第十九話

 それからしばらく後。


 八十分に及ぶ講義の一コマ目を欠席した恵がようやく現れたことに、莉緒は安堵と怒りと落胆が混ざり合い、平静さを保つのに必死であった。

 そんな莉緒の気持ちは知る由もなく、恵は彼女の隣に座ると悠長にノートや参考書を広げる。


「思ったより遅くなっちゃった、ごめんね」

「あたしじゃなくて、めぐはおじさんやおばさんに謝んな」

「謝るの? なんで?」

「なんでじゃないよ、めぐが県外の大学を目指してるから、受験や一人暮らしを許して貰ったんでしょ。それなのに全然勉強しないで平気なの?」


 ずいぶんと手厳しいことを言う友の怒りが理解できず、莉緒の顔を見ているうちに恵も居心地悪くなり、ノートに目を落として黙り込んだ。




「……っていうことでさ、悠亮も一緒に親に謝って欲しいの」

「訳がわかんねぇよ。なんで俺が恵の親父さん達に謝るんだよ」

「結果的にあたしが塾に行かなかったのは、悠亮が本気で止めなかったせいだから」

「俺を巻き込むなよ。俺はお前の兄貴でも弟でもねぇっつーの」


 明けた日曜の午前。

 年末年始を除いた不定休でもある権現酒造の売店では、今日も今日とて悠亮はカウンターに座りながら参考書を開いていた。


 世間並みのアルバイトの時給とは程遠い額だが、家業の手伝いでもあるし、こうして勉強をしながら小遣いも発生するのであれば、ここに勤める蔵人や父の気忙しさと比べると、まだ高校生の彼としては気楽な稼業であった。

 すると自動ドアの前に立つ人影に気づく。

 それがすぐに誰であるかわかったので、彼は昨日のように接客するでもなく、ただその人物が入店するのを待っていた。


「よう、恵。頼まれてた親父さんの宅配便は手配しといたぞ」

「うん、ありがと」


 今日の恵は黒い半袖シャツにカーキ色のズボン。肩には麻のトートバッグ。

 ほぼ昨日と代わり映えしない私服だったが、それでも学校の制服やジャージ姿よりは新鮮味を感じる悠亮であった。


「それでさ、悠亮に頼みがあるんだけど」

「頼み?」




 そこへきて先程の会話である。

 悠亮は言葉も無く頭を抱えると、そのままカウンターに両肘を置いた。


「……まず謝るべきは莉緒だろ?」

「だから莉緒に謝ったら親に謝れって」

「それ本気で言ってるのか? お前さぁ、高三にもなってそんなにフラフラしてて共通テストは大丈夫なのかよ。もしかしたら莉緒だけじゃなくて俺まで恵の成績を抜くかもな。白無垢みたいに答案が真っ白になるぞ」


 いつもやられてばかりの悠亮は、腑に落ちない先制攻撃を受けた相手にお返ししてやろうと、敢えて言葉のプロレスを仕掛けに行った。

 しかし恵は特に反応も示さず悠亮を軽くいなして、店の中に入ってくる。


「そんなことよりさ。けっきょく、昨日はあたしひとりで図書館に残って調べてたけど、何にもわかんなかった」


 せっかくの売り言葉を『そんなこと』と二束三文で買われた悠亮は、明らかに狼狽する。会話なら相手の方がまだまだ上手であった。


「……まぁそうだろうな。とにかくコピーした本が戻って来るのを待つしかねぇよ」

「だから返却されたか、これから確認に行こうよ」

「またか? 日曜祝日だって受験に休みは無いんだぞ? 学生ってのは年中無休なんだ、俺は今日も塾だっての」


 恵は悠亮に何も言い返さず、用意しておいた彼の弁当を静かにカウンターに置く。

 今回は昨日のおにぎりよりも手間を掛けたサンドイッチだった。

 丁寧に耳を落とした厚切りの食パンには、粗く砕いたタマゴフィリング、照り焼きソースのチキンソテー、そしてベーコンにレタスとキュウリの生野菜。


「なんだよ? 俺を買収しようってのか、そうはいくかよ」

「この田ノ原の謎を解くまで、悠亮はあたしに付き合ってくれるんじゃないの?」

「それも時と場合によるだろ。とにかく今日は勘弁してくれよ」

「でも今日も悠亮と勉強って言っちゃったの。こうやって悠亮のおべんと作ってたから、おばあちゃん達を騙せたんだもん」

「お前さぁ、そういうすぐバレる噓やめろよ。たぶんおばあさん達、騙せてねぇから」

「じゃあ一緒におばあちゃん達に謝ってよ。『僕も口裏を合わせて嘘ついてました』って」

「お前だけで手一杯なのに佐藤さんちの事まで面倒みきれねぇっての」


 すると恵は薄ら笑みを浮かべながら悠亮には視線も合わせず、すっとぼけた風の表情と間延びした緩い声で、彼を脅迫する。


「あたしとぉ、悠亮はぁ、神社でぇ、秘密の白無垢をぉ~」

「あぁもう、わかったよ! とにかく期限は昼の二時までだからな!」

「それではさっそく参りたいと思います。じゃあ悠亮くん、例のアレを」


 恵は通りに面した入口の自動ドア脇に停めた自転車を指差す。

 要するに自分にも早く外出の支度をしろという彼女の合図だと受け取った彼は、屋号の入った半纏を乱暴に脱ぐと母屋の奥へと向かって行った。




「今日はあたしなりに調べた田ノ原の祇園祭と、岩魚の怪談のことなんだけど」

「なに? お前は結局あのあと祇園祭のことまで調べてたの?」


 二人は畳敷きの小さなテーブル越しに向かい合っていた。

 図書館の中だと大きな声での会話もままならない。なので恵は談話コーナーの一角にある畳の上に低いテーブルが置かれた和室スペースをしっかり予約していた。

 こういう手際の良さには悠亮も思わず舌を巻く。


「まずは例の昔話『岩魚の怪』なんだけど」

 そしてテーブルに資料、もとい昨日のコピー類を広げた恵は話し始めた。

「悠亮の言うバージョンの怪談も、あながち間違いじゃないなって思ってさ」

「そりゃそうだろ。少なくとも田ノ原では俺の知ってるバージョンしか存在しねぇと思うよ」

「草の実や根っこを煎じた『根』っていう毒を流すでしょ? それが根流し。だけど和尚さんに化けた巨大岩魚を殺しちゃったもんだから、木こりもどんどん倒れたんだよね」

「そうだな。間違いなくそういう話だったはずだよ」


 そこで恵は和室スペースを借りる前に何冊か手に取った蔵書のひとつを広げた。

 いわゆる福島や会津の民話を纏めた書籍だ。

 それの見当をつけていた目的の頁に至るまでぺらぺらとめくる。

 本の向きを百八十度返して見開きが悠亮に見えるように見せると彼に問い掛けた。



「悠亮は祇園祭の歴史って知ってる?」

「もちろん。割と観光客に買い物ついでに訊かれたりするからな。俺も勉強したよ」

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