第十二話
しばらくは悠亮の父から視線を外すように、窓の外を眺める恵。
だが突如として記憶の奥底から蘇った情報が湧き上がり、景色の断片が脳裏に溢れだす。
視界と思考の狭間にある
それが水無川に起因する内容であるのは確かであった。
以前、悠亮と封印された白無垢と見た記憶と共に蘇ったその姿。
あの魚が何であるかはわからないが、それが登場する物語は確実に知っている。
ここ田ノ原に伝わる昔話だと。
なので反射的にそれを悠亮の父に聞いてみたくなった。
「そういえばあの川にまつわる昔話がありませんでしたっけ? えっと確か水無川には川魚が住んでて、どうしたこうしたって」
ハンドルを両手に握りながら正面を見据えていた彼は、隣に座る娘を見た。
「そんな話あったかな?」
「間違いなくありました。だっておばあちゃんに聞いた気がするんですよ。なんだっけな、確か
「あぁ『
悠亮の父は一笑に付すといった具合に、県道に掛かる橋の下に広がる水無川に視線を向けたが、恵はその答えを待っていたとばかりに話題を掘りさげた。
「そうだ、岩魚だったと思います。それってどんな話でしたっけ?」
「この田ノ原に古くから伝わっているだけの些細な怪談さ」
「なんとなく怖い話だったような気がしますけど、違いますか?」
「怖い話と言えなくもないが、むしろ昔話にはよくある戒めみたいなものさ。『悪の報いは針の先』ってね」
「祇園祭とは全然関係ない話なんですか?」
「どうだろうね。私もここに生まれてずいぶん長く住んでるが、もはや地元でも語られる事も無い物語だし、私もすっかり忘れてしまったよ。関係性を見出すのは難しいんじゃないだろうか? むしろおばあさんから聞いた恵ちゃんの方が詳しいんじゃないかな?」
「でも戒めみたいな話ってことですよね?」
「さてなぁ。私のばあさんもよくそうやって語ってくれたから、タイトルや雰囲気だけは憶えているんだろうね」
そう言われた恵だったが、いまいち腑に落ちずにいた。
しかしその昔話を随分と詳しそうな素振りは彼の発言の端々に感じ取れた。
もっと仔細を聞きたい、根掘り葉掘り尋ねたいという欲求がありつつも、相手は同級生ではなく、その父である。
あまり彼の迷惑になっても悪いと思いながらも、首を縦に振るしかなかった。
そんな恵の仕草を運転しながらも横目に捉えた彼は静かに語りだした。
「この田ノ原の歴史も変わっていくものさ。水無川の姿や有り様もね。時代の移ろいと共に昔話も変わっていくし、徐々に語られなくなるものだよ」
「……それも寂しい気がするな。時間が経つと無くなっちゃうなんて」
運転席に座る級友の父へともなく、一人呟きながら恵は流れる車窓を見ていた。
受験をして外部の大学へ行くと宣言し、四年ぶりの祭りに辟易とする者が、よもや地元に伝わる昔話が廃る世を憂うという、相反する矛盾には恵自身も気付いていなかった。
やがて中心街へと入って来た車は駅前広場を通り過ぎ、旧街道の一角で停まった。
権現酒造の店先では家の手伝いを終えた悠亮が自転車に乗り、塾へと向かう準備をしていた。
いざサドルに跨ろうかという時に見慣れたバンの助手席からは、見慣れた同級生が降りてきたので驚く。
しかも向こうは私服姿だ。ホームルームを終えたらすぐに帰宅して着替えたのに、塾にも行かずにどこかを放浪していたであろうことは、悠亮も即座にわかった。
だが、恵が他の男性のエスコートでやってきたことに対し、心の中に小さな棘が刺さったような言い難い感情が微かに芽生える。
無論、相手は自分の父である。
間違った事が起きるはずもないと願いたい。
そんな事を考えてしまう己の心の弱さを振り払うと、悠亮は至極平静を装って恵に声を掛けた。
「なんだってんだよ。恵さぁ、莉緒と一緒の塾をサボってどこ行ってたんだ?」
「今日は塾は無いよ」
「バカ言うな。莉緒は俺と別れた後にちゃんと塾に行ったぞ? そんで親父のクルマに乗ってどこまで行ってたんだよ。まさか住み慣れたここで迷子になった訳じゃないだろうな?」
「そんなんじゃないの」
