第十一話
対岸に居る日傘の少女は、恵の学校では見覚えの無い子であった。
会津田ノ原高校はこの町にある唯一の公立高校で、一学年につきクラスは二つしかない。
小学校と中学校は二か所あるが、やはり当時の大半は知った顔。
学区外の子、もしくは会津若松市内の私立高校に進学をした子か、親の都合で町を去った子かとも思えた。
そう考えれば小さな山合いの町とはいえ、恵も高校生全員を知っているとは断言できないので、彼女も特段の違和感を覚えなかった。
むしろ、彼女も平日の放課後に同じようにここに居る事への興味が沸く。
そして少女の足元には先程の声の主と思われる猫が一匹、座っている。
顔の周りと腹にかけて覆う白い毛に対して、主張するかのように立体的に浮かび上がる鈴の付いた赤い首輪。
彼女の飼い猫だろうか、その三毛猫は時折、顔を上げて日傘の彼女の掌や脚に頬を擦り寄せると、また傘の下で昼寝を再開する。
そんな愛くるしい様子を見ているうちに、当然のように恵の視線はすぐ隣の少女に向けられた。やはり見た事の無い女の子だ。
相手もそれに気付いたのか、彼女は恵に向けて手を振った。
こちらに来い、と手招きをしている。
恵はごろごろと横たわる乾いた川底の石の上にそろりと靴を置いた。
足元の悪さゆえ歩きにくさはあるものの、これだけの晴天続きで水無川のその名の通りに水流が姿を消していれば、さすがに苔や水藻で足元を取られる事も無い。
容易に対岸に辿り着いた恵は、草むらの上に腰掛けた少女に歩み寄った。
肩に引っ掛けた白い日傘に隠れた顔はとても透明感のある肌で、今時珍しく染色していない黒い髪との対比をさらに際立たせる。
これが陽射しの下であれば、もっと彼女の色白さがわかるのであろう。
三毛猫は近寄る恵には気にも留めず、相変わらず傘の影の中で主人に寄り添う。
こうして太陽の下に居るだけでも人間は汗ばむ気候だというのに、被毛に覆われた彼女はまるで風を集めて涼を得ているかのように平然としている。
肝心の呼びつけた日傘の当人はと言うと、恵に声を掛けるでもなく川面を見ている。
無論、今は完全に干上がっているので川底が正しいのだが。
手招きしたのだから招かれざる状態では無いのだろうが、自身が近寄っても一向に言葉を発しない日傘の少女に恵も困惑した。
「……あなたは学校に行かないの? ってあたしも塾をサボったけどさ」
どうにかコミュニケーションを図ろうと恵は声を掛けるものの、相手からの返答はない。
「この町のどの辺に住んでいるの? 水無川が好き?」
それでも日傘の彼女は答えない。
やむなく恵は少女の隣に腰をおろした。
陽で灼けた石よりは幾分しのぎやすいものの、陽光に晒された夏草も充分に熱い。
尻から下腹部に掛けて蒸した空気がズボンと肌の隙間を駆け上がるようであった。
恵は根気よく相手からの答えを待つために、足元の草を指先で弄ってみる。
「わたしは……」
そこでようやく相手が声を発したので、恵は日傘の主の顔を覗き込んだ。
どこか虚ろな目でじっと水無川を見ている。
最初は恵も、暖かくて気持ち良いから眠いのかな、ぐらいの気持ちであった。
しかしその焦点はどこにも合っていないようであった。
でも眼前の景色を認識していないくらい考え込んでいるみたいでもあるし、逆に目の前の光景には何の価値も見い出していない具合でもある。
「わたしはあなたのような子を待っていたのかもしれない」
「……あたしを?」
相手の言葉が咄嗟には理解しかねた恵は素直に首を傾げた。
果たして、自分はこの子と一緒のクラスになったことがあるのだろうか。
もう忘れているだけかもしれないが、小学校か中学校の時の子なのか――。
記憶を手繰り寄せながら考え込む恵には一瞥もせず、日傘の少女はおもむろに立ち上がった。
「あなたに会えてよかった。ずいぶんと待ったものよ」
「あたしを待ってた? あたし達どっかで会ったっけ?」
「これまでずいぶん長い時間が経ったけど、また楽しみが増えたわ。またここで会おうね」
