ越すって言われてさ……ホントは正直あのまま横浜で暮らしてたかったなって思う」

「その理由の理由を知りたいわ。恵自身のもっと深いところを見て」

「それはなんでだろ……あんまり自分でもわかんないけど……」

「いい? もっと自分の奥深くを覗くのよ」


 しばらくはこの状況に違和感を覚えた恵だったが、過去に経験した自分のあらゆる記憶の断片が溢れだした。

 まるで水音と共に流れ落ちる水流のように、記憶の滝から時間の雫が幾つも飛び出しては消えてゆく。

 やがて目を瞑っていれば、どうしても『あの頃』の記憶が蘇る。

 自分が幼い頃から感じていた違和感を。


「どう、恵? 何が見えるか教えて?」


 もちろん恵には、はっきりと見えているのだが智津子の手前、せっかく友人になれた彼女に向けて言える言葉ではない。

 それにやはり先程まで行動を共にしていた、ここに来てからの付き合いになるクラスメイトの存在も気に掛かった。

 もちろん彼らの前で決して言えない本音もある。

 これ以上は今ここで話すのを憚られたので、恵はぎこちない笑みを浮かべて回答をはぐらかそうとしていた。


 ところが恵が目を開くと、そこには既に智津子の姿は無かった。

 慌てて立ち上がると周囲を見回して、あちこちに視線を配る。

 やはり彼女の姿は見えない。

「ちょっと智津子ちゃんってば! なんで今日はずいぶん乱暴に居なくなるの?」


 思わず不満を漏らさずには居られない恵だが、山から川底に吹き下ろす風に乗って智津子の声が聞こえたような気がした。


『もっと奥深くを見つめて。自分の声が届かない忘れかけていた川の底まで……』

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