近くに悠亮の父が居るからなのか、恵も彼の喧嘩を買うでもなく妙に大人しくなっているので調子を崩した悠亮はそれ以上の会話を諦めた。
息子達の様子を見て苦笑しながら、悠亮の父は手際よく恵の電動アシスト自転車を荷台から降ろした。
父の姿もあるので長居は無用と判断した悠亮は、自転車のペダルに右足を乗せる。
「あんまし莉緒を心配させるなよ。今からでも塾に行けよ。そんじゃあな」
『今日もめぐは塾に来てないよ?』
「おいおい、あいつ何を考えてるんだよっ!」
莉緒から届いたショートメッセージを見た悠亮は、スマートフォンの画面を幾度も眼前に寄せる。
昨日、自宅の酒蔵で恵と時は、敢えて学校ではそれについて再度尋ねることはしなかった。
しかし莉緒には簡単に経緯だけは伝えていたところのこれである。
前髪を掴みながら店のカウンター奥にある椅子に座った。
『あいつを捕まえるって莉緒は一緒に帰っただろ』
『それが一旦家に帰るからって別れたんだよね。自習室で時間潰そうって言ったんだけどやっぱ強引に帰っちゃった』
悠亮はすぐに恵に向けてメッセージを送ったが、返信も既読もない。
痺れを切らすと嘆息を漏らしながら店内の電話機に向かった。
そしてプッシュボタンで恵の家の電話番号を押して応答を待つ。
『はい、佐藤です』
「あ、権現酒造の木嶋です。こんちは。あのぉ、いま恵さんって居ますか?」
『あら悠亮くん? 恵は塾に行くってついさっき出たけど』
「そうなんすね。いや、伝えたい事を忘れてたんすけど大した用事じゃないんで、また明日にでも学校で本人に言います。すいませんした。失礼します」
受話器を置いた悠亮は莉緒に向けてメッセージを送り返す。
一方の佐藤家でも通話を終えた恵の母は何かを察して祖母に仔細を伝える。
「恵ったらまた塾にも行かずにフラフラしてるみたい。いま木嶋さんちの悠亮くんから電話があって……」
「確か昨日も木嶋さんのご主人に送ってもらったみたいじゃないのさ。いったいあの子は何を考えているんだい?」
話題の渦中に居る恵はまたしても自転車を漕いで、山へと続く緩やかな道を進んでいた。
彼女の視界の端には水無川がある。
もちろん昨日出会った、どこかの学校の生徒であろう同年代の日傘の少女に会うためだ。
二日連続で塾を欠席することには若干の後ろめたさもある。
しかし、何故か川辺の彼女に会いたくて仕方がない。
あの子にも白無垢のことや、岩魚の怪談や、受験や進路について尋ねてみたいという欲求が勝ってしまった。
学区が違うのか町では見かけないけど、同年代のあの子ならばきっと自分の気持ちも理解してくれるかも、と願って。
どこまで走っても、さして代わり映えのしない水無川沿いの風景だが、おおよその見当を付けて自転車を停めた恵は付近を見回す。
昨日築堤を兼ねた幅の狭い道路から草を薙ぎ、踏みしめながら歩いた場所を探していた。
おそらくこの辺りであろうという場所には少しだけ傾いだ夏草の群れがある。
確信は無いものの、願うように恵はその跡を辿って川面へと向かった。
逞しい雑草達はたった一日でまた密度を増したかと錯覚する程で、難儀しながらも左右の両手足を使って草を漕ぐ。
するとそこに、またひとつの鳴き声。
「ミャーオ」
「昨日の猫ちゃん? どこに居るの、こっちに来てよ」
偶然に居合わせた猫が少女の飼い猫か否かはわからないが、恵がいま会いたい本懐はその猫ではなく飼い主の方だ。それでもこの声が彼女に聞こえていればと思った故に、相手の警戒心を解くために敢えて猫に向けて呼び掛けていた矢先――。
一陣の山おろしが吹き乱れ、夏草が互いに擦れ合い、さわさわと鳴り騒ぐ。
揺れ動く草が深く身を折り曲げた先に、開けた水無川の川底が見えた。
そこは白く磨かれた丸い石ばかりで、その名の通り今日も肝心の水は見えない。
一面の白色の絨毯の中に、白の日傘。
そして透明感のある白い肌。
昨日出会った少女だ。
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