そう言うと少女は水無川の両岸にある堤防も兼ねた狭小な道へと歩き始めた。
そんな主人を追うように三毛猫も鈴を鳴らして四肢で草を踏みしめる。
「あっ、ちょっと待ってよ!」
恵も慌てて立ち上がり、少女と猫の後を追った。
しかし背の高い夏草の中を平然と漕いでゆく相手に対し、チクチクと肌を痛める種子や小枝に難儀しているうちに、どんどんとその姿は遠ざかる。
ようやく築堤の上までやってきたところで、視界には走行中の軽バン車が迫った。
反射的に恵は目を閉じると、全身を硬直させる。
閉ざした瞼の向こうで、車のタイヤが急ブレーキによる甲高い悲鳴をあげた。
しかし恵自身の肉体には異変は無い。
「あぁ、驚いたな。こりゃ佐藤さんちの恵ちゃんじゃないか。こんなところでいったいどうしたんだい?」
何やら聞き慣れた声に、恵はすぐに瞼を開く。
それは運転席の窓から上半身を乗り出す悠亮の父の姿であった。
「この時間は村木さんのお嬢さんと一緒に塾じゃなかったのかな?」
村木とは同じクラスの莉緒のこと。
さすがは田ノ原の住人の中でも特に有名な権現酒造の代表。
情報通なのも悠亮や莉緒の比ではない。
本来はここに居るはずも無い自分のことまでちゃんと把握していたのだから。
恵も内心、驚いたが、それよりも驚かされたのは日傘の彼女の行方だ。
「あ、いえ、今この辺に座ってた女の子がこっちの方に行ったはずで……」
「さて、恵ちゃん以外は車からは誰も見えなかったけどね」
「ホントですか?」
悠亮の父の言葉に驚いた恵は周囲を見回すが、やはり彼の言う通り人の姿は見当たらない。
「どこの学校の子なんだろ?」
辺りを見ながら独り言を呟く恵につられて、悠亮の父もまた付近に目を配る。
「恵ちゃんは学校から歩いてここに来たのかい? 良かったら送っていくよ」
「いえ、それが……」
恵は水無川の対岸を指差す。
その先に見えるのは築堤に停められた恵の愛車だ。
荷台を空にしたバンの後部には横倒しされた恵の自転車が置かれている。
その持ち主は助手席に座り、悠亮の父の運転で市街地へと戻ってきた。
盛夏ではないので車内の冷房もまだ必要はない。
全開にした窓の外からは濃密な緑の香りが鼻腔をくすぐり、乾いた風が頬を撫でる。僅かに染色した恵の髪は風になびかれて揺れている。額の汗も知らぬ間に乾いていた。
車中ではしばらく二人とも無言だったものの、このまま会話が無いのも失礼になるし、何より塾にも行かずに何故あそこに居たのかと問い詰められたらたまらないのも正直なところ。
居心地の悪さやよそよそしさに堪えきれないぎりぎりのタイミングで、恵は言葉を発した。
「おじさんはどうしてあちらに?」
「この先の
「宇迦神社の祇園祭で飲まれるどぶろくだけでなくて、いろいろされてるんですね」
「それにしても恵ちゃんはどうしてあんな水無川の中流に居たんだい? いくら電動自転車でも町の中心地からは相当な距離だったろうに。それに塾の時間でしょう?」
逆に質問で返された恵は返答に困った。
しかも触れられたくない点にもしっかりと触れられたから侮れない。
なので干上がった水無川のように乾いた笑いを交えるのが精一杯だった。
「アハハ、あの川が好きなんですよ。水は無いのに丸い石がたくさんあってキレイですよね」
反射的に言ったものの取ってつけたような馬鹿馬鹿しい理由に内心、恵も呆れていた。
そんな自分の心の内を見透かされた訳ではないだろうが、悠亮の父からは僅かに諫めるように穏やかながらも確かな口調で諭された。
「いくら水無川といえど雨と台風の後は決して寄らない方がいいよ。一気に増水したら暴れ川になるからね。闇雲に近づかない方がいい」
子供の頃から何度も言い聞かせられた、お決まりの文句だが、高校生になってこれを言われるのは初めて。
何となく居たたまれずに車窓を眺める恵だった。
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